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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
59歳
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)

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大洗磯前神社
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大洗磯前神社

御鎮座
当神社の御創立は文徳実録の記す処によれば、斉衡3年(856)と云われておりますから今(平成31年)を去る1163年前の事であります。
文徳実録斉衡3年12月戊戌(29日)の條に、「常陸国上言鹿島郡大洗磯前有神新降云云」とその状を事細かに記してあります。
全国に名社、大社と云われる神社が数多くありますが、当社の様に御創立の年代の明確な御社は稀であります。

御祭神と御神徳
御祭神は文徳実録に「大奈母知、少比古奈命也」とありまして、大奈母知は大己貴命、即ち大国主神にして、日本書紀には素戔鳴尊の5世の孫と云い、古事記にはその御子神と記してあります。
大国主神、大物主神、葦原醜男神、八千戈神など数多の御名があり常に少彦名命と二柱相並び御出現になり、御神徳を顕されております。

少彦名命は高皇産霊神の御子神と記されてあります。
大己貴命は国土を開拓し殖産興業に力を尽し人々の生活の基礎を築き、少彦名命と共に山野に薬草を求めて、病難に苦しむ人々を治療し又禁厭(まじない)の法を定めて、民の災禍を防ぐ等、国土の経営と民生の安定を計り徳望高く人々は深くその恩恵を蒙っておりました。

御由緒
文徳実録の記録によれば斉衡3年常陸国鹿島郡大洗の里に御出現になり給いし時、里人の一人が神がかりして人々に教えられました。
「我は大奈母知(オオナモチ)・少比古奈命(スクナヒコナノミコト)也(なり)。昔この国を造り常世の国に去ったが、東国の人々の難儀を救う為に再びこの地に帰って来た」と仰せられました。
当時の記録によると度々地震が発生し人心動揺し、国内が乱れておりました。
二柱の大神はこうした混乱を鎮め人々を苦しみから救う為に降臨されたのです。

即ち大洗磯前神社は御創立の当初から関東一円の総守護神として、大神様御自ら此の大洗の地を選び御鎮座になったのであります。
翌天安元年(857)8月7日官社に列せられ、次いで10月15日には「大洗磯前薬師菩薩名神」の称号を賜りました。
当時国司の上奏から8カ月で此の待遇に預ると云う事は破格の事でありまして、如何に御神徳が顕著であったかを知る事が出来ます。
延喜の制当社を名神大社に列せられ東国の大社として祀田千石を領し祠宇宏壮にして、遠近の信仰を集めて栄えておりましたが、残念な事に永禄中、小田氏治の兵乱に際しその難を蒙り、御社殿以下の諸建造物は悉く焼失し爾来一小社に辛うじて祭祀を続けて来ました。

水戸藩2代藩主徳川光圀公は由緒深き名社の荒廃を見るに忍びず、元禄3年御造営の工を起し、次いで3代藩主綱條公に至り本殿、拝殿、神門に至るまで建造の工を竣え、名大社にふさわしき輪奐の美を整えました。
爾来歴代の水戸藩主は厚く当社を尊崇し幕末に至りました。
現存する社殿、神門等は当時の建造物で社殿の彫刻と共に徳川初期を偲ぶに足る文化財として貴重なものです。

明治新政府が、神社制度を定めらるゝや、明治7年9月県社に指定せられ、明治18年4月国幣中社に列せられましたが大東亜戦争終息を機に、神社は未曾有の変革を余儀なくせられ、政教分離の名の下に宗教法人としてのみその存続を容認せられました。
神社が国家の宗祀たりし時代より激動の時代を経て現代に至るまで、当社は人々の厚き信仰に支えられて発展して参りました。
そして悠久の昔より永遠の未来にわたり栄えて行く事でしょう。

(リーフレットより)


【茨城県東茨城郡大洗町磯浜町6890】

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史跡 | 14:27:45 | Comments(0)
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