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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
57歳
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)

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大楠公六百年斎行記録之碑
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大楠公六百年齋行記録之碑

昭和九年建武中興六百年ニ會シ湊川神社社頭新装成ル十一月兵庫縣竝神戸市ノ官民胥謀リ六百年大祭奉賛會ヲ起シ至誠恭敬ヲ■シテ大祭ヲ齋行シ公ガ精神ノ宣揚時勢ノ匡救ヲ策シテ各種ノ記念事業ヲ議決シ役員ヲ委嘱ス十年一月祭費ヲ勧募スルヤ神戸市會ハ率先資金獻納ヲ可決シ尋テ兵庫縣亦獻資朝野ノ有志競ウテ之ヲ翼賛シ崇敬ノ實豫期ノ額ヲ超ユ神徳■焉民心感奮明ニ祀典ニ顕現ス事 天聴ニ達シ祭■料若干ヲ下賜各宮殿下亦幣帛ヲ獻ス大祭ハ五月二十五日ノ正辰ヲ以テ奉行ス其ノ前祭後儀尚荘重殷盛ヲ極ム天之ニ幸シ期間多ク快晴真ニ神人感■上下和楽克ク奉仕ヲ終ル殊ニ大祭當日海軍軍楽隊ハ呉鎮守府ヨリ来リ列シ吹奏ヲ奉事シ軍艦天龍特ニ警備ノ為扇港灣頭ニ投錨ス参列ノ縉紳實ニ四千五百名二十六日神輿東ハ灘區に幸シ一夜輦ヲ大倉山行宮ニ駐ム市民歓呼シ各種ノ演技ヲ奉奏ス翌日更ニ西方須磨ヲ巡シテ還幸扈衛ノ官民三千有餘鹵簿ノ編成供奉ノ調度悉ク新制ナリ蓋シ前古未曾有ノ盛観沿道奉拜ノ人ヲ以テ■ム
嗚呼 公ノ英霊昭和聖代ニ更生シ神縁愈々厚ク幽契益々深キヲ想フ洵ニ恐懼感激ニ堪ヘス■■別録ニ在リ即チ要ヲ■刻シ敢テ後業ニ傳フト云爾

昭和十年八月

大楠公六百年大祭奉賛會長 勝田銀次郎

(碑文より)


【兵庫県神戸市兵庫区・湊川公園】



史跡 | 16:12:48 | Comments(0)
大楠公銅像建設碑
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大楠公銅像建設碑

昭和十年五月二十五日大楠公六百年祭ヲ神戸市ニ擧行スルニ當リ其史蹟地ニ公ノ神威ヲ讃仰スヘキ形像ナキヲ遺憾トシ■陣四十年ノ恩澤ヲ報謝スル為我社其唱首トナリ朝野官民多數ノ翼賛援助ヲ得兵庫縣民ノ總意ヲ求メ零碎ノ資金ヲ多數ノ浄財ニ仰キ公奮戰ノ遺蹟タル湊川公園ニ公ノ銅像建設ノ擧ヲ發表シタル■募財ニ應スルモノ約十五萬人其資参萬貮百貮拾貮圓四十八銭ニ達ス銅像ノ原型ハ帝國美術院會員齋藤素巌氏ノ製作ニ係り武装武具ノ考證ハ東京關保之助氏臺座ハ神戸石松石材工業所臺座表面ノ文字ハ神戸市長勝田銀次郎氏ノ敬書裏面ノ撰文ハ我社ノ手二成リシモノヲ漢詩人成田松坡氏ノ謹書セルモノ地鎮祭ハ昭和十年三月二十日除幕式ハ同年五月二十二日之ヲ擧行同七月一日ヲ以テ神戸市ニ寄贈シタルモノナリ記シテ建設ノ由来ヲ明カニス

昭和十年七月  神戸新聞社

(碑文より)


【兵庫県神戸市兵庫区・湊川公園】





史跡 | 15:05:33 | Comments(0)
西川鯉三郎免許の跡
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西川鯉三郎免許の跡

初代西川鯉三郎は文政7年(1824)江戸に生まれた。
天保12年(1841)18歳のとき、父と共に名古屋に移り、舞踏一筋に打ち込み、31歳の頃から名古屋の芝居小屋の振付師として活躍した。
この間、篠塚流・坂東流などを学び、また能などの長所をとり入れて、名古屋西川流を確立した。
安政7年(1860)正月19日、「御免踊指南(ごめんおどりしなん)」の公許を得た。

名古屋市教育委員会

(説明板より)


【愛知県名古屋市中区丸の内3丁目16-3】





史跡 | 11:04:07 | Comments(0)
伊藤圭介出生地
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伊藤圭介出生地

蘭方医・植物学者である伊藤圭介は、享和3年(1803)この地に生まれた。
少年の頃から父兄や水谷豊文に就いて医術や本草学を学んだ。
文政10年(1827)には、長崎のシーボルトのもとで西洋植物学を研究し、『泰西本草名疏(たいせいほんぞうめいそ)』を著わした。
明治14年(1881)東京大学教授に任ぜられて植物学を講じ、明治21年我が国最初の理学博士となり、99歳の長寿を保った。

名古屋市教育委員会

(説明板より)


【愛知県名古屋市・名城小学校】





史跡 | 10:51:06 | Comments(0)
木下長嘯子宅跡
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木下長嘯子(きのしたちょうしょうし)宅跡

長嘯子(木下勝俊)は、木下家定の長子、北政所(秀吉正室)の甥である。
豊臣秀吉のもとで若狭9万石を領したが、関ヶ原の戦いでは去就に迷い、所領を失った、
こののち、京都東山に幽棲、風月を楽しんだ。
歌文に秀れ、著書も多く中でも歌集「拳白集」は名高い。

(説明板より)


【愛知県名古屋市中村区中村町木下屋敷47・常泉寺】





史跡 | 20:50:43 | Comments(0)
常泉寺
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常泉寺

太閤山と号し、日蓮宗。
慶長年中(1596~1615)円住院日誦上人の創建という。
この地は、織田信長に仕え、足軽から身を起こして、後に天下を統一した豊臣秀吉誕生の地と伝える。
境内に伝承として、秀吉手植の柊(基木より5代目という)と秀吉産湯の井戸がある。
なお、誕生地については、中中村(現中村中町あたり)とする説もある。

名古屋市教育委員会

(説明板より)

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御手植の柊

秀吉は(1590年)小田原攻め凱陣の時、この地に立寄りて一宿なさる。
小早川景隆、加藤清正を呼召され、寺の建立ありたしと見れば、私11才の時植え置いた柊(1547年)が繁茂せり、柊は鬼神も恐れる吉祥の樹なり大切に致べしとして、手づから竹を立添えられる。
以来「幹」が衰えても下枝が育ちを繰り返しながら現在に至る。

(説明板より)

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豊太閤産湯の井戸

此の井戸は秀吉公生誕の当時近郷に類のない清水の溢れる井戸と伝えられております。
此処に秀吉の依頼によって寺を建立した時この清泉の湧出を意味として常泉寺の寺号を定めたと当山の縁起書に記されております。
昭和40年代に入り市の発展にともない地下水の変動で常泉も枯れるに至り多くの人々が元の姿にもどすことを希っておりました。
年号改元を機に常泉寺の名のとおりの再現を試み清泉がよみがえりました。
滝の落下する後の石は千成びょうたんにちなんで「萬成石」が使用してあります。

平成3年10月吉日
当山

(説明板より)


【愛知県名古屋市中村区中村町木下屋敷47】

史跡 | 19:58:07 | Comments(0)
加藤清正誕生地
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加藤清正誕生地

清正は幼名を虎之助といい、永禄5年(1562)この地に生まれたといわれる。
天正(1573~)のはじめ秀吉に仕え、数々の武功をたてた。
とくに賤ヶ岳の七本槍は有名である。
のちに肥後国(熊本県)54万石の領主となった。
慶長15年(1610)名古屋城築城の時、自分の誕生地に城の余材をもって妙行寺を再建したと伝えられる。
寺内には、秦鼎の撰文「清正旧里之碑」がある。

名古屋市教育委員会

(説明板より)


【愛知県名古屋市中村区中村町木下屋敷22・妙行寺】

史跡 | 18:05:36 | Comments(0)
豊臣秀吉誕生の地
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豊臣秀吉誕生の地

天文5年(1536年)、豊臣秀吉は、木下弥右衛門の子としてこの地に生まれた。
幼名は小竹、あるいは日吉丸。
姉智子(関白秀次生母)は同父同母の姉、小一郎秀長(大和大納言)と朝日姫(徳川家康正室)は、異父同母の弟妹である。
出生地については、区内下中村町という説もある。

(説明板より)


【愛知県名古屋市中村区中村町・中村公園】

史跡 | 17:47:19 | Comments(0)
豊國神社
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豊國神社

明治18年(1885年)の創建。
豊臣秀吉公を御祭神とし、出世、開運、茶道、建設等に御利益があるといわれている。
旧正月の生誕祭、5月18日の例祭(太閤祭)前の日曜日には、特に出世稚児行列が、豊太閤にちなみ、子供の成長を願って盛大にくりひろげられる。

(説明板より)


【愛知県名古屋市中村区中村町木下屋敷無番地】

史跡 | 17:38:59 | Comments(0)
和平英魂観音亭
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(碑文)

和平英魂観音亭
霊安故郷紀念碑  建立由来記

1975年宝覚寺前住持林錦東宗正在職中、石原正一郎氏は第二次世界大戦に於ける台湾の戦没者の為に萬霊塔建立の志を立てたが当時の台湾の状況は極めて困難であった。
越えて1987年、元第48師団南星会長森晴治氏は当時台湾南星同学聯誼会役員に謀り1937年の不幸な事変により多くの人々が戦死・戦傷死し、更に第二次世界大戦でも多数の青年が主として南方諸島界域にて多くの犠牲者を出した。
更に台湾本土に於ても爆撃で大衆が尊い生命を失った痛恨事に鑑み、これら戦没勇士や不幸にして戦災に殪れた人々の冥福を祷り且、永遠の恆久平和を祷念するため、台湾南星会同学及び中日海交聯誼会台湾軍第48師団南星会長西村庄五郎氏等にも相謀り、和平英魂観音亭及び紀念碑の建立を計画した。
依て中・日両国南星会及び海交会を中心に、日本の南星会を筆頭に台湾協会岸田実理事長、元台北医専南溟会長奴田原正一会長、元台北一中麗正会長後藤威会長、台中会長緒方健一氏、元日赤看護婦南十字会長金川トヨ子氏の方々の心からなる御支援と御協力を得、また台中宝覚寺管理委員長周賜斌氏らの御厚志により、有末精三閣下の筆になる「和平英魂観音亭」の慈光燦たる観音亭、及び李登輝総統閣下の揮毫による「霊安故郷」の偉大なる紀念碑を建設することが出来た。
茲に台湾全島・日本全国より寄せられた温かい御協賛の諸賢に対し満腔の感謝の意を表すると共に、これを子々孫々に伝え千古に輝く英魂を永えに顕彰する。

   とこしへに、しずまりたまへ、くにのため
            つくせしひとの、みたまやすけく
                   森 晴治

中華民国79年
日本平成2年   11月25日

(~以下略~)


【台湾・台中市・宝覚寺】



史跡 | 20:08:38 | Comments(0)
追遠亭
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(碑文)

追遠亭銘記

大東亞戦争に於いて、台灣人民も踴躍大日本帝國陸海軍人屬を志願し、或いは應召により二十餘萬人従軍して勇戦奮闘のあげく、三萬三千餘人戦歿せり。
然るに戦後日本國政府はこれ等の戦死傷者の特定弔慰金以外の補償は一切謝絶したのみならず、軍事郵便貯金、未拂給與等の確定債務を50年後の今日120倍の不合理な倍數で償還せんと一方的に決定し、其の他恩給等除外されるに因り、内外識者の顰蹙を囤うに至れり。
適適1996年の10月、北海道の戦友 伊庭野政夫氏これを見かねて、日本國政府の不信、不徳を補わんと欲し、發起人同志の増田元光、村田 登、桝澤昭衛、宮坂文一、中園健一、玉谷又勝、上田篤次郎、小堀桂一郎、本間正信等諸士と謀り、『台灣出身元日本軍人軍屬感謝表明期成會』を決成して日本全國に呼びかけ、募金活動を展開せり。
1997年9月23日その募金日圓肆佰拾萬圓也(換算新台幣九拾六萬七百拾貳元也)を台灣に送達せられたり、台灣戦友會各代表者直ちに研討の結果、此處に『追遠亭』の建立を議決して即時著手、11月25日予定通り、その完成を見るに至れり。

1、總工事費・・・・・・・・・新台幣九拾萬元也
2、寶覺寺へ供養費・・・新台幣貳萬六仟元也
3、業務費・・・・・・・・・・・新台幣参萬四仟七百拾貳元也
合計・・・・・・・・・・・・・・・・新台幣九拾六萬七佰拾貳元也

茲に謹んで 伊庭野政夫會長等御一同様の御芳志に、深甚の感謝を満腔の敬意を表すると共に願わくは之を日台親善の證として、後世に傳承せられんことを望む。

1997年11月25日

(~以下略~)



【台湾・台中市・宝覚寺】




史跡 | 20:05:04 | Comments(0)
霊安故郷慰霊碑
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  第二次世界大戦期間日軍征赴
  海外殞身台灣同胞英魂碑
霊安故郷
     李登輝敬題

(碑文)

建立由来記

霊安故郷記念碑は中日海交聠誼会の発願により日本國海交会全國連合会竝に台湾縁りの心ある日本國民の協賛奉仕により建立された。
この碑は台湾との過去の歴史にみる日本國植民地統治下の大東亜戦争に、日本國陸海軍人軍属として戦場に散華した台湾戦没者三萬三阡余柱英霊の鎮魂慰霊碑である。
諸霊は日本國皇民化教育の名の下に育まれ、日本國危急存亡の戦場に進んで高砂義勇隊、陸海特別志願兵となり、更には日本國民の義務として施行された徴兵令により、南方諸戦域をはじめ各戦域に参加した元日本陸海軍人軍属二十萬七阡余名の戦友であり、また台湾縁りの元日本陸海軍人軍属と死生を誓った戦友であった。
1945年8月15日大東亜戦争は終戦を迎えたが、悲しい哉!
諸霊は再び生きて故郷台湾の土を踏むことはなかった。
日本國政府は諸霊を靖國神社に御祭神として合祀し、春秋例大祭には勅使が参向され最高の儀礼をつくし、日本國民は斉しく崇敬の誠を捧げているが、1972年中日両國の國交は、複雑な國際状況下に不幸にも断たれて今日を迎えている。
諸霊の遺族補償問題は國際法上の國交が條件であり、長期に及ぶ幾多の紆余曲折を経たが、台・日間の歴史上の人道的精神に基き、1987年「台湾住民である戦没者の遺族に対する弔慰金等に関する法律」が、日本國國会超党派の「台湾戦没者問題議員懇談会」による議員立法として成立し、遺家族竝に重傷病者に対し特定弔慰金・見舞金が支給された。
本法案成立には、和平英魂観音亭敬題の日本國陸軍中将有末精三閣下を会長とした台湾縁りの心ある補償問題推進十七民間団体の支援協力が貢献した。
因に霊安故郷記念碑の敬題は、中華民國總統李登輝閣下の諸霊に捧げる鎮魂の御仁慈の筆になり、總統府参議台南県黄崑虎先生を介したものであり、台湾全島にその例をみない。
希くば諸霊よ!
碑台内に納めた高麗大藏経の守■経により霊安故郷に鎮まり、恩讐を超えて中日國交修復と、永遠に中日善隣友好の懸け橋となられ、世界眞の平和達成の礎となられんことを。
合掌

1991年11月25日建立一周年記念慰霊祭に當り、碑台正面に中・日海交会縁りの世界の名提督日本國元帥海軍大将東郷平八郎御祭神を祀る東郷神社筑土龍男宮司の英霊鎮魂の敬題御揮毫を受く

1990年11月25日
中日海交聠誼会
(~以下略~)


【台湾・台中市・宝覚寺】



史跡 | 17:42:20 | Comments(0)
東部・北部地区 日本人遺骨安置所
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(碑文・1)

此處には左記各縣市に在住中死亡した日本人の遺骨を蒐集の上納骨した
台北市
台北縣
基隆市
陽明山管理局
桃園縣
新竹縣
苗栗縣
宜蘭縣
花蓮縣
台東縣
昭和36年3月
在中華民國日本國大使館

(碑文・2)
この納骨堂には、第二次大戦終戦までに台灣に居住し、台灣にて亡くなられた日本人物故者の遺骨を収めてあります。
終戦後在留日本人は總て故國に引き揚げましたが、着の身着のままで物故者の遺骨を持ち歸る余裕もありませんでした。
當時唯一家族で残って居た苗栗縣大湖に住む野沢六和氏がある日畑を耕していたところ、この大湖にあった舊陸軍病院の戦病死者と思われる埋葬の遺骨を發見し、この遺骨を鄭重に拾い自宅に持ち歸り安置していました。
その後各地から日本人の墓地が荒れて遺骨が散亂しているとの連絡が多くこのままにして置く事には忍び難く各地の日本人墓地に残された遺骨を採骨する悲願を立てて昭和22年春より台灣全島を巡り採骨の悲願行脚に旅立たれました。
この悲願の旅は十數年に及び、約二萬柱の採骨を終えたのは昭和35年秋でありました。
昭和36年秋に當時の日本大使館の肝いりで採骨の地域別にここ中和寺と台中の寶覺寺、高雄の公墓三ヶ所に分けて納骨することになり一應採骨は終わりました。
その後大使館が主催して年一度の慰霊祭がこの三地區で行われて来ましたがその後この慰霊祭は現日僑協會が主催する事になり現在に及んでいます。
現在ここに納骨されているのは羅東より苗栗附近までに採骨された約八千柱です。
この採骨をされた野沢六和さんは中國広東系の中國人ですが、夫人は新潟縣出身の野沢ムメさんで結婚後夫人の籍に入り野沢姓になられたのです。
この採骨には當然この御夫人の協力があったことは申すまでもありません。
この野沢六和さんは採骨時の苦勞が禍いして喘息を患い以後保養をされていましたが昭和58年7月10日に日本の神戸郊外に住む御長男宅にて他界されました。
この崇高なる人格は永遠に私達日本人の鑑として記憶に留どめたいと思います。

平成元年3月吉日



【台湾・台中市・宝覚寺】



史跡 | 16:26:52 | Comments(0)
乃木別邸
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乃木別邸

昭和41年栃木県史跡指定
栃木県那須郡西那須野町石林820番地

乃木邸の地は、文化年間の頃は当所 石林の薄井氏が所有し、明治13年鹿児島藩士 吉田清皎氏(静子夫人の叔父)が手に入れる迄に所有者が3人かわりました。
吉田氏はここで農園を営みましたが、明治23年急逝の後、乃木将軍が農地3ヘクタール・山林10ヘクタール・家屋共ゆずり受け農耕に従事せられ、同25年母屋を新築、旧家を納屋として使用され、つづいて石蔵・肥料舎・農具舎・薪小屋等を建て、御夫婦自ら鋤・鍬をとられ村人と共に収穫を喜び、詩歌を吟ぜられる生活をされ、勧農の範をたれ給いしところです。
大正元年9月13日明治天皇のみあとを慕い奉り殉死の後は、将軍の遺言に依り実弟 大舘集作が住み、昭和3年以降神社により維持保存するところとなりました。
旧家は、昭和46年不審火による焼失の後、復元。
母屋は、平成2年10月過激派による放火で被災し、5年4月旧体に復元したものです。

(説明板より)


史跡 乃木希典那須野旧宅

栃木県指定文化財
昭和41年3月18日

乃木希典は長州藩支藩の長府藩出身の陸軍大将・伯爵である。
後に、学習院院長なども務めた。
明治24年、この地に約14ヘクタールの土地を求め、静子夫人の叔父(旧薩摩藩士・吉田清皎(きよあき))が所有していた土地と家屋を譲り受けた。
当初は住宅一棟と納屋があったが、同25年、乃木将軍は自ら設計して農家風の質素な別邸を建てた。
栗の木の板を小さく切って重ねた栗木羽葺(くりこばぶき)(後に瓦)平屋で、建坪は間取り寸法が関西間風で建てられているため53坪であるが、関東間(かんとうま)に換算すると約57坪となる。
土間と囲炉裏があり、畳の部屋は八畳間が3つ、六畳間が変形六畳を含めて3つ、その他物置場・屋根裏部屋等がある。
乃木将軍は生涯に4度の休職をしたが、別邸を建ててからは休職中(のべ48か月)の多くをこの別邸で過ごし、晴耕雨読の生活を送り、村人とも親しく交わったという。
なお、別邸は平成2年(1990)に焼失し、同5年(1993)3月に復元された。

那須塩原市教育委員会

(説明板より)

史跡 | 22:08:42 | Comments(0)
乃木将軍石像と愛馬殿号の塚
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乃木将軍石像と愛馬殿号の塚

この石像は昭和初期、愛知県岡崎で開催された石刻展に入選した作品で、学習院の院長であった乃木将軍にちなんで一度学習院に献納されました。
時を経て平成2年、ゆかりの那須乃木神社に奉納されたものであります。
殿号(しんがりごう)は大正天皇がまだ皇太子殿下頃、乃木将軍に賜わった白馬です。
将軍は殿下より賜った名馬であるため、殿号と名付けて愛育されました。
将軍ご夫妻は自然を愛され、禽獣草木にまで温情をもって接し、わけても馬に対する愛情は篤く、老齢になった殿号も那須野へ移し労られました。
この愛馬も将軍の後を追うように、大正3年12月27日に斃れましたので、ここに土葬し、生駒守護神として慰霊の誠を尽くしたのであります。

 武士が乗る荒駒の勇みあひて
     那須の廣野も狭くぞおもほゆ 希典

 黒駒にしらあわはませますら雄が
     岩が根木の根ふみさくみゆく 希典

乃木希典命
乃木静子命  百年祭記念

平成23年9月13日

(説明板より)

史跡 | 21:26:41 | Comments(0)
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