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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
57歳
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)

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芝山巌へ行く
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今日の朝食・・・・
昨晩のうちにホテルの近くのコンビニで購入しておいた。
どうも、ホテルのバイキングの朝食というのは落ち着かないので嫌なのである。
しかも、食べたいものもないし・・・・(苦笑)
コンビニのサンドイッチで十分である。

今日は、これから「芝山厳(しざんがん)」に向かう・・・・

午前9時30分前には「士林」という町に到着する。

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ここが士林(シーリン、またはスーリン)の旧市街地らしい。
昔の士林の街の跡で、道路がかなり狭い・・・
ここを少し散策してみる。

「士林」って、どこかで聞いたような覚えがある・・・・「夜市(ナイト・マーケット)」で有名だっけ?(汗)
“クウさん”に尋ねたら、確かに夜市で有名で日本人観光客も多いという。
へぇ~である。
すぐ近くには「芝山厳」があるが、日本人観光客は何も知らないのだろうなぁ~
明治29年1月1日に、「芝山厳」にあった「芝山厳学堂(国語教習所)」の先生と用務員の7名が現地人に惨殺された。
6人の先生なので台湾では「六氏事件」とも呼ばれている事件である。
“クウさん”の話では、六氏先生たちは、芝山巌の学校で殺されたのではなく、この士林の街のなかで殺されたという。
台北で開催される新年の祝賀行事に参列するため、芝山巌を出発して、この士林の街に来た時に殺されたという。
が・・・諸説あって、正確なところはわからない・・・・
そういうことなら、日本統治時代に殺害現場跡に「遭難の碑」か何かを建てていてもおかしくはないと思うのだが・・・
“クウさん”も「確かにそれは言える・・・」と同意・・・・
何も建てなかったということは、殺害現場は正確にはわからなかったからなのではなかろうか?
いずれにせよ、夜市を楽しむだけの日本人観光客は何も興味を持たないだろうね・・・こんな話・・・・
仕方がないか・・・・(汗)

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「慈誠宮(ツー・チェン・コン)」という名の神社・・・・
中国語の説明板を読んでみると・・・
この廟は「天上聖母」を祀っているのだそうだ。
「天上聖母」は「媽祖(まそ)」のことで、航海や漁業の守護神で道教の女神だそうだ。
拙者には何のことやらさっぱりわかりませぬが・・・・(大汗)
この廟は1796年(日本では寛政8年)」に創建されたそうで、場所は、今の士林旧市街だそうである。
1864年(日本では元治元年)に潘永清や潘盛清など信心深い人たちが八芝蘭という新市街地に遷して再建したという。
あれ?・・・・ここが旧市街だと思っていたんだけど・・・(大汗)
そうなると・・・どこからどこまでが旧市街地だったのやら・・・よくわからん・・・(汗)
「八芝蘭」は「芝蘭(ツー・ラン)とも呼ばれ、士林の昔の呼び名らしい・・・
もう、こうなると、益々訳が分からなくなってきた・・・(涙)
明治29年当時の士林(芝蘭)は、どこだったんだ?

さて、この「芝山厳事件」に関しては、「漳州人(しょうしゅうじん)」と「泉州人(せんしゅうじん)」との確執から話を始めなくてはならないと“クウさん”・・・・
さかのぼること・・・清朝時代(?)
福建省から、「漳州人」と「泉州人」が台湾にやって来たが、この二つの民族(?)は仲が悪かったそうである。
ただの仲の悪さというものではなく、殺し合いをしたそうである。
「漳州人」は台北城の北側に住んでいて、「泉州人」は台北城の南側に住んでいた。
どちらも淡水川沿いに住み、水運業などをしていたらしい。
で・・・この戦いで、「泉州人」が最終的に勝ち、、「漳州人」は北へ逃れたという。
ところが、その地にも、「泉州人」がやってきて、戦いを挑み、殺し合いと焼き討ちを行ったそうである。
で・・・、「漳州人」は一部が現地に残り、一部が更に北へ逃れ・・・・
最終的に、“潘さん”という人がリーダーになって、ここ士林に来たそうである。

“クウさん”が、その“潘さん”の家があった場所を探したいと言う。
なかなか、ここに来るチャンスがないので、できれば、この機会に探してみたいと言う。
拙者に異存があるわけがない!(大笑)
そういうのは大好きである!(大笑)
近所の人に聞き込みをしたが、教えてくれる人がそれぞれ違う場所を言うので困った・・・(苦笑)
“潘さん”は、この街の有力者だったんだよね?
あれ?・・・・である。
街頭に立っている観光地図にも「古蹟・士林潘宅」として載っているのだが、略図のため正確な位置を示していない。(唖然)
「このあたり・・・」である。
で・・・・「このあたり」とは・・・「このあたり」ではなかろうかということになった。(大笑)

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「士林潘宅」は「古蹟(史跡)」に指定されているはずなのだが、、どこを探しても「史跡」を示す説明板が見当たらない・・・・(汗)
う~ん・・・結局、正確な場所が分からないままとなってしまった。

その後、ウロウロしていたら、赤レンガの建物を見つけた!(笑)
こういうのは、すぐに目に飛び込んでくるんだよねぇ~(笑)
行ってみたら「士林市場」と書いてあった。

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この「士林市場」は1910年に建築されたものらしい。
明治43年のことだから、日本統治時代のものである。
観光地の「士林夜市」も「士林市場」というらしい・・・
そちらは新たに作られた「士林市場」である。
拙者は、ガイドブック片手に「夜市」に行くようなミーハーな日本人観光客ではない・・・(大笑)
歴史的な建物である「士林市場」のほうが好き!(笑)

すぐ近くに基隆河からの水路のようなものがあったそうで、この町は、各地から水運で運ばれてきた物資の荷揚げ場所で、その昔は倉庫が立ち並んでいたとか・・・
ここから農作物などを南の台北方面へ運んでいたという。
いわゆる物流の拠点として栄えた町のようである。

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車との待ち合わせ場所に向かう途中で見た建物・・・・
う~ん・・・・こういうの、いいねぇ~(喜)

で・・・・ようやく本命の「芝山厳」へ向かう。

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「芝山巌(しざんがん)」は、昔は「芝山岩」とも書かれたそうで、小高い丘である。
現在は「芝山公園」と名付けられている。
この石段は102段あるそうで、さすがに運動不足の拙者には堪える・・・・(涙)

249_convert_20160626211557.jpg(展望台から見た士林の街)

日本が台湾を統治した時に「学務部」(日本でいえば文部省ということになるか?)をこの地に置いた。
なぜ、こんな辺鄙な場所に置いたのだろう?
“クウさん”も不思議だと言う。
で・・・二人で、あ~でもねぇ、こ~でもねぇと、意見を出し合ってオシャベリ・・・・(笑)
こういうのが、また楽しいのである。(嬉)
「本来ならば、総督府の近くに中央官庁という役所は置くのではないか?なんで台北ではなく、この場所なんだろう?これでは中央とのやり取りに何かと不便はなかろうか?」と“クウさん”・・・・
「ごもっともです!私もそう思います!」・・・・という具合である。
で・・・考えた・・・・
“潘さん”というのがキー・パースンではなかろうか?
学部部長の伊澤修二が彼と親しかったのかも・・・で、彼のアドバイスで、ここにしたのではなかろうか?
また、「士林」の名前の由来は、「文士」「学士」の「士」が、「林」のごとく大勢住んでいたので「士林」と名付けられたいう。
ということは、学のある人、向学心のある人が多く住んでいたので、ここで日本語の教育をしたほうが、「同化政策」(?)はうまくいくと思ったのではあるまいか?
これには、“クウさん”も、「なるほど、可能性はありますね」(笑)・・・と大いに話が盛り上がる。(大笑)

台湾に来る前に、水戸藩士の“シミズくん”から「芝山厳の写真を撮ってきてほしい」と頼まれていた・・・
キッチリと写真を撮って来いとの「厳命」である!
が・・・・アアアッ!(大汗)
「どうしたんですか?」と“クウさん”
「カメラのバッテリーが減り始めた!」
「予備は?」
「アアッ!やっちゃった!持ってくるのを忘れた!」(涙)
「充電器は?」
「それも持ってきてない!」(大汗)
「ええっ!なんで持ってこなかったんですか!」と“クウさん”に怒られた・・・・(大泣)

カメラが壊れた時のことを想定して予備のカメラは持ってきているが、予備のバッテリーを忘れるとは・・・
なんというドジを踏んだものか・・・
すでに写真は300枚も撮っているんだから、バッテリーが減り始めるのは当然である。
減り始めたら早いぞ・・・あっという間に無くなるぞ・・・(大汗)
後輩の「厳命」を優先するしかない・・・・(苦笑)
撮れるだけ撮って・・・あとは、予備の古いデジカメで撮影するか・・・(これも予備バッテリーは無いが・・・笑)

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『学務官僚遭難之碑』・・・・伊藤博文の揮毫である。
「殉難」ではなく「遭難」なのである。
なんで「遭難」としたのだろう?
ここは、一つのポイントではなかろうか?
日本が台湾を統治するにあたっての考え方というか・・・
今後の「同化政策」を慮ってか・・・
何か理由があるような気がしてならない。

台座の部分に中国語で書かれた「芝山巌事件始末」のプレートが貼りつけられていた。

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これを“クウさん”に訳してもらいながら、おしゃべり・・・・(笑)
1895年に日本が台湾を略奪(?)し・・・・
6月17日に台湾総督府が始政式を挙行・・・・
翌日、学務部長の伊澤修二が大稲埕に学務部を創立・・・
7月下旬、学務部は芝山巌恵濟宮、並びに廃文昌祠に「芝山巌学堂」を改設し、植民政府の視点から統治、および台湾人を同化させるための重要な手段としての日本語教育をおこなった・・・
1895年の大晦日に台湾北部の義軍が台北城を攻撃・・・
1896年元旦に芝山巌学堂の日本人教師6名が抗日民衆に殺害された・・・
これを「芝山巌事件」という・・・

といった具合に書かれており・・・・
そのあとは、この「学務官僚遭難之碑」が伊藤博文の揮毫によるものである・・・とか・・・
日本人教師を殺害した民衆を「土匪」と称している・・・とかと書かれている。

ちなみに・・・この「土匪」の文字を誰かが削ろうとしたらしく傷がついていた・・・(苦笑)

その後、ここに祭祀場が設けられ、参道ができ、、現在の102段の道ができ、続いて「故教育者姓名碑」「台湾亡教育者招魂碑」などが建てられた・・・
1930年に「芝山厳祠」が建てられ、6名の教師の他、台湾で亡くなった教育者を合祀・・・
台湾の教育の為に犠牲になったことを奉献するという形を作り、定期的に参拝(2月1日が例祭日)・・・
芝山厳事件はこの地を「台湾教育の発揚の地」「台湾教育の聖地」として「台湾国語読本」にも取り入れられ、これによって日本国民の「忠君愛国」の精神を台湾人の教育にも行なおうとした・・・・

こんな感じの話だと思う・・・・(なかなか説明を完ぺきに覚えられなかったのだが・・・大汗)

その後に書かれているのは、戦後、台湾が中華民国となった後の話で・・・・
「学務官僚遭難碑」は捨て置かれ、「芝山厳祠」は取り壊されて「雨農閲覧室」をその後に建て、現在は「芝山公園」となった・・・
民国47年(日本では昭和33年)、中華民国政府は、日本に同化することを甘んじず、義民が立ち上がって起こった事件であることを改めて明確にするために「芝山厳事件碑記」を建てた・・・・
民国90年(日本では平成13年)に目の前にある「学務官僚遭難碑」が復元された・・・

「芝山厳事件」は、日本の植民統治に毅然と立ち向かったことの表れである・・・とか・・・
「学務官僚遭難碑」は日本の植民地統治の歴史的証拠であるとか・・・・
台北市政府は「芝山厳事件始末特別展」の展示を雨農閲覧室で長期にわたって展示する・・・とか・・・・
この説明文を碑前に設置することで、日本の植民地史観を脱することを図るんだとか・・・
なんだか、そういうことが書かれていた・・・(汗)

“クウさん”が「後半部分は、国民党政府の考え方でして・・・・」と恐縮していたが・・・
なんの、なんの、いたってまともに近い書き方ではあるまいか?
前半には日本側としての「土匪」という言葉も使っているし・・・普通は、この言葉は書かないだろう・・・
「そうですよね、前半部分は、それほどひどい書き方ではないですよね?」と“クウさん”
「一応、事実に従って書いてあるんじゃなかろうか?」と拙者・・・
前半は、それほど「感情的」ではないと思いますけど・・・・
後半は、仕方がないんじゃないかな・・・中国からやって来た国民党の中国人が書いた文章なんだろうから・・・(苦笑)

このプレートは中華民国95年6月(日本では平成18年6月)に台北市政府によって書かれてものである。
拙者は、台北政府が書いた説明板なのに、ここまでバランスを取って書いたとは大したものだと思うのである。
歴史的事実を「改竄」しようとはしていないし・・・・
過度に反日を煽るような書き方や日本を侮辱することを避けながらも、一部の(?)台湾人には立場上、気を遣ったという書き方ではなかろうか?
やはり平成18年の作成・・・ということだからかな?

それ以前に中華民国政府が建てた碑が近くに建っていたが・・・
これは明らかに反日感情を前面に出した碑文であろう・・・
“クウさん”は、あえて、この碑には気づかないふりをして避けている様子だった。(苦笑)
これを“クウさん”に訳してくれというのは酷だから、拙者も気づかないふりをする・・・(大笑)

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『学務官僚遭難之碑』のすぐ後ろに「雨農閲覧室」という建物があった。
ここに、その昔、台湾で亡くなった日本人教育者を祀る社が建っていた。
「資料の展示は、期限が決まっていないので、いつまで展示しているかわかりませんが・・・もう終わっているかな?」と“クウさん”
建物内を覗いてみたら、まだ展示はしているようで、鍵もかかっていなかったので中に入る。

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内部は「教室」のようになっていて、壁に「芝山厳事件」に関するパネル展示がされていた。
資料は、このパネルだけである。(汗)
しかし、貴重な古写真などが盛り込まれたパネルなので、これは貴重な資料だろう。
このパネルに書かれている文章をすべて日本語に訳して説明してくれるように頼む。(大笑)
が・・・“クウさん”は、時々、2~3行飛ばして訳すのである。(苦笑)
「あれ?ここ2行は?なんて書いてあるの?」
「いやぁ・・・これは、ちょっと偏った考え方が書いてありますので・・・」
「いいから訳して!・・・怒らないから・・・」(大笑)
「はぁ・・・・」
「僕が自己流で訳すと・・・こんな感じになりますが・・・間違ってない?」
「いや、ちょっとそれは違いますね」(苦笑)
こんな調子で、じっくりと見学・・・・

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殺害された6人の先生の写真・・・・
たまたま偶然だったのか、犠牲となった6人の先生の集合写真である。(驚)
誰が誰なのかは知らないが・・・・写っているのは・・・
楫取道明(39歳)、関口長太郎(38歳)、中島長吉(27歳)、井原順之助(24歳)、桂金太郎(27歳)、平井数馬(18歳)と書いてある。
関口長太郎は、以前、水戸藩士の“シミズくん”と一緒に西尾市に行ったときに「顕彰碑」を見た・・・
西尾市立西尾小学校の初代校長である。
この写真を撮った時の年齢が38歳ということは、もっと若い時に校長先生をしたのだろう。
拙者の父方の祖父も小学校の校長だったが、たしか当時、茨城県最年少の校長だったと聞いたことがある。
たしか20代、30歳にはなっていなかったと思う・・・・
昔の人はすごい・・・今は、校長といったら・・・・
う~ん・・・50歳ぐらいにならないとなれないのではなかろうか?(苦笑)
驚きは、平井数馬で・・・18歳で先生である!
すごい!
そう考えると・・・・現代人は、年齢の割には、かなり幼稚であると言えるかも・・・・(苦笑)
当時、風土病が蔓延しているような猖獗の地に日本語を教えるためにやってくるとはかなりの勇気がいることである。
そういう日本人教師の中には、かなりの校長経験者がいたと聞いたことがあるが・・・
30代の校長経験者ならバリバリの熱血先生であろう。
現在の「校長経験者」とは、ちょっと違うような・・・
定年退職後に、南の島でのんびりと・・・というのとはわけが違う。
どれほど日本が台湾の教育に力を注ごうとしたか・・・明確であろう。

「ここに書かれていることには、かなり個人的意見が含まれているんですよねぇ~」と“クウさん”・・・・
それで日本語に訳すのに抵抗を感じていたのか・・・
で・・・・問題は、「文責」として、この文章を書いた人の個人名が記されていないこと。
この特別展は「台北市文化局」が行っているものだが、どう考えても文化局の組織としての意見ではない・・・
明らかに、この文章を書いた「個人」の意見がかなり含まれている。
「これ、マズイよね?・・・本来は執筆者の名前を明記すべきだよね?ここまで書くんなら・・・」と拙者。
「でしょ?私もそう思います!」と“クウさん”・・・・
またまた大いに盛り上がる。

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「芝山厳学堂」で日本語教育を受けた第1期生の7名の台湾人と、4名の日本人教師(最前列)の集合写真・・・・
この第1期生の名前はわからないと“クウさん”は言っていたが・・・・
そんなことはないだろう・・・(苦笑)
判っていても、ここに明記するわけにはいかなかったのではなかろうか?
日本統治と同時に、自ら進んで日本語教育を受けに行きました・・・というのは、現在の物差しで測ったら・・・マズイでしょ?(苦笑)
名前を明らかにしたら、子々孫々まで苛めに遭うかもしれないしね・・・・

暑い中、締め切った部屋の中での“お勉強会”・・・・
いやぁ~汗をかきかき・・・で大変だったが・・・
付き合わされた“クウさん”も災難だっただろう・・・・申し訳なし・・・・(苦笑)

ここは「閲覧室」となっていて、何冊かの本が置かれていたが・・・「芝山厳事件」に関する本は無かった・・・
何のための「閲覧室」なのか・・・よくわからない・・・(苦笑)
隣の「教室」に中華民国軍の情報部に関するパネル展示がされていた。

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この展示は、中国国民党の蒋介石の片腕ともいわれた戴笠(たい・りゅう)という軍人の顕彰と情報部の歴史について簡単に展示してある。
この人の別名が「雨農」というので、「雨農閲覧室」と名付けられているそうだ。
彼は、日本軍に対する攪乱工作や、親日の中国人軍人や政治家の暗殺や、共産党への秘密工作などをしていたらしい。
ということは・・・・我が日本人にとっては敵ということになりますが・・・(大汗)
終戦後の1946年に飛行機事故で48歳で死亡したという。
戦時中に国民党軍の特務機関を作って育て活躍した人なので、中華民国軍情報部の開祖ということでの顕彰なのだろう。

この「雨農閲覧室」の裏の方に「故教育者姓名」碑がある。

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台湾で教育に当たり、この地で亡くなった日本人教育者の名前がズラリと刻まれている。
はっきりと読めるものもあれば、かなり薄れてしまい判読不明の人もいる。
すぐ近くには、破壊された碑の残骸が放置されていた。

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しかし、なんだかんだと言っても、完全に破壊して捨ててしまうことをしないのだから台湾人は大したものだ。
破壊されたとはいえ、その残骸は、そのまま置いてあるのだから・・・・
これが大陸の中国人だったら、共産党政府だったら、韓国人だったらどういう扱いをするかは明白であろう。
解釈は別としても、「歴史的遺物(歴史史料)」として残しているんだから感謝、感謝である。

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芝山公園の最高点(?)の展望台から下を見ると、そこに軍情報部(情報局?)の建物が見える。
あ~あれがそうか・・・・(大笑)
拙者が、あそこに用事でもあるのかと勘違いされた情報部ね・・・・(苦笑)

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この「芝山公園」は「自然公園」で、“クウさん”の話では、かなり貴重な希少植物などがたくさんあるのだそうだ。
原生林のような公園の中に柵で仕切られた遊歩道がある。
その原生林の中にポツンと戴笠の顕彰碑のようなもの(事跡碑)が建っていた。
あら・・・なんと目立たないところに・・・(汗)
しかも遠くなので碑文が読めない・・・・

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公園の中に「お寺」のようなものが・・・・
「同帰所」と言うらしい・・・・
「漳州人」と「泉州人」の殺し合いで亡くなった方々を祀ってあるのだそうだ。
太平洋戦争中、中国戦線で戦った方から聞いたことがあるのだが、中国兵は戦友の死体をそのまま置き去りにするのだそうだ。
日本兵は何とかして戦友の遺体を回収しようとするのだが、中国兵は、そのまま置き去りにして逃げてしまうのだそうだ。
おかげで初めて駐屯地に来た時に、その周囲に白骨化した中国兵の死体が一面にあったのを見て驚いたと言っていた。
ここ台湾も同じ様なものだったのだろうか?
「漳州人」と「泉州人」の殺し合いで亡くなった人の遺体が、そこらじゅうに散乱していたらしい。
誰も遺体を引き取らなかったようである・・・
その骨を拾い集めて敵味方の区別なく、お祀りしたのが、この「同帰所」なのだそうだ。
というわけで・・・・お参りをする・・・・

先ほどの「雨農閲覧室」から、結構離れたところに「六氏先生の墓」があった。

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遊歩道の柵が邪魔していて近づくことはできないが・・・・
6人の先生の名前が書かれた板状のものが貼りつけてあった。
この形式は、フィリピンで見た台湾人戦没者の慰霊碑でも見たことがある。
当時、台湾は日本だったはずなのだが、米比軍(米軍の指揮下にいたフィリピン軍もしくはゲリラ?)に加わっていた台湾人がいたらしい。
その戦没者の慰霊碑を台湾(中華民国)が建てているのだが・・・・
碑の台座の部分に戦没者の名を記した板状のものを貼りつけてあった・・・・
同じ形式である・・・・
日本語を教えた「芝山厳学堂」は、のちに、「士林国民小学」になり現在まで続いている。
ということで・・・「士林小学創立100周年」を記念して、学校関係者によって建てられたものらしい。
もちろん、初代校長は学務部長だった伊澤修二である・・・・
日本統治時代の先生のお墓を台湾の人たちが建ててくれるとはねぇ~
驚きでもある。
実際には遺骨は事件後に日本に帰還されていると思うので、ここは荼毘に付した後の残骨を埋めた場所なのだろうか?
よくわからないけど・・・・
遠くから・・・お参りする・・・・

419_convert_20160627211038.jpg(公園内の遊歩道)

次に、この「芝山公園」の中にあるというか、隣接しているというか・・・・
「恵濟宮(フェイ・チー・コン)」を訪問・・・・
この「お宮」は、「漳州人」が作ったそうである。

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内部は2階建てになっていて、どうも神様は一人だけではなさそうである・・・・(苦笑)
“クウさん”が、神様について、いろいろ話してくれたのだが、興味がないというのは恐ろしいもので(汗)、チンプンカンプン・・・
道教の神様の文昌帝君がナントカナカントカとか・・・・観音様だか仏教の神様がナントカカントカとか・・・

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文昌帝君というのは、学問の神様だそうで・・・・
何やら箱が置いてあって、その中に顔写真付きの証明書のようなものが入っていた。
話によると、「合格祈願」なのだそうだ。
ん?大学受験の受験票か何かなのだろうか?
それにしてもガラス張りの箱でいいのでしょうか?(汗)
顔写真も名前も・・・丸見えなんですけど・・・「個人情報保護」というのは、どうなっているんだろ?(苦笑)

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お参りを済ませ、正面に回ったら・・・・ガッカリ・・・・
外装の改装中らしくネットで覆われて、写真の撮りようがない・・・(大涙)
水戸藩士の“シミズくん”から、この建物の写真を撮ってきてくれと頼まれていたのだが・・・
仕方がない・・・・またいつか再訪問するようだな・・・・
その時は“シミズくん”に旅費を出してもらおう!(大笑)

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恵濟宮の前の広場から見た景色・・・・・
左奥に見える山の向こう側に日本統治時代は「台北神社(台北神宮)」があった。
現在は「圓山大飯店」という歴史の古い由緒ある高級ホテルが建っている。
昔は国賓クラスの人が泊まる高級で宿泊料も高く、一般の人は泊まれないホテルだと思ったが・・・
今は、お手頃な値段で、誰でも泊まることが出来るんだとか・・・
へぇ~・・・・である。
今度、泊まってみようかなぁ~(笑)

芝山厳の見学は、これで終了!
石段を下りる・・・・
来た時とは別のルートで帰ることになる。

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苔むした城壁のような石垣と石門・・・・
これは『芝山岩隘門』という門で、三級古蹟に指定されている。
三級古蹟は、日本でいうと、県指定史跡もしくは市指定史跡に相当するらしい・・・・
芝山厳には、4つの門があったらしいが、これは「西門」で、現存する唯一の門である。
造られたのは、1825年、日本では文政8年、明治維新の元勲・岩倉具視が生まれた年である。(笑)

「漳州人」が「泉州人」からの攻撃に備えて、ここに城壁のようなものを作ったらしい。
で・・・・「泉州人」から襲われたら、町からここへ避難して、この城壁内に立て籠もって戦うために作ったようである。
中国の説明板には「銃眼もある」と書いてあった。

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芝山厳を下りてきて振り返ったら、立派な門が・・・・
恵濟宮に行くには、ここから入るのか…・
時刻は、なんと、午後1時!
あらぁ~どうりで腹が空くわけだ…・
今日のドライバーは“キューさん”
毎日ドライバーが変わるので、顔も名前も覚えられない・・・(苦笑)
お昼を御馳走してあげようと思っていたのだが、待ちくたびれたのだろう、ベンチに座って一人で食べていた!
いやぁ~申し訳ない!(大汗)

我々は近くの食堂へ・・・・

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「牛肉麺(ニュー・ロー・メン)」というのを食べる。
これもまた、なかなか美味しかった・・・・(大喜)
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