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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
57歳
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)

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湊川神社
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湊川神社(みなとがわじんじゃ)

御祭神
(主神) 楠木正成公(くすのきまさしげこう)(大楠公)(だいなんこう)
(配祀) 楠木正行卿(くすのきまさつらきょう)(小楠公)(しょうなんこう)及び湊川の戦で殉節された楠木正季(まさすえ)卿以下御一族16柱並びに菊池武吉(きくちたけよし)卿
摂社 甘南備(かんなび)神社(御祭神、大楠公夫人)

由緒
大楠公は、元弘元年(1331年)9月に後醍醐(ごだいご)天皇の命に従い挙兵、やがて鎌倉幕府を崩壊に導き、「建武中興(けんむのちゅうこう)」に大きな功績をあげられた。
しかし、謀叛により一時九州へ敗走した足利高氏の大軍を、大楠公は、ここ湊川で迎撃、激戦の末、延元元年(1336年)5月25日、弟正季卿と「七生報国(しちしょうほうこく)」を誓って刺交し、殉節を遂げられた。
その後御墓所は、豊臣秀吉検地の際、免租地とされ、江戸時代初期には摂津尼崎城主・青山幸利(あおやまよしとし)公によって松と梅が植えられ、五輪の供養塔も建てられた。
更に元禄5年(1692年)、水戸光圀(みつくに)公(義公)(ぎこう)によって、墓碑「嗚呼忠臣楠子之墓(ああちゅうしんなんしのはか)」が建立、大楠公の御盛徳が天下に顕彰された。
これにより、大楠公景仰の気運が愈々高まり、やがて維新回天への力強い精神的指導力となった。
そうした幕末から維新にかけて、尊崇して已まない大楠公、その御神霊を奉斎したいという国民運動が盛んになり、明治元年(1868年)4月、明治天皇は、神社創祀(そうし)の御沙汰書(ごさたしょ)を下された。
よって明治5年(1872年)5月24日、社名を「湊川神社」とし、初めての別格官幣社(べっかくかんぺいしゃ)に列せられ、同日鎮座祭、翌25日楠公祭が斎行されて、ここに湊川神社が創建された。

御盛徳
大楠公は、智・仁・勇の三徳を備える非常な人格者で、聖人とも仰がれた武将であった。
大楠公の忠誠と正義とを以て貫かれた精神は、楠氏一族子孫に至るまで受け継がれ、日本史上これほど偉大な影響を後世に及ぼした人はない、と言われるほど、その後の国民に大きな感化を与えたのであった。

(説明板より抜粋)


【兵庫県神戸市中央区多聞通3-1-1】

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史跡 | 11:01:55 | Comments(0)
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