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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
60歳・・・還暦である。
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)
今さら、もう無理!(大笑)

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山王草堂邸内の建築
046_convert_20200311155839.jpg (牛後庵跡)

049_convert_20200311155904.jpg (成簣堂文庫跡)

徳富蘇峰と山王草堂邸内の建築

徳富蘇峰(1863~1957)は大正13年(1924)、この地に居宅を建て、山王草堂と称して昭和18年(1943)熱海伊豆山に移るまでここに起居した。
邸内には母屋の他に三つの建築が建っていたことが知られており、それぞれ成簣堂文庫(せいきどうぶんこ)、一枝庵(いっしあん)、牛後庵(ぎゅうごあん)と名付けられていた。
それら蘇峰ゆかりの建築について記す。

成簣堂文庫(せいきどうぶんこ)
蘇峰の収集した和漢書10万冊に及ぶ書籍類を収蔵していた、鉄筋コンクリート造3階、地下1階の書庫。
大正9年(1920)、山王草堂に先立って着工され、大正13年(1924)、山王草堂と同時に落成した。
文庫には蘇峰が長年苦心して収集した収蔵品があり、中には国宝2点、当時の重要美術品(現在の重要文化財)72点が含まれていた。
それらは蘇峰によって体系的に整理され、わが国の文化史研究の資料として非常に価値の高いものであった。
この文庫の存在によって多くの資料が緻密に分類され、蘇峰の「近世日本国民史」執筆に大いに役立ったと考えられる。
後にそれらの書籍類は主婦の友社に譲渡され、現在は千代田区にあるお茶の水図書館に収蔵されている。
「成簣堂文庫」の名称の由来は、文政元年(1818)、江戸時代の歴史学者頼山陽(らいさんよう)が肥後来遊の際、山陽から蘇峰の祖父徳富美信(とくとみよしのぶ)に書き与えられた「成簣」(せいき=中国の古典「論語」の中の言葉で竹の箕(み)に盛った土の意)から採られたものである。

一枝庵(いっしあん)
大正12年(1923)、関東大震災直後に青山草堂の古材をもって建てられた間口一間半、奥行二間の小庵。
当時山王草堂が建築中であったため蘇峰は付近に借家していたが、借家が手狭なことと、国民新聞社社屋が震災で焼失したことからこの庵で「近世日本国民史」などを執筆した。
庵は、山王草堂落成後に門人の青木藤作氏に譲られたのち、栃木県佐久山町(現在は大田原市)に寄贈された。
なお、庵内の蘇峰の揮毫した書、遺品等は栃木県馬頭町、馬頭町広重美術館に所蔵されている。
「一枝庵」の名称の由来は、中国の古典「荘子」の「鷦鷯巣於深林、不過一枝」(鷦鷯(しょうりょう=みそさざい)深かれる林に巣くうも一枝をもちうるに過ぎず)から採られている。

牛後庵(ぎゅうごあん)
大正13年(1924)、蘇峰の次男の徳富萬熊(とくとみまんくま)の住居として建てられた木造二階建の建築。
蘇峰が山王草堂に居を構える以前の居宅、青山草堂の書斎を移築したもの。
萬熊は考古学の研究を趣味とし、古瓦、板碑、土器、石造物等約7千点を牛後庵1階に収蔵し、2階に起居していた。
これらの収蔵品のうち、4点は「徳富コレクション」として当記念館に展示しているが、他は主に国学院大学考古学資料館に寄贈されている。
「牛後庵」の名称の由来は、やはり中国の古典「史記」の「寧為鶏口、無為牛後」(むしろ鶏口となるとも牛後となるなかれ」から採られている。

これらの建築は蘇峰公園内には現存しないが、当時建てられていたと推測される地点に旧跡として標柱を建て、蘇峰の起居していた往時を偲ぶものである。

平成13年 地域基盤整備第一課

(説明板より)


【東京都大田区山王1-41-21・蘇峰公園内】

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史跡 | 15:08:04 | Comments(0)
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