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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
57歳
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)

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高松城へ行く
「琴電」の車内の中・・・・
面白い掲示物を発見!

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さぬき弁の「マナー講座」である!(笑)
これ、いいなぁ~
こういうの、茨城にも欲しいなぁ~(大笑)
車内を歩き回って全部の掲示物を写真に撮りたい気分だったが、他に乗客もいたので恥かしいから止める・・・(大笑)

午後1時過ぎ・・・「高松築港駅」に到着。
ここが終点・・・

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ホームのギリギリまで石垣が迫っている・・・
いや・・・お城の石垣ギリギリにホームを作ったのか・・・(笑)
ということは・・・ここは昔は「お堀(お濠?)」があった場所ではなかろうか?
お堀を埋めた上に線路を引いたか?

695_convert_20160205204543.jpg(高松築港駅)

というわけで、駅を出ると、すぐ後ろが「高松城」である!
なんと便利なことか・・・(喜)

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内掘

現在緑地帯として整備されている一帯は、かつて高松城の本丸と二の丸を囲むように設けられた内掘の跡です。
特に、本丸はこの内掘によって四方を囲まれており、鞘橋(さやばし)のみで二の丸とつながっていました。
大正時代までは内堀はその姿をとどめていましたが、大正14年(1925年)に完成した皇太子殿下御成婚記念道路の建設に伴い、本丸西側が埋立てられ堀幅が狭くなりました。
昭和3年(1928年)には埋立てられた内掘を含む高松城跡の西側一帯において全国産業博覧会が行なわれました。
さらに戦後には本丸西側は完全に埋立てられてしまいました。
内掘のうち本丸西側部分の堀幅は絵図や文献によって異なり詳細は不明ですが、寛永15~16年(1638~39)頃の絵図では14間という最も狭い幅が記載されており、少なくとも25m余りあったと考えられます。

贈・・・公益財団法人松平公益会

(説明板より)



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高松城は公園のような感じだった・・・あら・・・面白くない・・・(苦笑)



史跡 高松城跡

高松城は天正15年(1587)豊臣秀吉から讃岐一国を与えられた生駒親正(いこまちかまさ)によって、翌16年(1588)に築城が開始されました。
その縄張(なわば)り(設計)は藤堂高虎(とうどうたかとら)、黒田孝高(くろだよしたか)、細川忠興(ほそかわただおき)など諸説があります。
生駒氏は4代54年続きますが、寛永17年(1640)に出羽国矢島(でわのくにやしま)(今の秋田県由利本荘市)1万石に移されます。
その後、寛永19年(1642)に松平賴重(まつだいらよりしげ)(水戸光圀の兄)に東讃12万石が与えられ、高松城に入りました。
以後、明治2年(1869)の版籍奉還(はんせきほうかん)までの11代228年の間、松平氏の居城として威容を誇ってきました。
賴重は、寛永21年(1644)に高松城の改修を開始し、寛文10年(1670)に天守改築、寛文11年(1671)からは東ノ丸・北ノ丸の新造を行い、2代賴常(よりつね)が完成させました。
これに伴い、大手(おおて)を南から南東へ移し、藩主の住居と政庁(せいちょう)を一体化した御殿(ごてん)を三ノ丸に作ることも行われました。
江戸時代には、内掘、中堀、外堀の三重の堀を有し、約66万㎡(約20万坪)という広さでした。
明治初期に外堀が埋立てられ、さらに徐々に中掘の一部が埋立てられ市街化が進み、現在約8万㎡のみが城跡として残っています。
昭和29年(1954)に高松市の所有となり、昭和30年(1955)に国の史跡に指定されています。

贈・・・・公益財団法人松平公益会

(説明板より)



あら・・・我が水戸藩の水戸黄門のお兄さんがいたお城だったのか・・・(笑)
そういえば・・・何やら、そういうことを聞いたことがあるような・・・ないような・・・(苦笑)
う~ん・・・縁があるといえば縁があるお城ということになるかな?


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鞘橋(さやばし)

鞘橋は、ニノ丸から本丸へ続く唯一の動線であり、この橋を落すことによって本丸だけを守ることもできるようになっていました。
絵図等によると高松城築城当時から同位置に橋が架けられていたことがわかります。
当初は「らんかん橋」と呼ばれ、1640年代半ばの絵図でも欄干(らんかん)が描かれており、屋根のない橋でした。
その後、文政6年(1823)の絵図では屋根付きの橋として描かれており、江戸時代に改修が行われたことがうかがえます。
現在の鞘橋については明治17年(1884)の天守解体時に架け替えられたものと伝わっており、大正期には橋脚(きょうきゃく)が木製から石製に替えられたことが古写真から判明しています。
昭和46年(1971)には老朽化による解体修理がなされ、平成18年から開始した天守台石垣の修理工事に伴って本丸側の一部が解体され、平成23年に修理されました。
橋の架かっていた石垣が修理されたことに伴って、解体前よりもやや全長が長くなっています。

贈・・・・公益財団法人松平公益会

(説明板より)



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(天守台の石垣)

722_convert_20160207115945.jpg(天守台・地下1階部分)

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(天守台跡から見た景色)

天守閣跡(天守台跡)を降りて、今度は周囲を散策・・・・
庭園があったので覗いてみる・・・

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披雲閣(ひうんかく)庭園
平成25年10月17日名勝指定

披雲閣庭園は、大正3~6年(1914~17)に松平家第12代当主松平賴壽(よりなが)が高松城の三ノ丸に「披雲閣」を建設した際に、東京の庭師大胡勘蔵(おおこかんぞう)によって作庭された庭園です。
三ノ丸には江戸時代に御殿があり、北東側2箇所の築山(つきやま)(庭園内の小山)が絵図に描かれていることなどから、一部江戸時代の庭園を残しながら作られたと考えられます。
マツ・ウバメガシを中心とした植栽の中に多数の景石(けいせき)・石造物を配置しています。
景観を大きく特徴づける構成物として、北東から南西方向に流れる枯川(かれがわ)と、北東に2箇所、西に1箇所、披雲閣蘇鉄(そてつ)の間(ま)北側に1箇所の築山が見られます。
枯川の周囲には多くの石造物が配置されています。
特に、枯川の中ほどには一つの花崗岩(かこうがん)を刳(く)り抜いて作った精巧な石橋があるほか、披雲閣の大書院北側には高さ2メートル、重量11トン余りと言われる大型の手水鉢(ちょうずばち)があります。
庭園内には経路に沿って飛石(とびいし)が縦横に配され、建物の軒先には沓脱(くつぬぎ)石が配されていますが、これらも大型の花崗岩を用いています。
また、庭園内には昭和天皇・皇后陛下がお手植えになられた松もあります。

贈・・・公益財団法人松平公益会

(説明板より)


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重要文化財
披雲閣(旧松平家高松別邸)

松平藩時代にも、この地に披雲閣と呼ばれる広大な建物(現在の披雲閣の約二倍)があり、藩の政庁および藩主の住居として使われていましたが、明治時代に老朽化のため取り壊されました。
その後、松平家第12代当主で貴族院議長も務められた松平賴壽(まつだいらよりなが)氏により、3年の歳月と当時のお金で15万余円の巨費を投じて現在の披雲閣が大正6年(1917年)に完成しました。
この豪壮な和風建物には142畳敷の大書院をはじめ、槙の間・蘇鉄の間などの雅趣を生かした各部屋があり、波の間には昭和天皇、皇后両陛下がご宿泊なられたこともあります。
昭和29年(1954年)に城跡とともに高松市に譲渡されて、現在は会議・茶会・生花展などの会場として利用され、広く市民に親しまれています。

(説明板より)


この披雲閣の入口の前で盆栽展と、なにやら盆栽の実演講座みたいなことをしていた。
説明板によると、高松の松の盆栽は日本一なのだとか・・・
え?・・・ほんと?(苦笑)

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日本一を誇る高松の松盆栽

高松市西部の鬼無(きなし)・国分寺地区の松を中心にした盆栽作りは、文化年間に、土地の愛好家が、山野に自生する松を掘り、鉢植えに仕立てたのが始まりとされています。
今日では、全国の黒松、五葉松の盆栽の大半、また錦松の大部分が高松で生産されるまでに発展しています。
これは、高松が瀬戸内に位置し、雨が少なく、花崗岩系の土壌が主体で松の育成に適していることと、素材が身近に入手できたためと思われます。
また、旧高松藩主松平家第12代頼寿公が、日本盆栽協会の前身である国風盆栽会初代会長に就任するなど盆栽会のために尽力されたことを始め、いち早く地場産業として全国屈指の生産地に育て上げた先覚者の努力に負うところが大きいといえます。

(説明板より)


へぇ~・・・・そうなんだぁ~・・・と大いに勉強になった・・・(喜)
その昔、小学6年生の時に祖父にねだって、祖父のサツキか何かの盆栽を貰ったのだが、その後枯らしてしまった・・・(汗)
20歳のとき、成人の記念として梅の盆栽を自分で買ったが、これも手入れが出来ず庭に植えたあげく枯らしてしまった・・・(大汗)
盆栽には興味があるのだが・・・どうも育てるというのは無理なようである。(苦笑)
今から始めたのでは、遅いよなぁ~
あと30年生きるかどうかわからんからなぁ~(笑)
あの12歳の時にもらった盆栽を育てていたら・・・もう43年だからねぇ~
かなりのベテランになっていたかも・・・(大笑)
う~ん・・・拙者の場合は・・・鑑賞だけで我慢したほうが良さそうである。(大笑)

城跡を歩き回り・・・遂に発見!(笑)
櫓である!(大喜)
ありましたか建造物が・・・(大笑)

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重要文化財
高松城北之丸月見櫓(続櫓)、水手御門(みずてごもん)、渡櫓(わたりやぐら)
昭和25年(1950年)8月29日重要文化財指定

高松城(玉藻城(たまもじょう)ともいう)を築城した生駒(いこま)氏の治世は4代54年間続きましたが、寛永17年(1640年)に出羽の国の矢島(やしま)1万石(秋田県由利本荘市矢島町)に移封されました。
その後、寛永19年(1642年)松平賴重(よりしげ)公(水戸黄門の兄)が東讃岐12万石の領主に封ぜられてこの城に入って以来、明治2年(1869年)まで11代228年間、松平氏の居城であり、日本三大水城(みずしろ)の一つに数えられています。
月見櫓は、松平氏入封以後新たに海面を埋立てて作られた郭(くるわ)の隅櫓(すみやぐら)として延宝4年(1676年)2代賴常(よりつね)公の時代に、完成されたものです。
ことに渡櫓は生駒氏築城による海手門を改修して建てられました。
かつて、これらの櫓の外まで海であって、船からこの水手御門を経て、直ちに城内へ入れるようになっていたところからみて、この櫓は海手出入りの監視防備のための隅櫓であったものとおもわれます。
月見櫓の特色としては、内部に初層から三層の屋根裏まで通じる4主柱が中央に通っていて、それに梁をかけて組立てていることや外壁に装飾的な黒い長押(なげし)を廻していること、軒は垂木形を塗り出さず一連の大壁としていること、月見櫓より渡櫓に至る一連の建築構造美などが挙げられます。
これらの諸建物は松平家から松平公益会に移管され、さらに昭和29年(1954年)1月に高松市が譲り受け、翌年3月から国庫・県費補助を得て解体復元工事に着手し、約1700万円を費やして同32年(1957年)3月に竣工しました。

(説明板より)


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水手御門(重要文化財)

江戸時代、この石垣の北側まで海でした。
藩主は、水手御門から小舟で出て、沖に停泊する御座船「飛龍丸」に乗船し遊覧を楽しんだり参勤交代に出かけたりしたようです。
水手御門は直接海に向かって開く海城独特の門で全国唯一の現存例です。

(説明板より)


ぐるっと回って・・・今度は天守閣跡が見える場所に出た・・・
ちょうど復元イメージの看板も設置されていた。
こういうのも面白い。
が・・・出来れば本当に復元してもらいたいものだ。(笑)

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そのままずっと歩いていったら、「桜御門」という場所に出た・・・
が・・・石垣の工事中!(涙)
しかも工事期間の終了は10月16日と看板に書いてある!
あ~あ~1週間早く来てしまった!!(大涙)
1週間遅ければ、修復後の桜御門が見られたわけか・・・残念・・・

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さらに進むと・・・・あれ?・・・・新たな櫓が・・・
え?・・・・ただの公園だろうと思っていたら、ちゃんと櫓が残っている城跡ではないか!(喜)

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重要文化財
高松城旧東之丸 艮櫓(うしとらやぐら)
三重、三階、隅櫓、入母屋造、本瓦葺
昭和25年(1950年)8月29日重要文化財指定

高松城は、讃岐の国(香川県)の国主だった生駒親正(いこまちかまさ)公が築城したもので、生駒氏が寛永17年(1640年)に出羽の国(秋田県)に移封せられた後、寛永19年(1642年)に東讃岐12万石の領主として入府した松平氏が本丸、東之丸、北之丸などを修築し、規模を整えたといわれます。
東之丸は現在の県民ホールのあたりをいい、寛文11年(1671年)頃より行われた大改修の際、新たに堀を開削して、海に面して新たに構えられた郭です。
艮櫓は、もともと東之丸の北東の隅櫓として建てられたもので、北東の方角のことを丑寅(うしとら)(艮)ということから、この名前があります。
記録によれば延宝5年(1677年)に完成されたようで、現在残されている月見櫓と同時期に建てられたものです。
昭和40年(1965年)8月に当時の所有者であった日本国有鉄道より高松市が譲渡を受け、国庫、県費の補助金を得て昭和40年10月より工期2年、工事費2,800余万円を費やして解体修理を行い、東之丸の東北隅より現在の旧太鼓櫓跡に移築復元されました。
この移築にあたって、艮櫓の規模に合わせて城内側に石垣の拡張工事を行ったほか、石落しの取付の関係上、建物を右に90度回転させています。
櫓の構造としては南北に大きな千鳥破風(ちどりはふ)を設けているほか、各階の窓の土戸に特異な形状をもち、さらに2、3階には城内側にも銃眼を設けるなどの特徴が見られます。
移築修理の際、この櫓は建立直後に補強的な改造を受けているほか、安政3年(1856年)には、ほとんど解体に近い大修理を受けていることがわかりました。

(説明板より)


説明文を読んでみると、この櫓は、もともとここにあったわけじゃやないそうで・・・・
しかも、向きも変えてるし・・・
石垣も拡張して変えちゃっているし・・・
う~ん・・・建物自体は「重要文化財」なんでしょうが、お城全体から考えたら価値は半減のような気がしますが・・・(苦笑)

でも、この櫓・・・・
大きな千鳥破風があるせいなのか、天守閣っぽい形なんですけど・・・
天守閣を小型にしたような・・・そんな感じ・・・
この形・・・いいねぇ~

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そのまま進んで・・・「旭門」という門から城外に出る。
拙者は、お城の中心部から、グルグルと廻りながら城外に出て、さらにお城の周囲を歩くのが好き・・・
時間に余裕があれば、そういうことをするのである。(笑)

で・・・・おや?

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この風景からいうと・・・こちらが正面・・・「大手口」のような気がしますが・・・(苦笑)
近くの説明板を読んでみたら、やっぱり、ここが「大手」だった・・・
ということは・・・拙者は「裏口」から城内に入ったのか?(大汗)
どこからお城に入ったかで、そのお城の印象って変わるんだよねぇ~
過去の経験からいうと・・・・(笑)

812_convert_20160209232215.jpg(大手跡)


大手

高松城の大手(表門)は築城当初南側にありましたが、寛文11年(1671)から始まった松平賴重・賴常による東ノ丸・北ノ丸の新造に伴い、城の南東側に移されました。
現在駐車場のある場所はかつて下馬所(げばしょ)であり、高松城へ登城する人はここで馬を下りて徒歩で入っていきました。
城内に入る橋は旭橋(あさひばし)と呼ばれています。
橋は堀に対して斜めになっており、敵の直進を防ぎ、側面から攻撃できるような仕組みになっています。
江戸時代には木製でしたが、明治45年(1912年)に高松松平家第12代当主賴壽(よりなが)により石橋に架け替えられました。
橋北側の親柱(おやばしら)に賴壽による「旭橋」、南側に同夫人昭子による「あさひばし」の文字が彫り込まれています。
橋を渡ると、旭門と呼ばれる高麗門(こうらいもん)が見られます。
この門を入ると、来訪者を威圧するかのような切石の石垣による枡形(ますがた)(石垣で囲まれた空間)となっており、左手に曲がるとかつては太鼓門と呼ばれる櫓門(やぐらもん)がありました。
また、枡形の北側には石垣をトンネル状に構築した埋門(うずみもん)を設けています。

贈・・・・公益財団法人松平公益会

(説明板より)


さて、今度は、城外をぐるっと廻ってみることにする。(笑)
大手を出て、左に曲がったあたりは、東之丸があった場所らしい・・・

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東ノ丸

生駒氏の後、高松に入った松平賴重は、3年目の寛永21年(1644)年から城の修築に取り掛かり、寛文10年(1670)に天守の改築を行いました。
賴重は翌11年(1671)以後、さらに北ノ丸、東ノ丸といった新たな曲輪(くるわ)(区画)を造るなど、大規模な改修や拡張を行っています。
現在の県民ホールから県立ミュージアム付近がその東ノ丸の跡地です。
武家屋敷と町人街が混在するエリアでしたが、町人街を城外に移動させ、中掘を延長して新たに造られた曲輪です。
その北半分は米蔵丸(こめぐらまる)(食糧貯蔵施設)、南半分は作事丸(さくじまる)(城内の建築工事関係施設)として利用されており、これまでの発掘調査で、米蔵や作事舎の建物の礎石などが見つかっています。
また、東ノ丸の北辺と東辺の石垣の一部が現存しており、史跡に指定されています。
なお、東ノ丸北西隅に位置していた重要文化財の艮櫓(うしとらやぐら)が、保存などの問題から昭和42年(1967)に桜ノ馬場南東隅の太鼓櫓台に移築されています。

贈・・・・公益財団法人松平公益会

(説明板より)


県立ミュージアムの前を歩く・・・
う~ん・・・博物館好きとしては、ちょっと立ち寄りたい気分なのだが・・・
あまり時間がない・・・・夕方の電車で帰らねばならぬのだ・・・
ここは、心を鬼にして・・・(大笑)・・・・博物館は無視することにする。
気が付かなかったことにしよう・・・(大笑)
いつか、また高松に来ることがあったら、その時に見学しよう・・・

そのまま県民ホールの裏(?)に行って見たら、石垣があった。
県民ホールの敷地内に食い込むような形で石垣が残っている。
いや・・・正確には、石垣に食い込んでいるのは県民ホールのほうか?(笑)
でも、こういう残し方というのもいいよなぁ~
普通は埋めてしまうか撤去してしまうから、石垣を保存したまま新たな施設と混在させてしまうというのは、なかなか面白い保存の仕方だと思う。

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香川県県民ホール小ホールと高松城

玉藻公園(たまもこうえん)として市民に親しまれている高松城跡は、昭和30年3月2日に国史跡に指定されました。
この高松城は、豊臣秀吉の家臣であった生駒親正(いこまちかまさ)が天正16(1588)年に築いたもので、城の北側が海に面し、海水を引き入れた三重の堀をもつなど、城造りに海を取り入れていることを大きな特色としています。
生駒氏が御家騒動(おいえそうどう)によって出羽国(でわのくに)矢島(やじま)(秋田県)に転封(てんぽう)されると、水戸の徳川光圀(みつくに)(水戸黄門)の兄であった松平頼重(まつだいらよりしげ)が東讃(とうさん)12万石の領主となり、高松藩が成立しました。
頼重は、城下に上水道を敷設し、天守閣を改築するなどして、城と城下町の整備に努めましたが、寛文11(1671)年からは、城の東側の侍屋敷(さむらいやしき)や町屋(まちや)のあったところに「東の丸」と呼ばれる郭(くるわ)を築造しました。
東の丸の北東の隅には三重三層の艮櫓(うしとらやぐら)が建てられましたが、現在は桜馬場(さくらのばば)の南東部にある太鼓櫓(たいこやぐら)跡に移築復原されています。
現在地は、東の丸の北東にあたり、県民ホール小ホールの建設工事の前に実施された発掘調査によって、江戸時代の絵図に描かれたとおり、海に突き出した石積みの突堤が発見されました。

香川県教育委員会

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(説明碑より)


時刻は午後2時半を過ぎた・・・・
もう限界である・・・・腹が減ったぁ~(涙)
ちょうどお店を見つけたので入る。
香川県に来たのだから・・・やっぱり、うどんを食べよう・・・・(笑)

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さて・・・“燃料”も補給したし・・・“パワー”も戻ってきたので、再び歩くことにする。
広い道路沿いに、高松駅に向かって歩く・・・

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間もなく、櫓が見えてきた・・・
これは、月見櫓だろう。
城内からではなく、外から見る櫓もいいなぁ~

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斜め前・・・海側にも小さな櫓が見えた・・・
こちらは工事用の柵なのか、柵があって近づけない!(涙)
何やら「重要文化財」という説明板が建っているようなのだが、遠くてよく見えない・・・(涙)
持参のタブレットで調べたら「報時鐘」というらしい・・・
この海側の空き地?公園?・・・に移築されたらしいが・・・
なにもこんな辺鄙なところにポツ~ンと移築しなくても・・・という気がしますけど・・・(苦笑)

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道路は片側2車線で、両方で4車線・・・
道路を渡って向こう側に行きたくとも、なかなかタイミングがつかめない。
仕方がないので、横断歩道のある場所まで進んでから、再び月見櫓の位置に戻ることにした。
やっぱり、いろんな角度から写真は撮りたいものである。(笑)

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左から月見櫓、続櫓、水手御門、渡櫓・・・・である。
堀に水がないのが残念!(涙)
ここに水を張って、当時の藩主の小舟を復元して浮かべたら、絵になると思うんだけどねぇ~(笑)

午後3時過ぎ・・・・JR高松駅前に到着・・・

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松の木の所に石碑が・・・・
「高松市の木 黒松」と刻まれている。
へぇ~高松市の木は黒松なんだぁ~

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駅前広場に池が・・・・・
この池・・・・海から海水を引いてきた「海水池」だそうである。
瀬戸内の砂浜も再現しているとかで、江戸時代の護岸や石垣に使われた石も使われているのだそうだ。
海水の池・・・ねぇ~
ということは・・・理論的には、この池の中でカツオやサンマが泳ぐことも可能ということですね?(大笑)

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JR高松駅・・・・やっぱり「顔」が描かれているよな?

まだ電車に乗るには1時間弱の余裕がある。
我が戦友会のおじいちゃんやおばあちゃんに、お土産を買って送ってあげようか・・・
徳島では買わず、ここ高松で買おうと思っていたのだが・・・・どこにもそれらしき店が見当たらない。(大汗)
駅の案内所で尋ねたら「キヨスクの一角で売ってます」と言う。
キオスクで?(汗)
行って見たら・・・・う~ん・・・・コンビニの片隅にお土産が少しだけ置いてあるという感じ・・・
唖然である。
これといったお土産がないのである!
しかも、宅配便で全国に送ろうと思っていたのだが・・・
この雰囲気では宅配はやってないだろうねぇ~(汗)
大失敗である!
こんなことになるなら徳島でお土産を買って送っておけば良かった・・・・
今さら後悔しても遅いが・・・(大涙)
まぁ、今回はお土産なし・・・だな。

「青鬼君のおもてなし」はお土産までは気が回らなかったのか?(大笑)

コーヒーショップで一服・・・・
やはり疲れたときはコーヒーを飲まねば・・・・(笑)

午後5時10分発の「快速マリンライナー」で岡山に向かう。
1時間弱で岡山駅に到着。
ここで新幹線「のぞみ」に乗り換え東京の品川駅へ・・・
品川駅で、午後8時44分発の特急に乗り、午後11時に自宅に戻る。
ということは・・・・高松から実質7時間もかかったってことか・・・・
これを、高松は7時間もかかる遠い場所と考えるか、7時間程度で行ける場所と考えるかだな。(笑)
飛行機を使えば、もう少し短い時間で移動できるんでしょうけど・・・(笑)

今回もまた、楽しい旅行ができた!
旅は最高である!(大喜)
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