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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
57歳
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)

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江川家住宅
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重要文化財 江川家住宅

江川氏の遠祖宇野氏は大和の国に住む源氏の武士であったが、保元の乱(1156)に参戦して敗れ、従者13人と共にこの地に逃れて居を定めたと伝えられる。
現存の家屋の主屋は室町時代(1336~1573)頃に建てられた部分と、江戸時代初期頃(1600年前後)に修築された部分とが含まれている。
この主屋は昭和33年(1958)に国の重要文化財の指定を受けた。
同35年より文化庁、静岡県及び韮山町の協力を得て解体修理が行われ、文化14年(1817)に行われた大修理以前の古い形に復元された。
またその際に茅葺だった主屋の屋根は現状の銅板葺きとなった。
江川氏は徳川時代初期より幕末に至るまで代々徳川幕府の世襲代官を勤めた。
その中で幕末の江川英龍は体制側にありながら革新思想を持ち、農兵の組織、大砲の鋳造、品川台場築造の計画等をすすめたことで知られている。
昭和42年に財団法人江川文庫が設立され、重要文化財および代官所記録の維持管理にあたっている。
江川家住宅及びそのその周辺の重要文化財は次のとおりである。

江川家住宅宅地 11837平方米
同 主屋 552平方米
同 付属建屋、書院、仏間、土蔵等

(説明板より)


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パン焼き窯と鉄鍋

天保13(1842)年4月12日、江川英龍の命により、邸内に築かれた窯(かま)で、初めてパンが焼かれました。
当時の日本にはパン食は普及しておらず、長崎出島のオランダ商館用にのみ製造されていました。
英龍が焼かせたのは、柔らかいパンではなく、長期保存が可能な乾パンでした。
これは、英龍がパンを平時の食料としてではなく、戦争時に兵が携行する兵糧(ひょうろう)とすることを目指していたからです。
ここにあるのは、パン焼き窯を形作っていた伊豆石(いずいし)の一部です。
本来は上に載せてある鉄鍋が入る、もっと大きなものだったと考えられます。
なお、初めてパンが焼かれた4月12日は、現在「パンの日」として親しまれています。

(説明板より)


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塾の間
この部屋は、全国から砲術を学びにきた若者たちが、宿泊をし、学習をした部屋である。
天保14年(1843)より、多くの塾生が「実用専一」「精神統一」を合い言葉に、漢学、洋式砲術の理論などを学んだ。
また、実地訓練として屋敷の外で、鉄砲や大砲の試射、さらに山猟で疲れた体を癒しながら、日本の将来を語りあったであろう。

(説明板より)


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西蔵
幕末頃の建築で、正面から見ると将棋の駒のような形をしていることから「駒蔵」とも呼ばれています。
また、四方の壁が内側に向かってわずかに傾いた「四方ころび」といわれる技法で建てられています。
軒の屋根が、瓦ではなく伊豆石で葺かれているのが特徴です。

(説明板より)

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裏門
裏門は、文政6年(1823)の建築です。
ただし門扉はずっと古く、豊臣秀吉の軍勢が韮山城を包囲した天正18年(1590)当時のものだといわれています。
門扉に残る多数の穴は、激しい戦闘の様子を物語る、鉄砲玉や鏃(やじり)の跡だとされています。
また寛政4年(1792)に当地を訪れた老中松平定信(白河楽翁)が、この裏門越しに見た富士山の美しさに感歎し、御用絵師として伴っていた谷文晁(たにぶんちょう)に命じて、それを絵に描かせたという逸話も伝えられています。


【静岡県伊豆の国市韮山韮山1番地】

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史跡 | 11:51:01 | Comments(0)
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