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Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
56歳
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)

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川中島(清流)へ行く
昨晩、あまりにも早く寝てしまったせいか、午前4時半に目が覚めた!(大汗)
というわけで・・・“二度寝”する・・・(大笑)

朝食の前にタバコを一服・・・(笑)
ホテルは全面禁煙なので、ホテルの入り口の脇にある喫煙場所まで行かねばならない。
で・・・外に出たついでである・・・ホテル周辺を散策する。

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(宿泊した「鎮宝大飯店」)

このホテル・・・名前の発音が・・・ちょっと問題なのである。(苦笑)
「鎮宝」・・・「ちんぽう」と言う・・・最後の音を伸ばさなかったら、ちょっとマズイ・・・(大笑)
この町では、かなり大きなホテルだと思うのだが、昨日の朝、レストランにいたのは拙者一人だけ・・・
ロビーでも誰も見かけなかった・・・(汗)
今朝は駐車場に大型観光バスが2台入っていたけど・・・
これで採算合うのかね?
潰れちゃうんじゃないの?・・・と余計な心配・・・(笑)

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(ホテルの前の様子)

昨晩、このホテルに中国人のツアー客が泊まったため、今朝は昨日とは打って変わってレストランは賑わっていた。

DSCN3770_convert_20170219191637.jpg

今日は、これから、日本統治時代に「川中島」と呼ばれた集落へ行く。
現在は「清流」という名前らしい。
午前8時40分、ホテルをチェックアウト・・・
途中、埔里の町の中にある税務署に立ち寄ってもらい建物の写真撮影をする。
拙者は地元の「法人会」の広報委員でもある。
いつも原稿を書くのは拙者の役目・・・(苦笑)
最近、「全国税務署めぐり」のコラム記事を書き始めたが、国内ばかりというのも面白くない。(笑)
海外の「税務署」を紹介するっていうのも面白いのではないかということで、急遽、予定外ではあるが立ち寄ってもらうことにした。
よし!これで原稿1本書けるぞ!(大喜)

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(財政部中區國税局埔里稽徴所および南投縣政府税務局埔里分局の入っている建物)

埔里から車で1時間ほど走り、「川中島」に到着する。
早速、最初の目的地「餘生記念館」に向かう。

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「霧社事件」を起こした原住民を「反抗蕃」と呼び、この事件に参加しなかった原住民を「味方蕃」と呼ぶ。
「反抗蕃」の討伐に、日本の武装警官隊や日本陸軍の兵士たちが参加したが、日本は「味方蕃」にも討伐への参加を求め「蕃人掃蕩隊」を編成した。
彼らに対して日本は反抗蕃を馘首(首狩り)をしたら報奨金を与え、万が一、返り討ちにあって死んだ場合の補償も手厚くすると約束して参加させたらしい。
「蕃人に対しては蕃人をもって」という考え方であろう。
よって、特にタウツア蕃やトロツク蕃は積極的にこれに参加したらしい。
で・・・最終的に婦女30人、子供36人を含む87人の反抗蕃の首を刈ったらしい。
反抗蕃は総数で644人が、この討伐等で死亡した。
その中には、同じ「蕃人」に馘首された者の他に、事件に直接は参加していない、いわゆる一般人の反抗蕃(たぶん、女・子供・年寄りたちだろう)で縊死(首吊り自殺)した296人が含まれている。
山に逃げ込んだはいいが、食べるものもなく餓死寸前に投降してきた者は捕虜も含めて561人。
彼らのうち514人が収容所に収容され「保護蕃」と呼ばれた。

「霧社事件」の討伐はは昭和5年12月中には完了して一件落着となったが・・・・
「蕃人掃蕩隊」のトロツク藩はこの討伐で特に多くの損害を出している。
つまり反抗蕃に返り討ちに遭って馘首されたものが多かったわけである。
馘首されるということは、彼らにとっては“恥”であり、“恨み骨髄”ということになったのだろう。
投降して「保護蕃」となった連中に対する加害が随所で起こったという。
対して、「保護蕃」のほうも、彼らには恨みがある。
日本に歯向かって日本人に討伐されるのは覚悟の上、やむを得ないと思うが、何で同じ原住民に討伐されて首を刈られなければならないのかということである。
こっちには、こっちで味方蕃に対しての恨みがある。
この恨みを、いつか晴らしてやる・・・というところだろう。
このことは、当然、同じ思考回路の原住民同士だから、味方蕃のほうもわかっている。
やられる前にやっちまおう!・・・となる。
が・・・計画を立てるたびに日本側にバレて何度も阻止されていたので、彼らには鬱憤が溜まっていたらしい。
その時に、宝蔵寺という名の警察課長が部下に命じて、味方蕃に保護蕃を襲撃させて鬱憤を晴らしてやろうと“けしかけた”らしい。

そこで味方蕃の蕃丁208人が数か所に分かれて収容されていた保護蕃を襲撃したのである。
これが昭和6年4月25日に起こった「第二次霧社事件」である。
514人の保護蕃のうち195人が殺害され、19人が縊死、10人が行方不明となり、生存者は298人である。
日本は、この生き残った298人を別の場所に強制移住させることにし、その場所を「川中島」と名付けたのである。

というわけで・・・・この「川中島」に来てみた。
戦後、国民党によって改名させられ、現在は「清流」と名付けられている地である。

餘生記念館の「餘生」は、「生き残って余生を過ごす・・・」という意味ではなかろうかと思う。
この霧社事件、第二次霧社事件、そして強制移住に関する資料の展示がされている。

DSCN3776_convert_20170220172131.jpg (敷地内にある「霧社事件餘生紀念碑」)

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資料の展示と言っても、パネル展示だけである。
説明文は全部中国語・・・(汗)
ローマ字も併記されていたので英語かなと思って読んでみたら、全く知らない言葉である。
もしかしたら、原住民の賽徳克(セデック)族の言葉かもしれない・・・・

昨日、課長が、この村を案内してくれると話をしていたが、やっぱり仕事で時間が取れないとのこと。
そりゃそうだ・・・平日だもん・・・(苦笑)
そこで、この村に住む課長の叔父さんに連絡をしてくれて、キュウさんという叔父さんに案内を頼んだという。
ガイドが、このキュウさんを迎えに行っている間、拙者は一人で、ここを見学する。
ここは無人で、無料の資料館である。(笑)
勝手に入り込んで電灯をつけて見学・・・・
相変わらず“翻訳者”なしで自力で中国語を読まねばならぬ。(涙)
漢字で書かれているので、ごく一部については、おおよそ意味は分かるが、意味不明の漢字や日本にはない漢字が並んでしまうとお手上げである。(涙)

間もなくキュウさんがやって来た。
挨拶もそこそこに、早速、展示パネルの説明をしてくださった。
日本語がペラペラなのには驚いた。
75歳だというから大戦末期に生まれて戦後育ちだと思うのだが、流ちょうな日本語を話すオジサンである。
が・・・ガイドが話の途中でやたらと口をはさんでしまうので、話の腰を折ってしまう。
そのうち、ガイドが「さぁ!ちょっと外に出ましょう!」などと言い出したのでカチンと来た。(怒)
「いま、説明を聞いているところなんだから邪魔をしないでくれ!」(怒)

DSCN3783_convert_20170221104843.jpg (霧社)

昔の霧社の町の写真・・・・
メイン通りの突き当りが警察署・・・現在、消防署がある場所である。
右斜め奥、山の中腹辺りに霧社神社が見える。
現在、「徳龍宮」がある辺りである。

DSCN3786_convert_20170221103917.jpg (人止関)

「人止関」の古写真・・・・
結構、良く見かける有名な写真の一つである。
霧社に来る前に、ここに立ち寄ったが、ずいぶん景色が違う。
この写真を見ると、「人を止める関所」っていう感じがよくわかる。

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DSCN3803_convert_20170221104237.jpg (昔の雲龍橋)

廬山温泉に行く前に立ち寄った「雲龍橋」の古写真・・・・
吊り橋である!(汗)
とんでもなく長い吊り橋である!(大汗)
拙者は、絶対、こんな橋は渡れない!(大笑)
現在は車が走れる橋に架け替えられている。
いやぁ~歩いて渡る羽目にならず本当に良かった・・・・(大笑)

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霧社事件の1年前の運動会の様子の写真・・・

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事件後の霧社公学校の運動会場の現場写真。
校庭に何かが“集められている”ような黒く盛り上がっているものが見える。
写真が不鮮明なので、よくわからないのだが、もしかしたら一か所に集められた犠牲者の遺体なのかもしれない・・・

DSCN3827_convert_20170221110737.jpg DSCN3828_convert_20170221110810.jpg

事件の首謀者モーナ・ルーダオに関する資料パネル

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日本の武装警官隊と、「反抗蕃」を討伐した「味方蕃」の記念写真・・・
「味方蕃」の足元には4つの生首が置かれている。
そのうち、一番左端の首は、どう見ても子供の首にしか見えない・・・(大汗)

DSCN3869_convert_20170315171656.jpg DSCN3871_convert_20170315171751.jpg

「保護蕃」に関する展示パネル。
2人の女性が写っている写真は、結構、有名な写真だと思う。
この左側の女性はキュウさんのお母さんだそうで、右側の女性はお母さんの妹、つまり、キュウさんの叔母さんだそうである。
キュウさんのお母さんは、非常に優秀な人で、日本語もペラペラ、分数の計算もできたらしい。
で・・・教育熱心・・・
キュウさんは、お母さんから「あなたの日本語は下手だ。勉強が足りない。もっと勉強しなさい」とよく叱られたという。(笑)

戦後、中国大陸から蒋介石率いる国民党が台湾にやって来た。
で・・・校長や学校の先生として、彼らが着任したらしいが・・・・
「分数の計算もできないような人間が校長なんだからねぇ~」と怒っていた。
計算ができるかどうかは彼らの優秀さを計るバロメーターだったようである。
分数の計算ができる母親を持つ身としては許せないのだろう・・・文句タラタラ・・・である。(苦笑)

キュウさんからは、事件の遠因の一つとなったエピソードを聞かせてもらった。
ある時、駐在所の前を原住民の青年が通りかかったところ、日本人警察官に呼び止められ、酒を勧められたそうである。
当時は道も悪く、足元も危ない崖に沿った道を帰らねばならない。
で・・・酔っぱらうと危ないので、ほどほどのところで帰りたかったそうである。
そこで彼が、うっかり現地語で「バーカ」という言葉を口に出してしまったらしい。
この「バーカ」は、現地語で「もうお腹が一杯です」「もう十分いただきました」という意味だそうである。
ところが、この言葉を聞いた警官が怒り出した。
「馬鹿とは何事だ!」ということで、3人の警官が寄ってたかって、この青年に暴行を加えたらしい。
この青年は命からがら逃げだして村に帰ったが、そのまま寝込んでしまい、まもなく息を引き取ったそうである。
たぶん、内臓を損傷したのだろう。
「これは事件の直接の原因ではないが、こういうことの積み重ねが事件を起こしたんだよなぁ~」とキュウさんは言う。

「だいたいあの連中(日本人警察官)は尋常小学校しか出てないような連中で、質が悪かったんだよなぁ~」と言う。
遠慮会釈なくズバリと言われたのには驚いた。(大汗)

当時は“外地”に赴任するというのは人気がなかったようである。
出来れば国内で働きたいというのが人情だろう。
が・・・国内では、明らかに出世できないと分かっているような人もいただろうから・・・
外地赴任の手当てを目当てにするような人とか、一旗揚げようという「一旗組」のような連中が台湾に赴任した可能性は大である。
山地の駐在所に勤務となれば、警察業務だけではなく、行政に関しても指導的な立場となる。
まるで村長さんにでもなった気分と言っていいかも・・・
王侯貴族とまでは行かないにせよ、やりたい放題のことができるということになる。

キュウさんは「あれ(日本人警察官)は、やり過ぎたんだよ!やり過ぎ!」と言う。
「尋常小学校しか出ていねぇからなぁ~」と再び・・・(苦笑)
たしかに、おっしゃる通りだと拙者も思う。
事件後の昭和6年の1月に、台湾総督府から事件の報告を受けた昭和天皇は、「我が国の台湾統治の仕方に非があるのではないか?台湾の人たちを見下したような態度をとったことが原因なのではないか?」というようなことを口にしたといわれている。
台湾総督府や日本官憲の報告は、われわれ日本人には理解しがたい首狩りの風習がもたらした突発的な事件というような、あいまいな報告だったようであるが、昭和天皇はズバリと核心を突く見解を出していたのである。
天皇陛下はすごい・・・
それに比べて役人は・・・・身内を庇い、誤魔化す・・・・(大汗)
今も昔も変わっていないようである。(苦笑)

そんなこんな話をしている間にも、ガイドはチョコチョコと余計な口を挟んでキュウさんの話の腰を折る。(汗)
空気が読めないというか・・・自己中なのか・・・・(笑)
あまりにもうるさいので、ついに我々二人は彼を追いやった・・・(大笑)
彼が立ち去ったところでキュウさんが「なんだ、あいつは!ひとが話をしているのに邪魔しやがって!」と怒り出した。
いやぁ~その恐いこと・・・(大汗)
セデック族って・・・怒りっぽい人種なのかな?(苦笑)
昔のセデック族も、こんな感じだとすると・・・う~ん・・・事件を起こしてもおかしくはないかも・・・(大汗)

キュウさんが、お茶をごちそうするから家に来ないかと誘ってくれたので、ご自宅にお邪魔して、更におしゃべり・・・
もっと、おしゃべりをしたかったが、まもなくお昼になる。
昼食時にお邪魔しては失礼だろう。
名残惜しいが、自宅前で記念写真を撮ってお別れする・・・・

このまま車に乗って移動するのも面白くない・・・
ということで、拙者は徒歩で村の入り口まで戻ることにした。
車の方は先に行って待っててもらうことにした。
「どうぞ、ゆっくり見て歩いてください!」とガイド・・・・

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何の看板かなと思ったら、どうも健康増進のためのウォーキングマップらしい。
モデルコースを歩くと所要時間は15分で、消費カロリーはどのくらいになるかというようなことが書かれている。

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こちらの看板は「清流公約」と書かれているので、この集落のルールが書かれているようである。
で・・・住民だけではなく、この集落に外から訪問した人も守るようにということが書かれている。
「環境公約」は・・・・
酒瓶を捨てるなとか、家畜等を野放しにするなとか・・・そういうようなことが書かれているようである。
“稲草”や“廃棄物”を勝手に燃やしてはいけないというようなことも書いてある。
「生活公約」には・・・
18歳以下の青少年や児童に酒を売ったり与えたりしてはいけない・・・というようなことが書かれている。
どうも、原住民は酒が好きなようで・・・酒についての警告が書かれているのは面白い。(苦笑)
また、夜の11時以降に“遊蕩”している青少年は、“隣長”を通じて“家長”に通告し・・・なんだかんだと書いてあり・・・最後に、“帯”とあるから、親と一緒にということだろう・・・派出所へ行って情況を明らかにしなければならないというような厳しいお達し・・・(大笑)
こりゃ、いい!(大笑)
中国語なので、果たして拙者の解釈が正しいかどうか、ちょっと自信がないが・・・
こういうのを訳してもらいたいこともあってガイドを雇ったのに、肝心のガイドは車に乗ったまま行ってしまった・・・(唖然)
相変わらず肝心な時にいない・・・(涙)
しかし、こういう「公約」っていいなぁ~
我が町内会にも、こういう「公約」を掲示してもいいんじゃないか?(大笑)

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清流部落の水田・・・・
第二次霧社事件の生存者は、この地に強制移住をさせられたが、もともと彼らは山岳民族で狩猟で生計を立てていた民族である。
それが低地に移住させられ、狩猟したくとも狩りをする動物もおらず、狩猟民族から農耕民族に変わるよう強制されたのだから、その苦労は相当なものだったろう。
水田の稲穂を見ていて、よくぞ農業を身に着けたものだと感心・・・

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たぶん、昔、吊り橋があった場所だと思われるところに看板が立てかけてあった。

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この「川中島社」について書かれているようだが、解読不明・・・(涙)

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当時の「川中島社」の古写真・・・・

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「川中島」(現:清流)の集落の入り口に到着!
ここに史跡の説明板があった。

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日本人警察官が訓示をしているところ・・・・
整列しているのは、ここに収容された原住民たちではないかと思うが、後姿は日本人のようにしか見えない・・・
当時の服装がよくわかる写真でもある。

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さっきの看板の写真より、ちょっと見やすい当時の「川中島社」の写真・・・

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これは「霧社事件相関地点位置図」と書かれていた霧社事件関連の史跡の地図と写真・・・・
「斯固部落(雲龍鐵橋左上方)」と書かれているが、斯固は、もしかしたら斯克(スーク)社のことではなかろうか?
「馬赫坡(マヘボ)部落」は現在の廬山温泉ということで、間違いはないが・・・
現在廬山部落となっている場所、昔の坡阿崙(または波亞倫)(ボアルン)社のことだろうが、この地図では、廬山温泉から更に奥地のかなり離れた場所に位置している。
ということは・・・廬山温泉に行ったときに見た集落は、あれはボアルン社ではなく、マヘボ社の一部か、もしくは戦後に開拓された集落なのかもしれない。
こういう史跡の案内板があるのに有効に利用できず残念・・・・

この説明板によれば、1931年(昭和6年)5月6日に、生存者298名が、ここに強制移住させられたらしい。
それから6年後には住人は230人となったと書いてある。
キュウさんの話では、現在の人口も約230名とのこと。
人口が増えないのではなく、若い人たちはみんな都会に出て行ってしまい、残っているのが230人とのことだそうである。
で・・・村の祭りのようなときには、戻ってくるので、非常に賑やかになるとか・・・
う~ん・・・どこでも同じだね・・・(苦笑)

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集落の前には川が流れており、そこに「清流橋」という橋が架かっている。
で・・・橋を渡った先に車が待っているはずなのだが・・・・いない!(唖然)
どこにも車がいないのである!(大汗)
いったい、何をしていやがるんだ!・・・・とキュウさんじゃないけど、ガイドに文句を言いたくなる。(怒)
仕方がないので、周囲をブラブラするが、いつまで経っても現れない・・・

DSCN3913_convert_20170317162558.jpg(「清流」(旧:川中島)部落の入り口)

待つこと20分・・・・ようやく車が現れた。
どこに行っていたのやら・・・であるが・・・
“お客さん”を20分も放置しておくって、どういうこと?(怒)
ガイドは「さぁ、じゃぁ、行きますか!」とケロケロとしている。

で・・・車内に乗り込んで気が付いた・・・
拙者はカバンを車内に置いたままだったのだが、そのカバンの位置が変わっている・・・(大汗)
たぶん、彼のことだから拙者のカバンの中身を見たに違いない。
カバンの中には日本から持参した資料や、ノート類等々が詰まっている。
わざと、カバンの各ポケットを確認して、試しに首をかしげて見せたら、ガイドがソワソワして明らかに焦っている・・・(大笑)
やっぱり・・・・カバンの中身をいじったな・・・
迂闊にも車内にカバンを置いたままにしたのがいけなかったのだが・・・
こういうことをしては信頼関係を壊してしまうということがわからないのだろうか?
彼は漢人(中国人)だから仕方がないか?

とくべつ何かを盗まれたわけではないが、断りもなくノートや資料を勝手に見られたのでは気分が悪い。
彼は人は悪くないのだが、思慮浅い・・・調子はいいんだけどねぇ~(大笑)
キュウさんが説明しているのに口を挟んで話の腰を折るし、客を20分も路上に置き去りにするし・・・(苦笑)
困ったガイドである・・・(涙)
高いカネを出して雇ったのに・・・これではねぇ~(苦笑)
参った・・・・
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旅行 | 10:06:51 | Comments(0)
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