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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
56歳
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)

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安井息軒旧宅
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国指定史跡
安井息軒旧宅
指定年月日 昭和54年5月22日

この地は幕末の儒学者安井息軒(やすいそっけん)の旧宅である。
息軒は寛政11年(1799)1月1日ここで生まれた。
諱(いみな)は衡(こう)、字(あざな)は仲平(ちゅうへい)といい、息軒はその号で別に半九陳人(はんきゅうちんじん)などとも称した。
学問所で子弟の教育にあたっていた父滄洲(そうしゅう)の影響か息軒も幼少のころから学問を好み、貧しく背が低く痘痕面の容貌に嘲笑を受けながらも勉学に勤しんだ。
22才で大阪の篠崎小竹(しのざき・しょうちく)に師事、26才で江戸に出て昌平黌(しょうへいこう)に学ぶなど苦学を重ね、次第に頭角をあらわした。
29才で帰郷した息軒は、森鴎外著『安井夫人』に紹介されるように美しく聡明な川添佐代(かわぞえ・さよ)と結婚、また滄洲と共に本史跡の向かいにあった郷校明教堂(めいきょうどう)創建に携わり、その助教授となって子弟の教育にあたった。
天保2年(1831)、明教堂創建の実績が評価され、藩校振徳堂(しんとくどう)が再興されると総裁に滄洲が、助教授に息軒が任命され、この旧宅を隣人に譲渡し飫肥(おび)城下(現日南市飫肥)に転居する事となる。
天保7年(1836)、息軒は妻子と共に江戸に移住して三計塾(さんけいじゅく)を開き、永年に渡り書生を教授し、谷干城(たに・たてき)、陸奥宗光(むつ・むねみつ)ら幾多の逸材をその門下より輩出、後年は幕府儒官として昌平黌教授、奥州塙(はなわ)代官を歴任し、明治新政府の下では明治天皇侍講の依頼を高齢等を理由に辞退したこともあった。
この間「左伝輯釈(さでんしゅうしゃく)」「海防私議(かいぼうしぎ)」等多くの書を著している。
明治9年9月23日、77才で東京に没し、遺骸は家族や門人たちの手で東京都文京区千駄木の養源寺(ようげんじ)に葬られた。
現在その墓は東京都の史跡に指定されている。
この地は息軒等が飫肥に転居後居住者も幾度か替わったが、大正12年から昭和4年にかけて当時の清武村が買い上げて公園化し、昭和54年には現存する生家ともども国の史跡指定を受けた。
平成4年度から5年度には国及び県の補助を受け、文化庁や奈良国立文化財研究所の指導のもとに旧宅の保存修理を中心とした史跡整備事業を行い、その一環として旧宅を敷地内のもとの位置に移動させるとともに、屋根を茅葺きにするなど、ほぼ息軒在住時の姿に復原を行った。

宮崎市教育委員会

(説明板より)


【宮崎県宮崎市清武町加納甲3368-1】
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史跡 | 13:41:07 | Comments(0)
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