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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
57歳
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)

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「志度」に行く
次に向かったのは「瓦町駅」・・・・
琴平電気鉄道・・・通称、「琴電」の駅である。

609_convert_20160201110345.jpg(瓦町駅)

これから「琴電」に乗って、「志度」という町に向かう。
当初は、高松市内を観光するだけにしようと思っていたのだが・・・・
つい、欲が出てきてしまった・・・(大笑)
志度は、あの平賀源内の出身地なのである。
旧邸と資料館、銅像などがあるらしいので・・・・う~ん・・・行って見たい・・・(笑)
また次回にでも・・・となったら、いつになるかわからんし・・・
主要都市なら、また来る機会があるかもしれないが、ちょっと離れた“田舎”(失礼!)には、わざわざ行く機会など訪れることはないだろう。
ならば・・・今回が最初で最後のチャンスかもしれない。(笑)
行って見たら大したことがなくてガッッカリ・・・ということもあるかもしれないが、行って見なけりゃわからない。(笑)
期待はずれの無駄骨となるかどうかどうかは・・・賭けである。(笑)

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午前10時過ぎ、志度に向かう。
約、40分後、志度駅に到着・・・
と・・・駅前を神輿が・・・・
おや?・・・何かの祭りだろうか?

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静かな町である・・・誰も歩いていない・・・・(汗)

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何やら、由緒あるお寺さんを見つけたので、ちょっと覗いてみる。

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史跡と伝統の寺 地蔵寺

景行天皇23年、土佐の海に棲んでいた怪魚が瀬戸内海にはいりこみ神出鬼没、時には海岸にまで押しよせて悪事を働いた。
天皇は心配して、日本武尊の御子霊子に討伐を命令した。
悪魚退治に成功した霊子は、天皇より褒美として讃岐一国を貰い受け国司となり、里人から讃留霊王(さるれおう)と呼ばれた。
後に悪魚のたたりを恐れた里人が、お堂を建て地蔵菩薩を安置したのが地蔵寺(別名魚霊堂)の始まりだと伝えられている。
開祖は、文殊菩薩の化身といわれる薗子尼で、近江の国より流れてきた霊木から志度寺本尊十一面観音を刻ませたお方で、当寺が志度寺奥の院といわれる由縁である。
本堂には本尊文殊菩薩と、中世から江戸時代にかけての巡礼で(当時は日本は66の国で構成されていた)日本全ての国を拝むことにより願い事が叶うといわれた「日本廻国六十六体尊」の本尊が祭られ密教仏としては、全国で唯一のものといわれている。

(説明板より)


さらに閑静な町の中を歩く・・・
本当に、ここに平賀源内の旧居や資料館なんかがあるのだろうか?・・・とちょっと不安になる。(苦笑)

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「皇紀二千六百年記念」と刻まれた石柱(コンクリート柱?)を見かける。
皇紀2600年は・・・昭和でいうと・・・・昭和15年・・・西暦では1940年である。
へぇ~・・・ずいぶん古いものが残っているんだぁ~・・・・
で・・・その記念ということだけど・・・この石柱は何かの横に建てられたものではなかろうか?
そのメインの物が見当たらないんですけど・・・(汗)
石柱には、ゴミネット(網)が縛り付けられていた。
ここが「燃えるゴミ」等の集積所になっているようである。
う~ん・・・・こういう使い方もあるか・・・記念碑・・・(笑)

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大きな石灯篭に出遭う・・・・
「石鉄大権現」と刻まれているように見える・・・
江戸時代の頃のものだろうか?・・・

平賀源内旧邸に向かう道すがら、所々に平賀源内に関する掲示物が貼られていた。

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これなどは、小学生が描いた絵や作文などが載っている。
いいね・・・こういうの・・・

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またまた、お神輿(山車?)に出遭った・・・
さっき、駅前で見かけたのは「幸組」だったが、こちらは「寶組」らしい・・・
どうも“組”が違うようだ・・・
お神輿(山車?)の中に、子供達が乗っていて、太鼓を叩きながら、何やら難しい歌を大声で唄っている。
いやぁ~その上手なこと・・・
大したものである。

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さらに歩いていくと、空き地に別の“組”がいた。
「旭組」というらしい・・・
この町にはいくつ“組”があるんだ?(汗)
それにしても、この神輿・・・一緒に歩くのは法被(はっぴ)を着た町の青年団(?)の人たちだけ・・・
別に沿道に観客がいるわけでもない・・・(汗)
なのに、神輿に乗った子供達は大声で歌を唄いながら町の中を通っていく・・・
なんだろ・・・これ・・・・
祭りなんだよね?・・・一応・・・
な~んか、寂しい気がしないでもない・・・
カメラを向けて写真を撮っているのは、拙者しかいないというのも・・・ねぇ~・・・・(大汗)

拙者は、基本的に「お祭り」は好きではない・・・(大笑)
神輿に乗るのも、担ぐのも好きじゃない・・・
盆踊で踊るのも好きじゃない・・・(笑)
しかし、裏方のスタッフをするのは大好きなのである。(大笑)
地元の「まつり」でも裏方のスタッフをやったことが何度もある。
もう、ワクワク・・・である。
企画、運営、当日の采配・・・もう血が騒いじゃうんですけど・・・(大笑)
表舞台に出るのは嫌いだが、裏方は大好き!(大笑)
う~ん・・・私に出来ることがあれば、飛び入りでお手伝いをしたい衝動にかられた。(大笑)

偶然にも、この空き地の隣りが「平賀源内の旧邸」だった・・・(苦笑)

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早速、平賀源内の銅像とご対面である。
で・・・その直ぐ隣りが旧邸である。

672_convert_20160201201817.jpg(平賀源内旧邸)


平賀源内先生旧邸

今から二百数十年前、日本の夜明けとも言うべき時代に現われ、数奇な運命をたどった源内先生は、高松藩の軽輩御蔵番の子として、ここ志度町新町に生れた。
先生は幼名を伝次郎、四方吉(よもきち)。
元服して国倫(くにとも)。
通称を源内と呼んだ。
また号を鳩渓、風来山人、天竺浪人。
作家として福内鬼外、俳諧では李山と称した。
宝暦2年、新知識の輸入地である長崎に留学し、主として医学、本草学を修め、帰郷後は磁針計、量程機の発明、陶器の製造など藩に新風を吹き込んだが、世間の風当たりは強く、27才の時退官を願い出て江戸に立ち、田村藍水に師事する一方、昌平黌(こう)にも学んだ。
宝暦7年、藍水と共に日本で最初の物産会を江戸湯島で開催、その後は自ら会主となった。
高松藩では先生が名声を博するや、一方的に薬坊主格、切米銀十枚、四人扶持の藩士に召しかかえたが、先生は再び俸禄を辞した。
その後伊豆に於ける芒硝の発見、紀州物産誌の編纂(さん)、物類品隲(しつ)の刊行をはじめ、火浣布の創製、秩父中津川鉱山の発掘、寒熱昇降器の発明、源内焼、西洋画の教授、日本で初めてのエレキテルの復原など世人を驚ろかせた。
この外滑稽小説「根南志草」、「放屁論」、「風流志道軒伝」や浄瑠璃「神霊矢口の渡」、「弓勢智勇湊」、「忠臣伊呂波実記」などの作品をつぎつぎに発表して江戸の人気を博した。
安永8年、ふとしたことから人を傷つけ、同年12月18日、伝馬町の獄中で52才の心なじまぬ生涯を終えた。
友人杉田玄白は、ひそかに遺体を引き取り浅草総泉寺に埋葬。
そのほとりに碑を建て「あゝ非常の人、非常の事を好み、行いこれ非常、何ぞ非常の死なる」と記し、先生の一生を讃えた。
この旧邸は昭和54年3月25日源内先生二百年祭にあたり修復したものである。

財団法人 平賀源内先生顕彰会

(説明板より)


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この旧宅の受付の方に「お祭」について尋ねたら・・・
この町には7つほどの地区に分かれているそうで、今年は、この地区が「お接待役」の当番で大変なのだそうだ。(笑)
なにせ、若い人が少なくなっているし・・・とのこと。
日本全国、どこの町でも同じような悩みがあるようである。
それでも、ああやって小学生が元気良く太鼓を叩いて歌を唄ったりしているんだから大したものである。
この子供たちの“出番”は日が沈む夕方までだそうで、その後は中学生が行なうのだそうだ。
へぇ~そりゃ大変だ・・・・
どうやら昼の部、夜の部があるらしい・・・
丸一日がかりかと思ったら、明日もやるそうで・・・2日がかりだそうだ。(汗)
そりゃ、なおさら大変ですねぇ~・・・などと、おしゃべりをする。(笑)

旧邸の裏に「薬草園」があったので見学する。
拙者は薬草に関しては全く知識がないが・・・
ん?・・・・薬草園で思い出したが・・・
以前、どこかの誰かの薬草園を見学したんだよなぁ~(笑)
誰だったか、誰かの記念館の裏に薬草園があって、職員の人に案内してもらったことがある。
が・・・どうしても思い出せない!(涙)
どこへ行った時に見たんだっけ?
「へぇ~?この草も薬草なんですか?」なんて話したことは覚えているのだが・・・
あれは何という草だったっけ?
最近は物忘れ、物覚えが、さらにひどくなってしまったようで・・・(大汗)
参ったなぁ~・・・・
あと何年か経ったら、ここに来た事も忘れてしまうのだろうか?(大汗)

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薬草園由来記

高松藩蔵番(くらばん)の家に生まれた平賀源内は、陶(すえ)村の三好喜右衛門に本草学(ほんそうがく)(薬学・医術)を学んだという。
寛延2年(1749)父茂左衛門の逝去によって役を継いだ源内は、しだいに藩内で頭角を表し、本草学の才能を認められていった。
宝暦2年(1752)長崎に赴いた源内は、広い世界への目を見開かれ、同4年に蔵番退役願いを提出する。
同6年江戸に出て当時日本有数の本草学者であった田村藍水に入門した。
藍水のもとで本草学に出精した源内は、世界最初の博覧会とも呼ばれる「薬品会(やくひんえ)」を提唱し、宝暦9年(1759)には主催者となった。
翌月、高松藩から与えられた三人扶持(ふち)を源内は「学問料」ととらえていたようだが、実質的な再仕官であり、藩主の命で薬種採集を続けることになる。
相模(神奈川県)や紀伊(和歌山県)への採集行のほか、藩内で巴戟天(はげきてん)(ジュズネ)を発見するなどの業績を上げ、宝暦10年(1760)には薬坊主格に昇進した。
源内の手で御薬園(栗林公園)の整備も一段と進んだことだろう。
ただし、宝暦11年(1761)に再び高松藩を辞して江戸に戻った源内は、翌12年に第5回目の薬品会を主催し、これは壬午(じんご)の大物産会(え)と呼ばれた。
その大物産会の成果を中心に、5回の薬品会を集大成したものが、源内の本草学の主著であるのみならず、当時の本草書の逸品ともなった『物類品隲(ぶつるいひんしつ)』(宝暦13年刊)である。
本文4巻、図絵1巻、付録1巻の計6巻より成るこの大作は、源内の本草学の質の高さと斬新さを余す所なく物語る記念碑的な著作であった。
中でも付録に記された砂糖製造法は、のちの和三盆に結実する讃岐地方の製糖との深い関わりの歴史に記された第一歩として記憶される。
昭和54年(1979)、源内先生二百年祭記念に当たり、その偉業を偲ぶため、旧邸の一隅に、ゆかりの薬草園を新設したものである。
そして平成19年(2007)源内薬草研究会によって、高潮被害の薬草園を再生する。

(説明板より)


この旧邸に隣接して「平賀源内先生遺品館」というのがある。

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平賀源内先生遺品館

源内先生は、日本文化の爛熟した江戸時代中期に生まれ、まず本草家として日本初の博覧会=薬品会を開催して名を挙げ、鉱山開発を行い、戯作・浄瑠璃を作っては作家の親玉と言われ、西洋画を描いては秋田蘭画の仕掛人となり、陶器を造っては源内焼の流れを作り、エレキテルの復元をはじめ数々の発明品を創り出し、変化龍の如く、その多彩な才能を発揮して、広範囲の分野で活躍しました。
先生は獄中で悲劇の生涯を閉じられましたが、洋学の黎明期に果たされたその偉業は広く認められ、その死は惜しまれました。
先生を顕彰する思いは明治13年の没後百年祭から始まり、昭和4年には百五十年祭とともに平賀源内先生顕彰会が発足しました。
松平頼寿(貴族院議長)を会長に、東京での墓地修復、「平賀源内全集」の発刊、地元では旧邸・遺品の保存、銅像の建設などが行われました。
そしてこの遺品館は、ニ百年祭記念にあたり昭和54年3月25日新築しました。
源内先生の先見性や独創性、また広い視野と柔軟な発想で現実に立ち向かった行動力を、ご来館の皆様に感じ取っていただければ幸いです。

財団法人 平賀源内先生顕彰会

(説明板より)


時刻は午前10時半・・・・
続いて、もう一つの「資料館」に向かうことにする。

途中で見かけた景色・・・
大きな絵馬みたいな看板が設置されていた。
たぶん・・・お祭のために設置したんだろう。

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で・・・「平賀源内記念館」を見学・・・・

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記念館を見学後、駅に向かう途中、またもや神輿(山車?)に出遭った。
こちらは「鳳組」らしい・・・
この狭い道を曲がるんだから大変である。
この長い棒・・・担ぐためにあるんだよね?
今日は神輿を担がないけど、明日は担ぐのかな?
こちらも神輿に乗った小学生が太鼓を叩きながら大きな声で唄っている。
いやぁ~元気があって聞いていて気持ちがいいねぇ~(喜)

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お昼過ぎに「琴電・志度駅」に到着・・・
う~ん・・・昼飯を食べている暇などない・・・(苦笑)
時間に余裕があったら「栗林公園」に行ってみたいとも思ったが・・・
このタイミングでは、「栗林公園」に行っては、「高松城」を見る時間がなくなってしまう・・・
う~ん・・・参ったなぁ~・・・・
今日中に帰宅しなくちゃならんしなぁ~(汗)
やむなく・・・・高松城を優先することにした。

691_convert_20160203171050.jpg(志度駅)

琴電の「志度駅」は小さな駅舎である・・・・(笑)

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しかも、単線で・・・・しかも、この駅が「終点」である・・・・

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この電車・・・20分間隔で運行しているらしい・・・
折り返し12時20分発に乗って高松に向かう。
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旅行 | 12:59:27 | Comments(0)
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