投稿日:2019-03-01 Fri

三遊亭圓朝住居跡
所在地 墨田区亀沢二丁目十三番七号
三遊亭圓朝(1839~1900)は、江戸時代後期から明治時代にかけて活躍した落語家です。
本名は出渕(いずぶち)次郎吉。
父は二代目三遊亭圓生の門人橘家圓太郎で、後に圓朝も圓生に弟子入りしました。
初舞台は弘化2年(1845)3月で、小圓太と名乗りますが、異父兄で僧侶の玄昌の勧めにより一時高座から離れました。
池之端の紙屋葛西屋で奉公したり、玄昌の住まう谷中の長安寺に母と同居したのもこの頃で、新作怪談の創作に影響を与えたと考えられています。
その後、再び圓生門に戻り17歳で圓朝を称します。
元治元年(1864)に26歳で両国垢離場(こりば)の昼席の真打となります。
人情噺、怪談噺、落し噺などで江戸落語を集大成し、とりわけ人情噺では落語の話芸をより高度な次元に押し上げました。
圓朝は明治9年(1876)10月に浜町から本所南二葉町23番地(この公園の南側、現在の亀沢2丁目12番)に移り、同28年に牛込に転居するまでの19年間をこの地で過ごしました。
この間、本所に住んだ薪炭商塩原太助をモデルにした名作『塩原多助一代記』を生み、明治22年4月には三遊派の隆盛を記念して木母寺境内に三遊塚を建立しました。
代表作に「真景累ヶ淵(しんけいかさねがふち)」「怪談牡丹灯籠」「怪談乳房榎」「塩原多助一代記」「文七元結(ぶんしちもっとい)」など多数あります。
平成25年3月
墨田区教育委員会
(説明板より)
【東京都墨田区亀沢2-13-7】
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