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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
57歳
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)

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「大樹寺」に行く
今日は・・・・
水戸藩士“シミズくん”の希望で「大樹寺」に行く。
このお寺は有名なお寺だそうだが、拙者は全く知らなかった。(汗)
知らない所に行くのは大いに結構・・・
しかも「歩く百科事典」ともいえる博学の“シミズくん”が一緒ならなおさら面白い。

151_convert_20160302181957.jpg(岡崎駅)

152_convert_20160302182524.jpg

このホームの×印のすごいこと・・・・(大笑)
「ここには立つな!」ということなのかな?
それにしても、しつこいくらいの×印である・・・(苦笑)
愛知の人って列に並ばず、脇から割り込んでくる人が多いということなのだろうか?(大汗)

午前9時20分、JR「岡崎駅」から「愛知環状鉄道」で「大門駅」に向かう。
10分程度の乗車で「大門駅」に到着!

154_convert_20160302182921.jpg(大門駅)

ここから徒歩で「大樹寺」」に向かう。
徒歩で20分程度で現地に到着・・・・
遠くに「大樹寺」の多宝塔が見えた!

156_convert_20160302183318.jpg

なだらかな坂道は、運動不足の身には堪える・・・・(苦笑)

160_convert_20160302183912.jpg 166_convert_20160302183946.jpg

おお!なんと立派な山門でしょう!(驚)

山門の反対側に「岡崎市立大樹寺小学校」がある。

170_convert_20160302185155.jpg 164_convert_20160302184813.jpg


大樹寺の土塀
校門横の白壁の塀は大樹寺の塔頭(たっちゅう)(境内にある小寺)であった善揚院(ぜんよういん)と開花院(かいかいん)のものでした。
かつては、南の総門まで続き「旗かけの松」をはじめ、大小の松が生いしげっていました。(昭和52年修復)

岡崎城を望む
三(さん)門から総(そう)門を通して一直線上に岡崎城(三層三階地下一階)の天守閣が見えます。
徳川氏と大樹寺の関係の深さがうかがえます。

(説明板より)


ほぉ~・・・・山門から一直線に岡崎城が見えるのですか?
というわけで・・・・境内の中から山門を通して見てみた・・・

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あぁ~・・・・ちょっとわかりづらいが・・・確かにチラッと天守閣が見える・・・(汗)

175_convert_20160302195855.jpg 189_convert_20160302195955.jpg

思ったより境内は広いと言うべきか、それとも歴代徳川将軍の位牌がある寺の割には狭いと言うべきか・・・(笑)



大樹寺沿革

應仁元年(1467)8月23日井田野の合戦で多くの戦死者が出て、悪疫が流行したので松平親忠公は勢誉愚底上人に帰依して七日七夜の別時念佛会を修し、敵味方の別なく千人塚をつくって葬った。
その後、文明7年(1475)親忠公は、熱心な念佛者となり、愚底上人を開山として大樹寺を建立した。
それ以来、大樹寺は松平家・徳川家の菩提寺として1千石近い禄を受け、大樹公寺と称し、20有餘の末寺を持つ東海の名刹となった。
現在でも岡崎城の天主閣と大樹寺の総門・三門・本堂は南北一直線上にある。
本尊の阿弥陀如来は鎌倉初期の作と言われ、一光千体の阿弥陀如来として信仰されている、親忠公は愚底上人より在家としてはじめて五重相伝(ごじゅうそうでん)を受けられたので、大樹寺は浄土宗五重相伝の根源道場として知られている。
松平第9代の家康公は19才の時、桶狭間の合戦で今川義元が織田信長に殺されたので、身の危険を感じ、大高城から大樹寺に逃げ帰り、先祖の墓前で自害しようとした。
大樹寺住職登誉天室上人はこれをとどめ「厭離穢土(おんりえど)・欣求浄土(ごんぐじょうど)」の教えを説き、家康公の浄土念佛の教えの尊さを教えた。
それ以来、家康公は熱心な念佛者となり、生涯この「八文字」を座右の銘とした。
この時、家康公を追う野武士の一隊が大樹寺を囲んだが、「厭離穢土・欣求浄土」の旗を立て、大力無双の祖洞和尚が門の貫木を引き抜いて奮戦し、敵を退散せしめた。
これを大樹寺の陣という。
家康公はこの貫木を「開運の貫木」として尊信したが今もこの貫木は大樹寺に安置されている。
家康が陣中において人知れず書いた「陣中名號」はたくさんあるが、この寺にも珍蔵されている。
松平の御8代の墓は西方墓地の北側にあり、近年、家康公の墓も岡崎市民により建てられた。
三門と鐘楼は3代将軍家光公の建立で、三門楼上の「大樹寺」の扁額は後奈良天皇の宸筆である。
西方に身ゆる多宝塔は天文4年(1535)松平清康公の建立で、重要文化財に指定されている。
本堂と大方丈は安政2年(1855)に焼失したが、安政4年、13代将軍家定公の時に再建された。
大方丈の障壁画は、土佐派の画家、冷泉為恭(れいぜいためちか)の描いたもので、146面あり、重要文化財に指定され、その一部は収蔵庫に陳列されている。
その他、多くの文化財を持ったこの寺は、毎年8月6、7、8日の3日間、宝物の曝涼をかね一般に公開している。
なお毎月17日には別時念佛会を修し、住職の法話がなされている。

(説明板より)


209_convert_20160303151706.jpg(本堂)


岡崎市指定文化財
大樹寺

建造物 大樹寺本堂 一棟
桁行(けたゆき)七間、梁間(はりま)七間、入母屋造(いりもやづくり)、本瓦葺(ほんかわらぶき)。
安政2年(1855)の火災で三門、総門、裏門、鐘楼(しょうろう)、多宝塔(たほうとう)、開山堂(かいざんどう)などを除いて伽藍(がらん)を焼失するが、安政4年(1857)やや規模を縮小して再建されました。
この本堂は、外陣が方丈のように三区分するもの、さらに凹字型のものの、二つの形式の要素を取り入れている点が特徴です。

建造物 大樹寺開山堂 一棟
桁行三間、梁間三間、宝形造(ほうぎょうづくり)、桟瓦葺(さんかわらぶき)。
内部はひとつの空間となっており、背面に半間幅の箱仏壇を一面に設けています。
天井は格天井で、床は畳敷となっています。
屋根の頂上には露盤(ろばん)・宝珠(ほうじゅ)を上げています。
建立年代は不明ですが、木鼻(きばな)・実肘木(じつひじき)などの絵様や彫刻から江戸時代前半と考えられています。

平成20年6月16日指定
岡崎市教育委員会

(説明板より)


本堂の前に「徳川家康公霊夢像」という石像が建っていた。
おお!ここで家康さんと会えるとはねぇ~(喜)

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徳川家康公(東照大権現)霊夢像

天文11年(1542)12月26日、三河国 岡崎城に誕生し、幾多の艱難辛苦(かんなんしんく)を乗り越え戦国乱世を平定、265年に及ぶ天下泰平の江戸時代の礎を築いた徳川家康公は、元和2年(1616)4月17日、74年の生涯を駿府城に閉じると翌元和3年、後水尾天皇より「東照大権現」の神号を勅許されました。

祖父家康公への崇敬の念が強かった徳川三代将軍 家光公がしばしば夢に現れる家康公の御姿を絵師 狩野探幽(かのうたんゆう)に写させた一連の画像が「東照大権現霊夢像」と呼ばれる作品群です。

この石像は、十数点に及ぶ東照大権現霊夢像のうち、寛永16~18年(1639~1641)頃に制作された正面向きの束帯像(そくたいぞう)(徳川記念財団 蔵)をもとに、石都 岡崎産の花崗(みかげ)(御影)石にて、徳川家康公顕彰四百年記念事業の一環として建立したものです。

「厭離穢土 欣求浄土」 家康公立志の地 大樹寺に
    平成27年(2015)4月17日
        徳川家康公霊夢像建立の会

(説明石碑・碑文より)


このお寺は「浄土宗」だそうだ。
で・・・拙者は「曹洞宗」である・・・まぁ・・・いいか・・・・(笑)
本堂に入ってお参りして、内部を“見学”する。
ここには「位牌堂?(位牌室?)」があって、歴代の徳川将軍の位牌が安置されている。
しかも、この位牌は、その将軍達と同じ背丈・・・つまり等身大の位牌なのである!
これには驚いた。
こういうの、いいなぁ~・・・・拙者も死んだら等身大の175cmの位牌を作ろうかな・・・
と、思ったが、置くところがないわ・・・(大汗)
歴代将軍の中で、ひときわ目立つ、かなり背の低い位牌があった。
この某将軍は、ちょっと精神的にも問題があった方だそうで・・・
年齢の割には背が低いということは、何らかの障碍があったのだろうか?・・・心身ともに発達障碍とか・・・
“歩く百科事典”の“シミズくん”の解説などをいただきながらの見学・・・・
う~ん・・・・楽チンであるが・・・
3歩も歩くと忘れてしまうというのが問題だ・・・(大汗)
マズイ・・・紙に書いてくれ・・・(苦笑)

約1時間弱ほど時間をかけての“見学”である。(驚)
本堂の中で1時間弱も時間をかけるんだから、我々は大したものである。
何らかの御利益もあろうというものである。〈笑)

外に出て、境内を散策・・・・
松平氏の墓所を参拝する。

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岡崎市指定文化財
大樹寺

史跡 松平八代墓(まつだいらはちだいぼ) 8基
松平氏の菩提寺であるこの寺に元和元年(1615)徳川家康が先祖8代の墓を再建したもので、元和3年には天領代官畔柳寿学が奉行となり現在の姿に整備された。

初代 親氏(ちかうじ)(生没年不詳) 宝篋印塔(ほうきょういんとう)
二代 泰親(やすちか)(生没年不詳) 宝篋印塔
三代 信光(のぶみつ)(1404~1488) 宝篋印塔
四代 親忠(ちかただ)(1431~1501) 五輪塔
五代 長親(ながちか)(1473~1544) 五輪塔
六代 信忠(のぶただ)(1486~1531) 五輪塔
七代 清康(きよやす)(1511~1535) 五輪塔
八代 広忠(ひろただ)(1526~1549) 無縫塔(むほうとう)

大樹寺は、文明7年(1475)安城松平家初代親忠が浄土宗鎮西派の勢誉愚底に帰依して開創し、同家の菩提寺とした。
長親の代に安城家が松平総領家となったことにより、本寺は松平宗家菩提寺となった。
元和2年家康の遺言により歴代将軍の位牌所とされ、以後14代将軍家茂(いえもち)までの位牌が納められている。

昭和37年6月15日指定
岡崎市教育委員会

(説明板より)



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墓地の一番左端にあるのは、徳川家康のお墓らしい・・・・
あとから造ったようだが・・・ちょっと立派過ぎて、ご先祖様のお墓が霞んでしまうんですけど・・・(汗)
当然、文化財には指定されていない。
ここに家康のお墓を造りたい気持ちはわからないでもないが・・・
これは、本当にお墓なのだろうか?
家康の骨が埋葬されているのだろうか?
日本全国、あちこちに「徳川家康の墓」が出来ても困ると思うんだけどねぇ~
どうなんだろう?・・・・これ・・・・

時刻は午前11時を過ぎた・・・
お寺の駐車場の脇にある茶店で一服・・・・
とりあえず、「五平餅」を食べて、お茶を飲んで空腹を満たす事とする。(笑)

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旅行 | 10:15:02 | Comments(0)
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