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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
58歳
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)

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両国橋と百本杭
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両国橋と百本杭
所在地 墨田区両国1丁目~横綱1丁目

両国橋の風景を特徴づけるもののひとつに、百本杭があります。
昭和5年(1930)に荒川放水路が完成するまで、墨田川には荒川、中川、綾瀬川が合流していました。
そのため隅田川は水量が多く、湾曲部ではその勢いが増して、川岸が浸食されました。
両国橋付近はとりわけ湾曲がきつく流れが急であったため、上流からの流れが強く当たる両国橋北側には、数多くの杭が打たれました。
水中に打ち込んだ杭の抵抗で流れを和らげ、川岸を保護するためです。
夥しい数の杭はいつしか百本杭と呼ばれるようになり、その光景は隅田川の風物詩として人々に親しまれるようになりました。
江戸時代の歌舞伎では、多くの作品の重要な場面に「両国百本杭の場」が登場します。
「十六夜清心(いざよいせいしん)」でも、冒頭に「稲瀬川(いなせがわ)百本杭の場」がおかれています。
稲瀬川は鎌倉を流れる川の名ですが、歌舞伎の中では隅田川に見立てられることがあります。
観客は「百本杭」という言葉から、この場面が実は墨田川を舞台としていることに気づくのです。
百本杭はそれほど人々に知られた場所だったのです。
また、明治17年(1884)に陸軍参謀本部が作成した地図には、両国橋北側の川沿いに細かく点が打たれ、それが百本杭を示しています。
明治35年(1902)に香田露伴は『水の東京』を発表し、「百本杭は渡船場の下にて、本所側の岸の川中に張り出たるところの懐をいふ。岸を護る杭のいと多ければ百本杭とはいふなり。このあたり川の東の方水深くして、百本杭の辺はまた特(こと)に深し。こゝにて鯉を釣る人の多きは人の知るところなり」と富士見の渡の南側から見られた様子を綴っています。
このほか、本所向島に親しんだ多くの文人が、百本杭と往時の記憶について書き留めています。
しかし、明治時代末期から始められた護岸工事で殆どの杭は抜かれ、百本杭と墨田川がおりなす風情は今では見られなくなりました。

平成23年3月
墨田区教育委員会

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(説明板より)


【東京都墨田区両国1-11-2】

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史跡 | 20:16:22 | Comments(0)
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