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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
56歳
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)

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日出城跡へ行く
今日は、大好きな史跡めぐりの旅をする。
当初の予定では、杵築(きつき)に行ってお城を見ようと思っていたのだが、たまたまホテルに日出(ひじ)の観光パンフレットが載あったので、それを見たら、なかなかいいじゃないかということで、急きょ、日出に行くことにした。(大笑)

ホテルをチェックアウトして、9時27分発の電車で暘谷(ようこく)駅へ向かう。
電車は2両編成の鈍行である。(笑)

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駅舎は改築されたのだろうか、駅前も整備中の様子・・・
そのせいか、タクシー乗り場が見当たらず、やむなく徒歩で日出城に向かう。

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線路を渡り・・・ホームをパチリ!
時刻は午前10時・・・

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最初に訪れたのは「藩校・致道館」であるが・・・
門は開いていたが、「休館日」の表札が出ていた・・・(汗)
う~ん・・・・入れないこともなかろうが・・・無理して見るほどのものでもあるまいと諦める。(苦笑)

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次に向かったのは「日出城跡」・・・・
ここに「鬼門櫓」と呼ばれる櫓が現存している。
内部が見学できるようなので入ってみたら、たぶんセンサーが反応したのだろう、資料館の方がやってきて説明をしてくれた。

DSCN2422_convert_20160724155946.jpg (内部)

この櫓の面白いところは、櫓の隅が切られているところ・・・
外観を見てわかる・・・内部も当然隅が切られていた。
珍しい形である。
何で一か所だけ隅を切ったのか?

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隅櫓 (鬼門櫓)

隅櫓は、日出藩(ひじはん)木下家(きのしたけ)の居城である日出城の本丸東北隅に築かれた二層二階櫓で、「鬼門櫓(きもんやぐら)」とも呼ばれています。
慶長6年(1601)から翌2年にかけての日出城の築城とともに築かれたと考えられますが、史料上の初出は『豊後国(ぶんごのくに)日出城絵図(正保城絵図)』で、17世紀中頃には構築されていたことを知ることができます。
隅櫓の特色は、櫓の東北隅を欠いた特異な構造にあります。
当時、東北の方位は、禍(わざわい)を招く「鬼門」として忌み嫌われていたことから、これを除(よ)けるために隅を欠いたといわれています。
こうした櫓は全国でも大変珍しく、日出城の他に例をみないといわれています。
明治4年(1871)、廃藩置県により日出藩が廃止されると、明治8年(1875)には本丸内の天守や櫓が競売に付せられ、次々と取り壊されていきました。
しかし隅櫓はこれを免れ、山村羊太郎氏、南喜平氏を経て中村貢氏が所有し、大正10年(1921)に下仁王(しもにおう)(現東仁王)へ移築され、平成20年(2008)、中村家より日出町に寄付されました。

日出町有形文化財  平成21年7月10日 指定
日出町教育委員会

(説明板より)



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この櫓のすぐ隣にある歴史資料館を見学・・・
この歴史資料館は、帆足萬里の記念館も兼ねている。
この2つを見学するだけで、1時間も時間を費やしてしまった。(笑)

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城跡を散策することにする。
たぶん・・・この「日出小学校」が建っている場所が本丸跡ではなかろうか?

DSCN2426_convert_20160724203425.jpg (日出小学校)

緑地帯で銅像を発見!(大喜)

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帆足萬里と瀧廉太郎の銅像である。

DSCN2431_convert_20160724203647.jpg (帆足萬里像)


豊後三賢 郷土日出町の硯学
帆足萬里(ほあしばんり) (1778~1852)

江戸時代後期の儒学者・家老。
安永7年(1778)日出藩(ひじはん)の家老帆足通文(ほあしみちぶみ)の三男として生まれた。
14歳で豊岡の儒学者脇蘭室(わきらんしつ)の門に入り、ほとんど日出の地を出ることなく独学で研究に努めた。
経済、物理、医学、天文などの各分野にも通じ、萬里(ばんり)の学識は西欧の諸学者に肩を並べるものがあった。
天保3年(1832)、13代藩主木下俊敦(きのしたとしあつ)に請われて家老職につき、藩財政の再建にも力を尽くした。
嘉永5年(1852)、6月14日、多くの弟子に見守られて75歳の生涯を閉じた。
帆足萬里の代表的著書に、「窮理通(きゅうりつう)」「東潜夫論(とうせんぶろん)」などがある。
また、三浦梅園(みうらばいえん)(安岐)・広瀬淡窓(ひろせたんそう)(日田)とともに、豊後(ぶんご)の三賢(さんけん)と称される。

日出町

(説明板より)



この銅像は日出ライオンズクラブの25周年記念事業として平成4年に建立されたものだそうである。
日田(ひた)には、以前、行ったことがある!
広瀬淡窓・・・・懐かしいお名前である。

もう一つの・・・・瀧廉太郎の銅像・・・これが面白くない!(怒)

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東京の上野にあるものも、大分市にあるものも、みんな同じポーズの銅像なのである!(怒)
同じ型で作ったのだろうか?
それでは“大量生産”と同じである・・・・
この世に一つしかないから貴重なのであって、全国に同じものがいくつもあったら、価値が下がろうというもの・・・
「なぁ~んだ・・・またこれか・・・」である。(苦笑)
拙者は瀧廉太郎には恨みはないが・・・(大笑)
彼の銅像を見るたび不愉快な思いになるのである。
芸がないんだよね・・・同じポーズで・・・・
建立者も、もう少し考えたらよかったのに・・・と思うのだが・・・・
瀧廉太郎という人物は、その程度の扱いしか受けられない人物ということになるか?(苦笑)

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日出城跡の説明板を見っけ!(喜)



日出城址(ひじじょうし)

日出城は、別府湾を望む低台地上に築かれた階郭式(かいかくしき)の平城です。
別名「暘谷城」ともいわれ、3代藩主俊長(としなが)が中国の古書『淮南字(えなんじ)』あるいは『書経(しょきょう)』より引用し、命名したといわれています。
日出藩木下家は、全国でも数少ない豊臣秀吉ゆかりの大名で、初代藩主木下延俊(のぶとし)の父家定の妹おね(高台院)が秀吉の正室(妻)となったため、木下姓を許されました。
慶長6年(1601)8月、日出に入国した延俊は、幕府の許可を得て、日出城の築城に着手。
翌7年8月には概ね完成し、延俊は築城する間、領内藤原村に設けていた仮館を離れ、日出城に入城を果たしました。
日出城は、本丸を中心に二ノ丸、三ノ丸、外郭(がいかく)を重ねた構えをなし、郭(くるわ)は堀により仕切られ、要所には、城門が設けられました。
明治4年(1871)の廃藩置県以降、鬼門櫓(きもんやぐら)と裏門櫓(うらもんやぐら)を除き、城内の建物は、次々と取り壊されました。

町史跡「暘谷城趾」(昭和35年10月17日指定)
日出町教育委員会

(説明板より)


DSCN2455_convert_20160725100827.jpg (時鐘)


日出城の築城

日出藩木下家は、全国でも数少ない豊臣秀吉ゆかりの大名です。
初代藩主木下延俊(きのしたのぶとし)は、父家定(いえさだ)とともに秀吉に仕え、関ヶ原の戦では、義兄の細川忠興(ほそかわただおき)の強い説得により徳川方に付き、忠興の幕府への執り成しによって、豊後国速見郡(ぶんごのくにはやみぐん)日出3万石が与えられました。
慶長6年(1601)8月、日出に入国を果たした延俊は、日出城の築城に着手。
城の縄張(なわばり)(設計)は忠興が行い、石垣も忠興の家臣穴生理右衛門(あのうりえもん)を棟梁に構築されました。
天守は家定の助勢により築かれ、裏門の扉は富来城(とみくじょう)(国東市)の城門扉を転用したといわれています。
本丸には、御殿を中心に天守、大手門、搦手門(からめてもん)、櫓が築かれ、鬼門にあたる北東隅の城壁は入隅(いりずみ)の構造をなし、その上に築かれた鬼門櫓本体も隅欠きを施した特異な構造となっています。
裏鬼門(南西)の城壁も同様に隅を欠き、横矢が掛けられています。

町史跡「暘谷城氏趾」 (昭和35年10月17日指定)
日出町教育委員会

(説明板より)



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ぶらぶらと城址の外周を歩いてみる。
と・・・目立たないところに小さな石碑が・・・・

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小田(こだ)先生の殉職碑

昭和20年7月25日、豊後水道にて触雷した航空母艦海鷹が、駆逐艦に引かれて日出の城下海岸に係留着底した。
この日以来、米軍機による空襲が頻繁となり、7月28日、日出国民学校(現日出小学校)訓導の小田三郎氏が、空襲による銃弾に倒れ殉職した。
当時、小田三郎氏は37歳。
学校に宿直出勤していた後空襲を受け、登校していた生徒達を防空壕へ誘導中に被弾したといわれている。
石碑は、小田三郎氏の遺徳を讃え冥福を祈るため、教え子や知友によって、命日である昭和49年7月28日に建てられた。

日出町教育委員会

(説明板より)



史跡巡りをしていると、時々、このような学校の先生の遺徳を偲ぶ顕彰碑などに出会うことがある。
教え子や友人たちが建てたものだが、すべて古いものばかり・・・・
近年に建立したものに出会うことがない。
最近は、教え子から慕われるような先生がいないということなのだろうか?(苦笑)
戦後、日教組のような団体が幅を利かせたせいなのだろうか?
「教師は聖職などではなく、皆さんと同じ労働者なのです!」ということなら、一労働者、一サラリーマンの為に顕彰碑などは建てないよなぁ~(大笑)
戦前の先生と生徒の関係というのは、今の時代と違って“濃かった”のではなかろうか?
だから遺徳を偲んで教え子たちが碑を建てたりしたのではなかろうか?
天国にいる先生は、さぞかし照れ笑いをしていることだろうが・・・(大笑)
羨ましい限りである。
教育者冥利に尽きるのではなかろうか?
教師の最終目的は「教え子から顕彰碑を建ててもらえるような教育をすること」でもいいかも・・・(大笑)
現代の教師は、このような碑をみて、ちょっと考えてもらいたいものではあるが・・・
たぶん、見向きもしないんだろうねぇ~・・・・(大汗)

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この城跡には、「ここが○○門跡です」というような掲示がされていない。
その点が、ちょっと残念である。
単なる「城址公園」という扱いなのかな?
そこで、また石碑を見つけた!(大喜)
航空母艦「海鷹(かいよう)」の碑である!

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軍艦海鷹(かいよう)の碑

空母海鷹は、大阪商船所属の「あるぜんちな丸」で、南米航路の旅客船であった。
昭和16年、海軍に徴用され、航空母艦に改装された。
船団護衛や輸送の任務につき、南方作戦にて活躍した。
また、特攻機の訓練目標艦としての任務にもつき、航空機による特攻隊のみならず、人間魚雷「回天」の訓練にも使用された。
昭和20年7月24日、豊後水道で触雷、翌25日駆逐艦に引かれ日出の城下海岸に係留着底した。
以後、米軍機による空襲が頻繁となり、動けぬ海鷹は猛烈な攻撃を受けて中破し、そのまま終戦の日を迎えた。
軍艦海鷹の碑は、乗組員戦没者の鎮魂と世界恒久平和の願いをこめ、昭和57年11月22日、元乗組員たちによる海鷹会の手によって建てられたものである。

日出町教育委員会

(説明板より)


DSCN2481_convert_20160725211859.jpg (城下の湾)

この城下の湾のどこかに空母海鷹が着底していたんだなぁ~と感無量・・・
戦後、引き揚げられ解体されたそうであるが、そのまま鎮座していたら、どんな景色になっっていただろうなどと夢想する。

そのまま海岸の遊歩道をテクテク歩いていたら、珍しいものを見つけた。
祠なのであるが・・・「人柱の祠」だそうである・・・(冷汗)

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人柱祠(ひとばしらのほこら)

昭和35年、城下海岸遊歩道の工事中、日出城(暘谷城)の西南端より木棺が発掘された。
棺(早桶)は、岩盤をくりぬいた穴におさめられ、その上に大石が乗せられ石垣の基盤となっていた。
棺の中からは老武士らしき遺体の人骨とともに陶製の翁像が、大石の上からはカブトの金具などが発見された。
大分大学の半田・富來両教授や文化財関係者の調査の結果、日出城(暘谷城)築城当時の人柱であろうと推定された。
日出城(暘谷城)の築城工事は、城の西南部の地盤が弱く難工事であったと伝えられており、また方位上から城の裏鬼門にあたることなどから、人柱を立てたのではないかと考えられている。
棺の出土した地点の石上には人柱祠が祭られており、その昔の哀れさをしのび、祠に花を飾り香華をたむける人々が後を絶たない。

日出町教育委員会

(説明板より)



「人柱の祠」は、今から8年前に大分市の府内城に行った時にも見たことがある。
ずいぶん昔のことなのに、なぜか、鮮明に覚えている。
築城するときには、“人柱”を立てるのが普通だったのだろうか?
まさか、大分県(豊後国)だけの特徴というわけではないと思うが、他の城では見た記憶がない・・・
他の地域では「人柱」のことを忘れ去っていて祠を建ててやらないのか、それとも大分の人たちは特に義理堅い人たちということなのか?(苦笑)
いずれにせよ、「人柱の祠」を丁寧にお参りさせていただく。

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(正面奥、緑の茂っている向こうが天守台跡)

城の外周をぐるりと一周できるのかと思ったのだが、どうも無理なようなので、元来た道を戻り、日出小学校の向かいにある「二の丸館」に向かう。

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(移築復元された裏門櫓)

裏門櫓は、もともとは、現在の「時鐘」がある場所にあったらしい。
なんで、移築しちゃったのかな?(苦笑)

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ここは二の丸跡で、現在は観光案内所と軽食喫茶の“館”が建っている。
時刻は12時を過ぎた・・・ここで、コーヒーを飲み一服・・・(笑)
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