FC2ブログ
 
■プロフィール

野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
60歳・・・還暦である。
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)
今さら、もう無理!(大笑)

■最近の記事
■月別アーカイブ

■カテゴリー
■FC2ブログランキング
■ブロとも申請フォーム
■最近のコメント
■小さな天気予報


-天気予報コム- -FC2-

■ブログ内検索

■リンク
■RSSフィード
■FC2カウンター

板谷波山生家
052_convert_20190511214245.jpg 053_convert_20190511214318.jpg

波山の生家

波山は明治5年(1872)3月3日に板谷家の三男五女の末子(本名は嘉七)として生まれました。
波山の生家は醤油醸造や雑貨(文房具や西洋小間物など)を扱う御用商人を務めた、町の主導的な商家でした。
父の増太郎は分家して三代目にあたる有能な商人で、文人趣味をもち「半癡(はんち)」と号して文墨に親しんでいます。
記念館には父の作品がいくつか残されていますが、そのなかの「先考遺墨帖(せんこういぼくちょう)」(波山の題箋(だいせん))には、南画風の花鳥画の素描がおさめられており、玄人(くろうと)はだしの見事な筆致をみせています。
また、父は茶道をたしなみ三味線をひき、さらには和歌や狂句もつくり、器用で指物をこしらえ袋物を縫ったりしたといわれています。
おそらく凝り性なところや抜群の器用さなどの波山の性質は、多分に父譲りであったと思われます。
波山もかなりの趣味人で宝生流(ほうしょうりゅう)のお能や尺八に親しみ、着物も縫い料理も得意でした。
彼の芸術家としての資質は父の血筋を受け、粋な町人文化の栄えた下館でそのセンスが磨かれたのです。
一方、母の宇多(うた)は茨城県筑波郡の豪農の娘で、娘時代に讃岐高松藩主松平家に奉公に出るなど武家育ち風で自らに厳しい人でした。
母は波山に対して厳格なしつけをほどこしました。
波山が陶芸界の大家になった後にも、決して奢(おご)らず謙虚で他人への細やかな配慮を忘れない人格は、母から受け継いだものだったと思われます。
ところで、波山はかなりの美男でしたが、その容姿は生前の母の姿にそっくりでおそらく母親似であったと思われます。
記念館内にある波山の生家は、江戸時代中期ごろの商人の住居として歴史的にも貴重であり茨城県指定文化財となっています。

(展示パネルより)


板谷波山生家(昭和40年茨城県指定史跡)

創建は江戸中期、木造平屋建、屋根は瓦葺き。
波山はその誕生(明治5年)から東京美術学校入学(明治22年)まで、この家で過ごす。
板谷家はしょうゆ醸造及び雑貨商を営む。
波山は父増太郎、母宇多の三男六女の末子で「嘉七」と命名された。

(リーフレットより)


【茨城県筑西市田町甲866-1・板谷波山記念館内】

スポンサーサイト





史跡 | 17:09:31 | Comments(0)
コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する