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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
57歳
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)

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千辛万苦の場
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史跡 千辛万苦之場
昭和43年1月29日市指定
別府市上田の湯6-37

元治元年(1864)9月徳川幕府は、長州征伐のいくさをおこした。
そのとき、長州の藩論は二つに分かれ、井上馨は、温和な解決を主張した。
そのため、御前会議の帰りみち山口城下袖解橋(そでとけばし)をすぎ一本松にさしかかったとき反対派に襲われた。
しかし危くも一命をとりとめた。
翌慶応元年(1865)馨は別府にのがれ、旅館若彦(のちの若松屋)に身をかくした。
若彦の主人彦七は事情を察し、手厚い保護を加えたためしばらくして全快した。
かれは、その後政界に身を投じ、47年後の明治44年(1911)5月末、別府の若松屋旧屋を訪ね、謝恩の意をこめて「千辛万苦之場」と扁額を書き、若松屋(松尾家)に贈った。
この建物は昭和57年12月18日移転復元されたものである。

別府市教育委員会

(説明板より)

DSCN2374_convert_20160719141827.jpg

【碑文】

千辛万苦之場

井上侯千辛万苦之場移轉ノ記

明治維新ノ元勲世外井上馨侯幼名勇吉天保六年十一月二十八日山口城下湯田ニ生ル藩主敬親公ノ小姓ト為ルニ及ヒ名ヲ聞多ト賜ハル天資剛直夙ニ大義ヲ唱ヘ克ク藩公ヲ輔ケ常ニ萬死ヲ冒シテ國事ニ奔走ス元治元年幕府征長ノ軍ヲ起スヤ藩論二派ニ岐レ危機ニ直面ス公ハ九月二十五日ノ君前評定ニ於テ武備恭順ヲ主張シ正義一貫論戦長時俗論派ヲ説破シテ潘是ヲ一決シタルモ同夜山口城外袖解橋附近ニ於テ反對派ノ兇刃ニ撃タレ瀕死ノ重傷ヲ負フ為ニ藩政再俗論黨ノ掌中ニ歸シ侯亦幽閉ノ身トナル爾来正義派ノ身邊益危険ヲ感スルニ至レルヲ以テ慶應元年春同士多ク諸國ニ亡命シ侯ハ變装シテ別府ニ逃レ若松屋ニ潜伏ス主人松尾彦七ノ庇護ト侠客灘龜ノ同情トニ依リ疵ヲ養フノ傍専念時機ノ到来ヲ待ツコト月餘尋テ長州ニ歸リ高杉晋作伊藤博文等ト共ニ尊王倒幕ノ議ニ参畫開國進取ノ宏謨ニ邁進遂ニ維新ノ大業ヲ翼成セリ侯往時ヲ追懐シ明治四十四年五月別府ニ来リ若松屋ヲ訪ヒ曩ニ潜伏ノ室ニ入リ感慨無量即筆ヲ執リ千辛萬苦之場ト書シテ楣間ニ扁ス年ヲ閲スルコト実ニ四十七年也今茲市区改正ニ際シ若松屋當主彦七其ノ遺跡ノ湮滅ヲ惜ミ記念物一切ヲ挙ケテ市ニ寄附セムトス市欣ヒテ之ヲ納シ地ヲ相シテ茲ニ之カ移轉ヲ了ス乃碑ヲ建テ其ノ顛末ヲ勒シ題スルニ侯ノ書ヲ以テシ永ヘニ追慕ノ意ヲ表スト云爾

昭和八年六月   別府市長平山茂八郎



【大分県別府市上田の湯】
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史跡 | 11:04:08 | Comments(0)
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