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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
58歳
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)

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山鹿素行先生銅像
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山鹿素行先生銅像

兵学者・儒学者として高名な山鹿素行(1622~1685)は、承応元年(1652)から万治3年(1660)の間、赤穂藩主浅野長直に千石で召し抱えられ、承応2年には赤穂城築城に参画して二の丸虎口(こぐち)の縄張りを一部変更し、家中に兵法を指南した。
その後、寛文5年(1665)に「聖教要録(せいきょうようろく)」の著述が幕府の忌諱(きい)に触れ、翌年から延宝3年(1675)まで赤穂に配流(はいる)され、二の丸内の家老大石頼母助(たのものすけ)の一隅に謫居(たっきょ)した。
配流(はいる)中は、藩主や重臣のもてなしを受けることも多く、この間に「四書句読大全(ししょくとうたいぜん)」「中朝事実(ちゅうちょうじじつ)」「武家事紀(ぶけじき)」「謫居童問(たっきょどうもん)」など、素行の学問を代表する大著を完成している。
大正14年(1925)、謫居(たっきょ)跡に建立された素行先生の銅像は、平成10年に赤穂城跡公園整備のため現位置に移転した。

赤穂義士会

(説明板より)


山鹿素行銅像碑文

~略~

【書き下し文】
隠山弥髙  ※「隠山」は、山鹿素行の別号
贈正四位山鹿素行先生銅像記
先生文武全才(ぜんさい)にして一世の推服(すいふく)する所たり。将軍家光公将(まさ)にこれを大用せんとするに公薨(こう)じて果たさず。赤穂侯長直其の賢なるを聞き聘(へい)して賓師(ひんし)となし、赤穂に赴(おもむ)き七月にして江戸に還る。慨然(がいぜん)として聖教要録を著し、これをもって譴(とどめ)を獲て赤穂に謫(たく)すること殆ど十年。侯これを遇すること旧の如し。また中朝事実を著し以て其の志を見る。長友襲封(しゅうほう)に及ぶや父子共に師事す。長友の嗣子長矩国除(こくじょ)に坐事(ざじ)するや、所謂(いわゆる)四十七士能(よ)く君の讎(あだ)を復するは、蓋(けだ)し先生の遺訓(いくん)の及ぶ所なり。わが祖鎮信(しずのぶ)も亦(また)優礼(ゆうれい)を以て待し子孫遂に我が家に仕う。近世吉田松陰・乃木大将皆先生に私淑(ししゅく)す。其の学将に天下に大行し頃者(けいしゃ)同志胥謀(あいはか)りて先生の銅像を謫居(たくきょ)の址に建てんとすべし。就いては余に文を求め浅野長勲(ながこと)侯に題額を乞う。乃(すなわ)ち其の梗概(こうがい)を記し後人をして矜式(きょうしょく)あらしめん。
大正十年十一月上浣 素行会長 正三位 伯爵 松浦厚撰并びに書

(赤穂義士会2014『山鹿素行の士道論』より)

(説明板より・一部略す)


【兵庫県赤穂市・赤穂城二之丸跡】

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史跡 | 13:40:53 | Comments(0)
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