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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
58歳
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)

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赤穂城大手門
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国史跡 赤穂城

赤穂城は、近世になって発達した軍学・兵法に従って縄張された城であり、本丸、二之丸、三之丸のすべての廓(くるわ)が残された貴重な近世城郭遺構であることから、昭和46年(1971)に国史跡に指定された。
現在見ることのできる赤穂城は、浅野内匠頭長直(あさのたくみのかみながなお)が寛文元年(1661)に完成させたものである。
城は熊見川(くまみがわ)(現在の千種川(ちくさがわ))河口の西岸に位置し、南は瀬戸内海に面した海城(うみじろ)で、変形輪郭式(へんけいりんかくしき)の平城(ひらじろ)である。
縄張は藩の軍師であり、甲州流軍学者であった近藤三郎左衛門正純が行い、12の城門と10の隅櫓(すみやぐら)を築いた。
本丸には藩邸や、池泉(ちせん)庭園、天守台が、二之丸には大石頼母助良重(おおいしたのものすけよししげ)の屋敷や、錦帯池(きんたいち)を中心とした二之丸庭園、遊水池(ゆうすいち)、米蔵、馬場などがあった。
また、三之丸には大石内蔵助良雄(おおいしくらのすけよしたか)をはじめとした重臣たちの屋敷が配されており、城と熊見川との間には藩の米蔵と船入(ふないり)が備えられていた。
現在では大石良雄宅跡長屋門と近藤源八宅跡長屋門が江戸時代の建物として残されている。
城内、城下には熊見川から取水し、各戸給水を成し遂げた上水道が敷設されており、日本三大上水道の一つに数えられている。
上水道の余水は、邸宅に設けられた庭園池泉にも使われた。
池泉庭園のうち「本丸庭園」と「ニ之丸庭園」は江戸時代の大名庭園「旧赤穂城庭園」として、平成14年(2002)に国名勝に指定された。

(説明板より)


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大手門枡形

赤穂城の表虎口(こぐち)である大手門は、石垣を方形に積上げた枡形(ますがた)と高麗門(こうらいもん)、櫓門(やぐらもん)の二重の城門を備えた最も厳重な枡形門であった。
枡形は打ち出す兵を待機させたり、敵兵を閉じ込めて攻撃するためのもので、その規模は長辺10間(約19.8m)、短辺6間(約11.8m)、面積234㎡である。
現在ある高麗門は、隅櫓(すみやぐら)・土塀(どべい)とともに昭和30年(1955)に再建されたものである。

枡形石垣は、明治19年(1886)にその形状を大きく改変され、その後周辺は赤穂大石神社の境内となっていたが、文化庁の国庫補助事業によって公有化が図られ、平成15年(2003)に石垣の修復及び周辺整備が完成した。

発掘調査によって、枡形石垣、櫓門跡、番所跡、上水道施設、排水枡、大石内蔵助(くらのすけ)屋敷土塀石垣など多くの遺構が見つかっている。
櫓門は、幅4間半(約8.9m)、奥行2間(約4m)であったことが明らかとなり、新たに板石を埋め込んで礎石の位置を示している。
また、門の前後では川原石を並べた霰敷(あられし)きの雨落(あまお)ち施設も見つかっている。
この休憩所は、発掘調査で検出された番所跡の位置に、ほぼ同規模の番所を模して建てられたものである。
当時、番所には門番として足軽3名、下番(げばん)2名が詰め、大手門の警護にあたっていた。

(説明板より)


【兵庫県赤穂市・赤穂城】

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史跡 | 11:32:32 | Comments(0)
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