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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
56歳
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)

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椋園先生遺愛之碑
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椋園先生遺愛之碑

椋園先生は、本名を赤松 渡と言った。
赤松家は、代々医術をもって高松藩に仕えていた。
先生は幼い時から勉強を好み、片山冲堂先生に学んだ。
武術も習得したが、槍術が得意であった。
家業をついで御殿医に進んだ。
明治の初め藩知事のもとで判事を兼務した。
松平家11代頼聰公は先生に文武の才能があるのを知り、御殿医の兼任を解き、専ら政治に当たらせることにした。
少参事に選任され、大変感激して精励した。
先生は香川県、徳島県の会計検査院に奉職、その後、明治23年5月5日、初代高松市長に任命された。
常に、市民の暮らしを心配し、産業の振興、福祉の充実に努めた。
功績は大きく、特に顕著な業績は、高松から脇町までの立派な道路(現在国道193号)を作ったことである。
高松港を修築しようとして計画書を完成させたが、市長の任期が満了し、退任した。
57歳であった。
先生は各地に出かけて、すぐれた文人と交わり、見聞を広めた。
その名声は諸国に広がり、教えを請うものが後を断たず、そのため、養浩塾を開き、優れた人材を輩出した。
先生は、世俗の名誉や利益にまったく無関心で、門弟たちの教育に打ち込むこと10年余りに及んだが、病気になり、不帰の人となった。
享年75歳。
府中村(坂出市府中町)の信義に厚い門弟たちが相談して、鼓岡顕彰会を作った。
旧友、門人は先生を慕い、先生の遺徳を後世に伝えるため、大正6年5月、植田倬にこの文章を書かせ、入谷暘の書による碑を先生のお墓の側に建てることになった。

(注記)
初代高松市長赤松椋園先生の墓は、三番丁の大本寺境内(現在の四番丁小学校西北端)にあった。
復興土地区画整理事業の為、姥ヶ池墓地に移され、この碑もその傍にあったが、昭和61年4月、中央公園完成を記念して、此処へ移設した。

(説明碑文より)


【香川県高松市・中央公園内】
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史跡 | 10:13:05 | Comments(0)
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