■プロフィール

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
56歳
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)

■最近の記事
■月別アーカイブ

■カテゴリー
■FC2ブログランキング
■ブロとも申請フォーム
■最近のコメント
■小さな天気予報


-天気予報コム- -FC2-

■ブログ内検索

■リンク
■RSSフィード
■FC2カウンター

霧社の役所巡り?(苦笑)
DSCN3536_convert_20170113163234.jpg DSCN3537_convert_20170113163313.jpg
(部屋から見た景色)

午前6時30分起床。
7時30分にホテル内のレストランに行ったら誰もいない!(大汗)
レストランは休みなのかなと思ったら、フロントの女の子が吹っ飛んできて中国語で何か言ってる。(苦笑)
拙者は中国語がわからないんですけど・・・(大汗)
どうやら「レストランはオープンしていますから、どうぞ」と言っているような・・・(勝手な想像だが・・・)
しかし、食べるものが、ほとんどない!(苦笑)
コーヒーは昨日作ったものかと言いたくなるくらい〝ぬるい”・・・(涙)
ほとんど水と同じ温度には参った・・・(大泣)
食べられそうなものは・・・キャベツを茹でたもの・・・
これは、なかなか美味しかったので〝おかわり”する。
薄い食パンと茹でたキャベツと〝ぬるい”コーヒーが今日の朝食である!(大笑)

午前9時、ホテルを出発!
「埔里」の町を抜けて山に向かい30分ほど経ったころ、「人止関」に到着した。
山の中の、ちょうど道路がカーブしている場所に「記念碑」が建っていた。
他の車には大いに迷惑をかけてしまうが、カーブの先に車を止めて記念碑のところに向かう。

DSCN3542_convert_20170113170811.jpg DSCN3541_convert_20170113170726.jpg

DSCN3538_convert_20170113170856.jpg

この「人止関」は、文字通り「人を止める関」なのである。
ここが「平地民」と「山地民」の居住地の境界線・・・・
平地から勝手に山地に入ってくると、このあたりで首を刈られて殺されてしまったらしい。
ということで・・・昔から、このあたりでは“戦闘”が行われている。
「霧社事件」が起こった時にも平地の「埔里」からこの道を通って「霧社」に日本の武装警官隊や日本陸軍の将兵が向かった、平地から「霧社」へ向かう唯一の“道路”・・・・
が・・・あれ?・・・なんか雰囲気が違う。
古写真を見たことがあるが、山の中の“切通し”のような感じの場所と思っていたのだが・・・・
「人止関」の碑が建っているのだから、このあたりで間違いはないとは思うが、どちらかというと、この先のカーブのあたりが、当時の雰囲気が残っているような気がしないでもない。

DSCN3546_convert_20170113172313.jpg

ここにある「人止関」の碑には、「霧社事件」に関しては全く何も記載はされていなかった。
(雑草に覆われていて、碑の下のほうが見えなかったから断言はできないけど・・・)
ここには、「人止関」の史跡としての説明看板か何かが欲しいところである。

ここから車で10分ほど走ったら、「霧社」の町に到着。
早速、課長に会いに役場に行く。

DSCN3552_convert_20170113175156.jpg (仁愛郷公所=仁愛郷の役所)

開口一番、課長が言う・・・・「昨日は飲みすぎた!」(苦笑)
なんでも、夕方に職員同士で酒を飲み、その足で拙者に会いに来たという。
夕方から飲みっぱなしだったとか・・・(唖然)
シラフでは拙者に会えなかったということかな?(大笑)

「霧社」の町は小さい・・・
メインストリートが1本走っていて、その周囲が繁華街。
丘の上の狭い範囲にある小さな町・・・という感じである。

「霧社事件」は昭和5年(1930年)10月27日に発生した事件。
今から86年前のことである。
この一帯に住む先住民族(蛮族、蕃族、もしくは高砂族)が木材運搬の賦役の過酷さと、日ごろからの日本人警察官の横暴対する不満から一斉に蜂起して現地在住の日本人を襲撃した。
簡単に言うと、それが「霧社事件」である。

DSCN3556_convert_20170117103403.jpg (郵便局)

日本統治時代も、ここに「郵便局」があったという。
事件当時、ここも襲われ、日本人の郵便局長と、その家族が虐殺された。

DSCN3559_convert_20170117104838.jpg

正面に見えるのが、消防署・・・
以前は、ここに警察署があった。
拙者が以前、ここに来たとき(たぶん1993年だと思う)は、ここに警察署があった。
現在は、斜め前の場所に移転している。

当時の「霧社」における日本側の統治の仕方は、どうも警察官にあらゆる権限が集中していたようである。
ここの警察署は「霧社分署」で、その下に「駐在所」が各地に置かれていた。
「霧社」地区には11の「社(村もしくは集落、部落)」があり、それぞれに駐在所が置かれていた。
昭和5年当時、ここ「霧社」では、建物の建設が目白押しだったようで、駐在所の建て替えや学校の寄宿舎の建設や何だかんだ・・・
それに使われる木材を山から切り出して運ぶという“使役”が原住民たちに強制的に課せられた。
警察官からの命令である。
ところが、この木材は引きずってはならず、傷をつけないように必ず肩に担いで運べという。
これが過酷な労働で、何十キロも肩に担いで運ばねばならないので、あっという間に肩が腫れ上がる。
「もう勘弁してくれ」と訴えても警察は聞き入れない。
それどころか、日本人警察官は、いちゃもんを付けて労賃すら支払わないこともあったらしい。
たぶん、着服、横領をしたのだろう。
加えて“女性関係”も事件の遠因となっているという。
各社の頭目(村のリーダー)の娘とか妹とかと結婚すれば、日本人警察官は彼らの親戚となるので、統治がしやすくなると考えるのは無理もないと思うが・・・
日本に妻子がありながら原住民の娘と結婚するとか・・・(佐塚愛佑という警部だそうだ)
または、結婚はしたが、最終的には捨てたり・・・(近藤儀三郎という巡査部長だそうだ)
駐在所の前を通りかかった原住民の娘を山に引きずり込んでレイプする警察官がいたり・・・(尾花長太郎という巡査だそうだ)
これで、「反乱」が起こらないほうが不思議というものである。

彼らが蜂起したときに、一番最初に襲ったのが、製材所・・・・
その次が、各地の駐在所と警察署・・・
最後は小学校・・・
この順番からいっても、彼らが何に恨みを持っていたかがわかろうというものである。
この「霧社」の警察署も襲われ、警察官が虐殺されている。

DSCN3563_convert_20170117114206.jpg

旧警察署(現:消防署)の脇の坂道を登っていくと、日本統治時代の「霧社神社」にたどり着く。

DSCN3565_convert_20170117114313.jpg

ちょうど消防署の真後ろに廃屋が見えた・・・
もしかして日本統治時代の日本家屋だろうか?
形からいって、なんとなく、それっぽいのだが・・・・
課長とガイドは、どんどん先に行ってしまい、質問することができなかった・・・(涙)
当時の建物ということになると、警察署の真裏にあるから、警察官官舎というこではなかろうか?
ここもたぶん、襲われているだろう・・・・

DSCN3567_convert_20170117114406.jpg

まもなく神社の入り口に到着・・・
ここは現在は「徳龍宮」という現地の神社になっている。

DSCN3568_convert_20170117114433.jpg

神社の石段の脇に灯篭が・・・
課長が言うには「日本の灯篭だ」というのだが、どうも形がシックリいかぬ。
とても日本人の手で建てられたようには見えないんですけど・・・(汗)

DSCN3569_convert_20170117114537.jpg (徳龍宮)

日本統治時代の神社の痕跡のようなものは何もなかった・・・

DSCN3570_convert_20170117114608.jpg

ここから見た景色・・・・
ここが周囲を展望するには、一番高い位置になるのかな?

DSCN3573_convert_20170117131136.jpg (衛生所)

神社の脇の一段下がったところに「南投縣仁愛郷衛生所」の建物がある。
日本でいえば・・・「保健所」かな?
課長が、ここに用事があるので付き合えという。(唖然)

「衛生所」に入るなり「おはようございまぁ~す!」と課長が職員たちに日本語であいさつした。(唖然)
なんで日本語?
「この人、日本人、ということで、おはようございまぁ~す!」と拙者を指さし職員に挨拶・・・
あらら・・・である。
課長の用事というのは、所長に封書を1通、手渡しするだけのことだった・・・(汗)
で・・・ここのベランダに出て、再び周囲を展望する。

DSCN3575_convert_20170117134300.jpg

「霧社」には11の「社」があった。
「ボアルン社」「スーク社」「マヘボ社」「タロワン社」「ホーゴー社」「ロードフ社」「カツツク社」「バーラン社」「タカナン社」「トーガン社」「シーパウ社」の11社である。
で・・・それは、どのあたりにあったのかなと課長に尋ねたら・・・
「あっち!」とか「こっち!」とか・・・指し示す方向が適当なのである。(涙)
今はどうなっているのか、できれば見に行きたいと話したのだが、「今は何もない」という。
本当だろうか?
すべての集落が消え去るなんてことはあり得ないと思うのだが・・・・(汗)

課長の話では、11社はみんな仲良しだったという。
特に各社の頭目(リーダー)は、日本に対して蜂起することに全員が反対していたが、若い連中が勝手に事を起こしたため、引きずられることになったという。
この話は、拙者が事前に調べた話とはかなり違っている。
11社のうち、6社が積極的に蜂起に参加し、5社だけが頭目の反対で蜂起には参加しなかったと聞いている。
この5社を日本では「味方蕃」と称した。
この11社がみんな仲良しだったという話も聞いたことはない。
逆に、お互いに相手の首を刈ったり刈られたりということがあって、内心、敵対関係にあった社もあったと聞いている。
だから11社が“共同戦線”を張れなかったと聞いているのだが・・・
課長の話が果たして正しいのかどうか・・・検証のしようがないのでどうしようもないが・・・・

木材を切り出したのは、向こうの山々の奥に見える山あたりからだと課長が言う。
へぇ~・・・・あんな奥地から切り出して、肩に担いで運んだのか?
そんな過酷な労働をさせられたら、そりゃ、逆らいたくもなるよなぁ~

DSCN3579_convert_20170117131538.jpg (霧社の町)

次に向かったのは・・・・
消防署の隣に建つ「戸籍事務所」という役所である。
なんで、ここに行くことになったのか、理由がわからない。(苦笑)

DSCN3583_convert_20170119192943.jpg (戸籍事務所)

相変わらず課長は日本語で「おはようございまぁ~す!」と叫ぶ・・・
職員たちが驚いた顔で、こちらを見るので、ちょっと恥ずかしい・・・(大汗)
ここの職員・・・10名が先住民族(蕃族・高砂族)で、中国人(中華?)は1人だけだと課長が言う。
で・・・コーヒーでもどうぞ、と職員からコーヒーをごちそうになる。
所長室でコーヒーをいただいたが・・・拙者はここに特に用事はないんですけど・・・(苦笑)
まもなく、「さぁ!行くぞ!」と課長・・・
う~ん・・・何しに来たのやら・・・である。(苦笑)
ちょうど、この戸籍事務所にやってきた現地のおばあちゃんたちがいた。
「この人、日本人だから・・・」と課長が言ったので、このおばあちゃんたちに「ニーハオ!」と挨拶したら、「日本語でいいんだよ。日本語が通じるんだから・・・」と課長。
おばあちゃんから流ちょうな日本語で「どこから来なさった?」と尋ねられた。(驚)
「茨城県です」
「へぇ~茨城県?で・・・何しに来たの?」
「歴史の勉強です」
「へぇ~歴史?こんなところにわざわざ?へぇ~」と半ば呆れて役所から出て行った・・・
このおばあちゃんも先住民族なのだと課長が言う。
それにしても、日本人のおばあちゃんと全く区別がつかない日本語を話すのには驚いた。

その昔、先住民族は、各部族ごとに言葉が違っていたという。
で・・・日本統治時代に、その部族間の共通語として日本語が使われたらしい。
今でも、昔と同じように部族間で使われているのだろうか?
尋ねるのを忘れてしまったが・・・
幼い時に日本語を勉強しただけでは、こうもいきなり流ちょうに話すことは難しいと思うのだが・・・
普段から使っていないとねぇ~・・・・忘れちゃうと思うんだよねぇ~(笑)

DSCN3584_convert_20170120161808.jpg

ここには事件当時、日本人の旅館があったと課長が言う。
旅館というと・・・・「桜旅館」というのがあったという話を聞いたことがあるが・・・
課長がサッサと歩いて行ってしまったので、確認する暇がなかった。(大汗)
とにかく、拙者は写真も撮りたいので、立ち止まってしまうのだが、その間に、課長もガイドも行ってしまうのである!(苦笑)
いやはや後を追いかけるのが大変である。(大汗)

今度は・・・図書館!
といっても、小さな目立たない建物・・・
主に雑誌と児童図書ばかりが目立つ・・・
これといって見るものは無し・・・(汗)

これで「町」の中は一応見たことになる。
課長が、役所に一旦戻るので、ちょっと役所で待ってろ・・・と言う。
役所の外で待っていたが、いくら経っても戻ってこない。
これでは時間がもったいない。
ということで・・・ガイドの“キョさん”に課長への伝言を頼み、単独行動を取ることにする。
スポンサーサイト


旅行 | 11:19:40 | Comments(1)
コメント
承認待ちコメント
このコメントは管理者の承認待ちです
2017-01-25 水 19:55:34 | | [編集]
コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する