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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
60歳・・・還暦である。
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)
今さら、もう無理!(大笑)

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因伯新道紀功碑
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因伯新道紀功碑
(いんぱくしんどうきこうひ)

明治14(1881)年9月12日、鳥取県は再置(5年間島根県に併合)され、新しい県づくりが始まりました。
この頃、県内の道路は未整備で交通の便を図ることが急務でした。
明治16年、大規模な道路整備事業が始まり、後の国道9号線をはじめとする主要道15路線およそ130里(500キロメートル)が整備・改修されました。
この碑は、事業の功績をたたえる人々の寄付によって明治20年11月に建てられました。


碑 功 紀 道 新 伯 因
[碑文の一部を現代語訳にして、( )内に捕捉文を入れています]

因伯の二州は海に沿い、山道はおよそ130里、道路は険悪でわずかに人馬を通すのみである。
昔は人も馬も(往来に)苦労したものであった。
山田県知事は、これをあわれみ、土木課長の須永氏と話し合って道路改修を命じた。
大岩を穿ち山道を開き、高きは削り、低きは埋めて平にした。
水があれば橋を架け、山には道をつけた。
これにより、かつて草茫々の所は平坦になって砥石のようになり、塞がっていた道もまっすぐに通じ、それはまるで矢のようである。
絶え間ない人馬の往来に対して人々は喜んでいる。
そもそも、この事業は明治16年に開始され、19年に竣工した。
事業にはおよそ1万人、35万500円余りを要した。
官家の深い思し召しとはいえ、因伯二州の官民の力を合わせなければ、短期間での完成は見なかったであろう。
記録に残して後世に伝えなければならない。
よって豊碑(功徳をたたえた大きな石碑)を若桜橋の側に建ててその功績を刻むこととする。
        ※若桜橋詰からこの場所に移されたことになります。
銘に曰く
西晋の社征南(社預)は富平津に浮橋を造り、今は多くの人が往来するところとなっている。また、平の清盛は「経が島」をを築いて輪田崎(大輪田泊)を修築し、日宋貿易の拠点にした。一時は苦労しても後の世の利益となることは、世の人が二人をたたえていることからも分かる。お金を費やすこと40万円。因伯の道路を改修すること百里。ああ、輪田崎と冨平津と共に、山河が永遠に続くように因伯新道の功績は永く鼎峙(三つが安定している様)することであろう。
明治二十年丁亥十一月 従四位勲三等山田信道篆 菊池純撰文 寺西養蔵書


鳥取県再置後の初代県令 山田信道(やまだ・のぶみち)
天保4年(1833)年~明治33(1900)年

元熊本藩士で大審院(現在の最高裁判所)詰の判事から鳥取県令(現在の知事)になりました。
明治14年から21年までの在任中、士族授産(生活に苦しむ士族に仕事を与えること)、道路網の整備、産業や教育の振興に力を注ぎました。
後に、福島県や大阪府、京都府の知事、農商務省大臣などを歴任しました。

平成28(2016)年6月 鳥取県立公文書館作成

(説明板より)


【鳥取県鳥取市東町1丁目・城南神社脇】

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史跡 | 13:14:23 | Comments(0)
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