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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
56歳
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)

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ジャカルタ市内観光
今日は日本に帰国する日・・・・
しかし、飛行機は午後11時30分発・・・つまり夜遅く帰るので、日中は市内観光を行う。

DSCN3095_convert_20161018151405.jpg (ホテルの部屋から見た景色)

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(移動途中で見た景色)

胃の調子は相変わらずなので、朝食は果物だけを食べる。

ホテルをチェックアウトして・・・・最初に向かったのは、独立記念塔・・・・
この記念塔は、広大な独立広場(ムルデカ広場)の中心にある。
歩いていくのは大変なので(?)、この公園内を巡回している、なにやら子供の乗り物みたいな「バス」に乗って向かった。(笑)

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DSCN3101_convert_20161018153318.jpg (独立記念塔)

この独立記念塔は大理石でできているのだそうで、高さは130mほどあるのだそうだ。
地階は博物館になっていた。(大喜)

DSCN6140_convert_20161018170844.jpg (地階の博物館)

この博物館は、インドネシアの歴史をジオラマで展示している。
日本軍に関する展示も、過去には結構あったらしいが、リーダーの“イズミさん”の話では、なぜか、少なくなっているという。
解説文は、すべて英語で書かれていたが、短時間で読むのは拙者には困難だった・・・(大涙)
かなり時間を取らないと・・・無理!(苦笑)

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(824年のボロブドゥール寺院の建設工事の様子のジオラマ)

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(1873年に起こったアチェ戦争のジオラマ)

アチェ戦争は、オランダがスマトラ島のアチェ王国を侵略した戦争のことである。
この戦争は1904年までの31年間も続き、結局、アチェ王国は滅びた。
たしか、アチェには戦時中、日本軍が駐留していたはずだが、部隊名が思い出せない・・・(汗)
何年か前に、ここを震源地とする大地震もあったような記憶がある。
たしか・・・アチェだったよな?

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(1945年・昭和20年・8月17日に行われたインドネシア独立宣言のシーン)

インドネシアの独立宣言は日本が降伏した2日後に行われている。
驚いたことは、この独立宣言文の日付が05年8月17日となっていること・・・
この05年とは、日本の皇紀2605年の事なのだという!
間違っても1945年の45年ではないというところがすごい。
敗戦国の年号を使うなんてチョット考えられない話だが、日本がいかにインドネシアの独立に貢献したかの表れかも。

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(1955年にバンドンで開催されたアジア・アフリカ会議のシーン)

第1回アジア・アフリカ会議は、インドネシアのバンドンで開催されたので「バンドン会議」としても有名。
参加国の多くは第二次世界大戦後に欧米の植民地から独立した国だったという。
が・・・第2回は開催されず、そのまま消滅してしまったらしい。
なんとも残念な話である。
いつまでも欧米白人主導っていうのは・・・・正直言って面白くないんですけど・・・(苦笑)

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確か・・・この「歴史博物館」の上の階だったと思うが・・・
「独立の広場」と呼ばれる場所だったと思う・・・
ここは中央の“柱”以外に何もないような場所なのだが、この中央の扉が1時間に1回ぐらい開いて、独立宣言を読み上げるスカルノ大統領の肉声が流れる。
ちょうど他に観覧者もなく、定刻の時間まで待つわけにもいかなかったので、ガイドが交渉して特別に、この「イベント」を開催してもらった。

次は、市内各地に残る日本統治時代の建物を、少し徒歩を交えて見て回る。

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何が写っているのか分からないと思うが・・・・(大笑)
この建物は、第16軍の司令部に使われた建物である。
現在はエネルギー省として使われている。
道路の反対側からしか写真は撮ってはいけないとのことなので、どうしても街路樹が邪魔になってしまう。
ダメというものはダメ・・・・仕方がない・・・・
その他の建物も、すべて道路の反対側か遠くからしか撮影できないとのこと。

第16軍は、日米開戦の直前、昭和16年11月に編成された軍で、ジャワ攻略戦を担当した。
インドネシア占領後は終戦まで同地で軍政を敷いていた。
第16軍とは日本陸軍の戦闘序列の一つで、南方軍(南方総軍)の下に「方面軍」というのがある。
その中で、シンガポール方面の作戦や防衛を担当したのが第7方面軍・・・
その方面軍の下に直轄部隊と、第16軍、第25軍、第29軍などの「軍」があり・・・
そのうちのジャワ島(インドネシア方面)を担当したのが第16軍である。
そしてその下に第48師団というような「師団」「旅団」等の実戦部隊がある。

DSCN3121_convert_20161018181556.jpg DSCN3124_convert_20161018181630.jpg

この建物は・・・大統領官邸である。
普通の観光客には「大統領官邸」としか見えませんが・・・・(大笑)
戦時中は、第16軍司令官の官邸として使われていた建物なのである。
ジャワ攻略戦(蘭印作戦)でインドネシアを攻略し軍政を敷いた初代の第16軍司令官は、かの有名な今村均中将である。
今村中将は宮城県仙台市の出身・・・・
この人の軍政は、負けたオランダ人や、現地住民に対して寛容な軍政だったため、陸軍内部から「甘い」という批判をされ、強硬な軍政を敷くべきだとの批判も受けたといわれている。
戦後はオーストラリア軍に懲役10年の刑を言い渡され(オランダ軍の裁判では無罪)、刑に服し、刑期を終えた後は自ら「謹慎生活」を送り、昭和43年に82才でこの世を去っている。
その今村さんが、住んでいた場所である。(嬉)
今村司令官は、ここから馬に乗ってパカパカと司令部に“出勤”していたという。(笑)

 

続いて向かったのは、「独立宣言起草博物館」・・・・

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この建物は、戦時中は日本海軍の海軍武官官邸だった。
当時、ジャカルタの海軍駐在武官は前田精少将だったので、別名「前田邸」とも呼ばれたようである。
終戦の翌日、つまり昭和20年(1945年)8月16日、この官邸にスカルノ(のちの大統領)、ハッタ(のちの副大統領)などが集まり、この建物内で独立宣言の草案を練ったという。
前田少将が場所を提供し、独立運動に手を貸したということになる。
当然、独立宣言の草案にも関わったのだろうが、日本は戦争に負けて降伏した直後だし・・・・
ということで、草案自体や、その打ち合わせは“黙認”という立場を取ったとか・・・
「知らないうちに勝手に建物の中に入って、勝手に何かを作ったようです」とトボケたのだろうか?(大笑)
そういう、いきさつのある場所なのである。
そこで、この建物が「独立宣言起草博物館」として公開されているらしい。
非常に歴史的に価値のある建物ということになる。

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DSCN6156_convert_20161018204818.jpg (独立宣言をタイプしているシーン)

DSCN6158_convert_20161018204858.jpg (独立宣言草案の打ち合わせシーン)

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前田精(まえだ・ただし)少将を紹介するパネルの展示もあった。
前田少将は鹿児島県出身の人。
戦後もご存命で、昭和52年(1977年)に79才でこの世を去っている。

残念だったのは、この博物館には何の資料も販売していないという事・・・
受付嬢に英語で尋ねたら、博物館のリーフレットもインドネシア語のものしかないという。
日本語のものでなくとも、少なくとも英語で書かれた「独立宣言起草」に関して書かれた書物でも販売していたら買ったのになぁ~
なんとも残念・・・・
インドネシア人というのは、本を読まない人種なのか?(苦笑)
ミュージアムショップで書籍を見かけるということがない・・・・
いや、ミュージアムショップ自体がない・・・・(汗)

次に向かったのは「軍事博物館」!!(大喜)
拙者の一番、興味のある分野の博物館である。(大笑)

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この建物は、デビ夫人の別邸だった建物だという。
その建物が、博物館となったわけだが、“軍事”博物館ということで、デビ夫人の別邸だった当時を偲ぶようなものは見当たらなかった。(苦笑)
「デビ夫人」は、スカルノ大統領の第3夫人で・・・・本名は根本さんという日本人だそうだ。
日本でタレントとして活躍しているが、そういえば、最近、あまり見かけないような気がするが・・・・お元気なのだろうか?

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ここにもジオラマの展示があった。
よほどインドネシア人というのはジオラマが好きらしい・・・(笑)
確かに分かりやすいから、パネル展示だけというよりは良いが・・・・
このジオラマは、日本の憲兵隊司令部を攻撃しているシーンらしい。(大汗)

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銃器類の展示もあった。
その中に、またもや日本陸軍の九二式重機関銃が・・・・(喜)

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館内の展示物をササッと見学して、屋外の展示場に行く。
こちらには、航空機、戦車、装甲車などが展示されていた。

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(アメリカのB-25)

この飛行機・・・「B-25」は陸上機なのに空母から発進して日本本土を初めて空襲した「ドゥーリットル空襲」で有名な機体である。

ここには日本軍の飛行機も展示されていた!(大喜)

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この複葉機は「九三式中間練習機」だと思う。
海軍の練習機で、「赤とんぼ」という愛称で有名な機体で昭和9年(1934年)に生産が開始された飛行機である。
この機体はインドネシア軍に接収されたもので、インドネシア空軍では昭和22年(1947年)まで使われていたらしい。

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この機体は日本陸軍の「二式高等練習機」だと思う。
この飛行機は陸軍の九七式戦闘機を複座に改造し、練習機にしたもので、昭和17年に制式化され生産を開始した。
この機体も、戦後、インドネシア空軍が使用していたもの。
この「二式高等練習機」は、世界中を探しても、ここにしかないと思う。
貴重な機体である。

ところで・・・これらの展示機体の説明板は・・・・すべてインドネシア語!(大泣)
どのように説明されているのか全く分からない・・・(苦笑)

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この飛行機は「パイパー」という飛行機で、日本のものではなくアメリカの飛行機・・・
戦時中には、「観測機」として使われていた飛行機である。
フィリピンの北部ルソンで戦った日本兵の体験記には、必ずと言っていいほど、この「観測機」の話が出てくる。
上空をブンブン飛び回り、日本兵を見つけては砲兵陣地に連絡し、敵の砲兵部隊が大砲の弾を撃ち込んだのである。
日本兵の中では「アブ」(あの虫のアブのようにブンブンうるさく飛ぶから・・・)と呼んでいた人も多い。
低空を低速で飛んで「観測」するのだが、地上から小銃を撃っても当たらない・・・
逆に隠れている場所を知られてひどい目にあうので、手の施しようがなく飛ぶに任せていた。
拙者の祖父も、北部ルソンの山岳地帯では、この飛行機に散々苦しめられたのである。
う~ん・・・憎き奴め・・・ここで会うとはな・・・(大笑)

この博物館にもミュージアムショップのようなものはない・・・・(涙)
もったいないなぁ~
インドネシア独立戦争の本とか、博物館のガイドブックとかを置いて売ればいいのに・・・・

時刻は12時を過ぎた・・・・昼食に向かう。
昼食場所は市内のレストラン・・・
ちょうどパラパラと雨が降り出した・・・
グッドタイミングである。
屋外の展示物を見学中に雨に降られなかったのは本当に幸運である。(喜)
が・・・・相変わらず拙者の胃はムカムカとして、全く食事を受け付けない・・・(涙)
食欲は全くなし・・・
最悪である・・・・

続いて向かったのは、「国立英雄墓地」
ここが今日最後の訪問地となる。
幸運なことに、雨は完全に上がってくれていた!(喜)

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ここは、インドネシアの独立の時に戦って戦死した方々が葬られている。

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お墓には、銀色に塗られたヘルメットが供えられている。
この墓地の中で、「ISHI(石井)」とか「SUZUKI(鈴木)」とか、明らかに日本人と分かる名前があった。
終戦後、日本に帰らず現地に残留してインドネシア独立のため戦った元日本兵の方なのだろう。

ここをお参りし・・・・時刻は午後5時を過ぎた・・・・

空港には午後9時頃までには到着しなければならない。
途中のレストランで夕食を食べてから・・・・という予定だったが・・・・
渋滞に阻まれ、時間がドンドン過ぎていく・・・(大汗)
まもなく午後7時・・・・
ガイドに尋ねたら、レストランまで、あと1kmくらいだという。
それなら、歩いた方が早いんじゃないか?(苦笑)
1kmくらいなら、徒歩で15分もあれば到着するんじゃないか?
ところが・・・ガイドは、どうしても車で送り届けたいらしい・・・(大汗)
おかげで、わずか1kmを移動するのに1時間もかかってしまったのである!(驚)
レストランに到着したのは午後8時・・・・
今晩は中華料理だという。
とてもじゃないが、食事なんかしている時間などない!(怒)
到着と同時に、ここを出なくては空港に間に合うまい?(大汗)
ここで食事をするのを諦め、15分以内にテイクアウトできるよう頼むこととなった。

15分では、いくらなんでも無理だろうと思ったら、キッカリ15分後には、発泡スチロール製の弁当箱(?)に詰められてテイクアウト!
この手際の良さには驚いた。(大笑)
車内で食べようかと蓋を開けたら、1つの箱には「揚げ団子」だけ、1つの箱には「チャーハン」だけ、「スープ」はビニール袋に入れてある・・・といった具合で、これでは車内で食べることができない・・・・(大涙)

なんとか、渋滞を切り抜け、無事に空港に到着・・・・
ガイドが空港のエントランス脇のレストランと交渉してくれて、“持ち込み”で食事をさせてもらうことができた。
場所だけを使用するというのも申し訳ないが・・・・
なにせ、ここでも“食事”を提供しているわけだし・・・そこに中華料理を持ち込んで食べるんだからねぇ~(唖然)
飲み物だけをお店に注文して、ご勘弁願う。(苦笑)
さて・・・中華料理・・・・
やっとピリ辛ではない料理にありつけると喜んだのだが・・・
スープなどの汁物はビニール袋に入っているし、“あんかけ”の蟹も同様・・・・食べようがない・・・(涙)
食べられるのはチャーハンと、デザートくらいである・・・(涙)
何も食べないよりは良しとするか・・・・
みんなで突っつき合いながら食べる・・・
手を付けずに残したものは、このお店の従業員に「皆さんで食べてください」とプレゼントした。
下手な英語でも身振り手振りで、なんとか意味が通じたようである。(大笑)
いやぁ~本当に、ご迷惑をおかけしました・・・・(汗)

チェックイン・・・・
リーダーは「全員通路側でお願いしたい」とカウンターの職員に英語で要望を出した。
これには拙者も賛成である。
機内泊の場合、通路側に座ったほうが、夜中にトイレに行くときに隣の人を起こすような迷惑をかけずにすむ。(大笑)
ところが、我がツアーの参加者の一人が事情を知らずか、横から「全員1か所にまとめて席を取ってください」と職員に言ったから混乱しちゃった・・・・
おい、おい、待てよ・・・である。
二人の言っていることが真逆じゃないか?
「絶対、全員、通路側のほうがいいですって!バラバラになってもいいから通路側!どうせ寝るんだから会話なんかしないでしょ?通路側をお願いします!全員、通路側!」と拙者が強引に押し切る。(大笑)

午後11時30分、ジャカルタ発羽田行きガルーダ航空GA674便に無事に搭乗・・・・
もうクタクタである・・・・
ここ数日、ほとんど何も食べずにいたんだから無理もないか?(苦笑)
爆睡である!
機内食が出たのか、出なかったのか全く記憶にない・・・・(大笑)
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旅行 | 15:12:01 | Comments(0)
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