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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
57歳
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)

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蛭ヶ小島
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蛭ケ島(ひるがしま)
(源頼朝配流の地跡)

このあたりを、韮山町四日町字蛭ケ島といい、平治の乱で敗れた源義朝(よしとも)の嫡子、兵衛佐(ひょうえのすけ)頼朝配流の地といわれている。
狩野川の流路変遷の名残をとどめてか、近在には古河(ふるかわ)・和田島(わだじま)・土手和田(どてわだ)等の地名が現存するところから、往時は大小の田島(中州)が点在し、そのひとつが、この蛭ケ島であったことが想像される。
永暦元年(1160)14才でこの地に流された頼朝は、治承4年(1180)34才で旗挙げ、やがては鎌倉幕府創設を成し遂げることとなるが、配流20年間における住居跡等の細部は詳らかではない。
しかし、「吾妻鏡(あづまかがみ)」治承4年の記事によれば、山木攻め(頼朝旗挙げ)の頃は、妻政子の父、北条時政の館(当地より西方約1.5粁の守山北麓)に居住し館内で挙兵準備を整えたとある。
このことから考えると、頼朝は、北条政子と結ばれる治承元年(1177)頃までの約17年間を、ここ蛭ケ島で過ごしたものといえよう。
当公園中央部にある「蛭島碑記」の古碑は、源氏が天下支配の大業を果たした歴史の原点を後世に伝承すべく、寛政2年(1790)豆州志稿(ずしゅうしこう)の著者、秋山富南の撰文により、江川家家臣飯田忠晶が建立したもので、韮山町の有形文化財指定されている。
また、この碑の西側にある高い碑は、秋山富南の頌徳碑で、豆州志稿の増訂に当った荻原正夫が、明治26年に建立したものである。

伊豆の国市

(説明板より)


【静岡県伊豆の国市四日町17-1】

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史跡 | 13:24:12 | Comments(0)
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