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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
57歳
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)

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宮崎を歩く
午前6時起床・・・8時、ホテルを出発!
今日は宮崎の観光である。(喜)

まず、最初にタクシーで宮崎神宮に向かう。

361_convert_20151031101444.jpg (神池)

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境内は鬱蒼とした森である・・・・
朝から森林浴・・・気持ちがいい・・・
案内板も出ているので助かった。(笑)
これがないと道に迷いそうである。



宮崎神宮略記

当神宮は神武天皇(神日本磐余彦尊)(かみやまといわれひこのみこと)を主祭神とし、相殿には鸕■草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)(御父君)と玉依姫命(たまよりひめのみこと)(御母君)が奉斎されている。
天皇は45歳の御時、天下統治に応しい地(ところ)を求めて日向国を御出発、数々の苦難の末に大和地方を平定され、第1代の天皇として即位された。
後に皇子神八井耳命(かむやいみみのみこと)の御子(建磐龍命)(たけいわたつのみこと)により、天皇の御神霊が当地(皇居高千穂宮の霊地)に鎮祭され今日に至っている。
古来より神武天皇宮或は神武天皇廟と称されて歴代領主の尊崇篤く、明治維新に際し神武創業の昔に復えるという事で、特に注目、重視された。
明治18年、官幣大社に昇格、社名も同11年、宮崎神社から宮崎宮と改称され、大正2年に現在の宮崎神宮となった。
その間の明治31年、神武天皇御降誕大祭会(総裁公爵二条基弘、会長伯爵島津忠亮、幹事長男爵高木兼寛)が発足し、社殿の造営・境内地拡張等の大工事が進められた。
特に明治天皇には御内帑金を下賜あらせられ、これを契機に全国的規模の募金活動が展開された。
同40年に竣工、遷座奉告祭が斎行され、更に同年11月、嘉仁親王殿下(大正天皇)の御参拝を給わった。
以後皇族方の御参拝が続いた。
殊に昭和天皇には皇太子裕仁親王殿下の御時、大正9年を始めとして六度の御参拝を給わった。
又皇太后陛下には大正12年、久邇宮良子女王殿下として御成婚御奉告を始めとして陛下と共に二度の御参拝を給わっている。

(説明板より)



どうも、神様の名前というのは難しくてよくわからん・・・(汗)
振り仮名が振ってあってもねぇ~・・・・発音しづらいわ、覚えられないわ・・・(苦笑)

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ん?・・・なんか、神社自体はこじんまりしている感じなんですが・・・(苦笑)
想像以上に・・・遥かに・・・小さい・・・(大汗)
ちょっと拍子抜け・・・(大笑)

それでも、朝に神様に御参拝とは、身が引き締まる・・・
が・・・
本来の拙者の目的地は、実は、ここではない・・・(大笑)
すぐ近くにある護国神社のほうなのである。(苦笑)
神様には申し訳ないのですが・・・
拙者にとっては、英霊のほうが“上位”でして・・・(汗)

367_convert_20151031111841.jpg (宮崎県護国神社)

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ちょうど、神社は拝殿の増築工事中だった・・・・



宮崎県護国神社

祭神
国家公共に尽した人の神霊

由緒
護国神社は全国道府県に52社あって、他県の場合は明治維新の当時に創立され、既に戦前より慰霊の祭儀が行なわれていた。
しかし、宮崎県の場合は諸般の事情により創立が遅れ、昭和18年に至り宮崎市下北方の高台に創建することになって建設工事を始めたのであるが、建設の途上に昭和20年8月15日終戦となり、連合軍の占領下にこの建設は取り止めることになった。
講和条約の発効に伴って、県民からの護国神社再建の要請が高まり、昭和28年4月より浄財を募って再建に着手し、昭和30年3月10日竣工し、同日御祭神の鎮座祭を斎行した。

例大祭  4月10日
みたま祭 8月14日・15日
命日祭  毎日午前11時

(説明板より)



境内にはいくつもの慰霊碑が建立されている。

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これは永峯肇という人の慰霊碑・・・・
彼は昭和19年10月25日、日本で初めての特攻隊である神風特別攻撃隊敷島隊の4番機として散った人である。
彼が飛び立った、フィリピンのルソン島マバラカットの飛行場跡に建つ慰霊碑には何度もお参りに行っているが・・・
あらぁ~彼は宮崎出身だったのか・・・
慰霊碑があるとは知らなかった。(驚)

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こちらは歩兵第72連隊の慰霊碑・・・
フィリピンのルソン島で戦った部隊である。
拙者の祖父が戦っていた同じルソン島で戦った部隊・・・・
おかしな話しだが、懐かしいなぁ~という気がしてしまう。

400_convert_20151031192407.jpg

こちらは、ブーゲンビル島で戦った陸海軍部隊の鎮魂碑。
碑文によれば、宮崎県出身の戦没陸海軍将兵は5千名に達するそうだ・・・
ブーゲンビル島には以前、行ったことがあるので、これまた何とも懐かしい・・・・

この他にも、いくつもの慰霊碑があるので、一つ一つ丁寧に見て歩く。

で・・・境内に「遺品館」もあり、見学できるとの事なので、内部を見学させてもらう。

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時刻は午前10時になる・・・
この護国神社だけで1時間半も時間をかけてしまった・・・(大汗)

続いて向かったのは、総合文化公園・・・・
護国神社から、道路を挟んだ向こう側・・・という位置である。(笑)
この公園には銅像が数体建っておるのだ。
この写真を撮りに行くのが目的・・・(笑)

461_convert_20151031205816.jpg (安井息軒)

安井息軒・・・この人は江戸時代の儒学者である。

471_convert_20151031210332.jpg (高木兼寛)

高木兼寛・・・・この人の名は知らないのだが・・・
日本最初の医学博士だそうで、脚気の原因の研究をしたそうだ。
その研究の延長線上に「ビタミン」があるので、この人は「ビタミンの父」と呼ばれたと碑文にある。
「ビタミン」と聞くと、つい思い出すのが鈴木梅太郎・・・・
「ビタミンB1」を発見した人だったと思う。
小学6年生の時に、鈴木梅太郎の伝記を読んだことを覚えている。
内容は・・・すっかり忘れてしまったが・・・(大笑)
「鈴木梅太郎」と「ビタミン」だけは覚えている・・・
ビタミンを発見したのだから、鈴木梅太郎はすごい人だと思うのだが、有名ではない・・・(涙)
野口英世くらい有名になってもいいと思うのだが・・・(汗)
高木兼寛に至っては、もっと知られていないと思う。(拙者の勝手な推測ですが・・・)
にもかかわらず・・・「ビタミンの父」なのである。
鈴木と高木・・・どっちが「元祖」なんだろう?(苦笑)

この公園には、この他に、歌人の若山牧水、宮崎県初代県議会議長の川越進、明治期の慈善事業家で孤児院を作った石井十次、外務大臣をやった小村寿太郎などの銅像が建っている。

石井十次の銅像は、その昔、岡山に行った時に胸像をカメラに収めたことがある。
久しぶりの石井十次である・・・(喜)

515_convert_20151031215650.jpg (小村寿太郎)

小村寿太郎の銅像を見たときに・・・・あれ?
誰かに似てる・・・・と思ったら、そうだ!・・・・加藤友三郎の銅像だ!
広島に行った時に撮影した加藤友三郎の銅像に似ている・・・(大汗)

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(広島市中央公園にある加藤友三郎の銅像)

制作者は別人なんだけど・・・シルクハットにフロックコートとなると、どうしても似ちゃうかも・・・(大笑)

次に向かったのは、平和台公園・・・・
ここにあの有名な「八紘一宇」の塔がある。
一度、この目で見て見たいと思っていたので、それが実現すると思うと、つい興奮してしまう。(大笑)
歩いて行けないこともない距離だろうと思い、徒歩で向かったが・・・
なだらかな坂道を登る破目に・・・
この“なだらかさ”が、運動不足の拙者の足には堪えるのである。(涙)

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住宅街の向うに森が見える・・・
その森の中から、ニョキッと塔の頭が・・・
ある意味、異様な風景である・・・(大笑)

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変な話しだが・・・どこかの異星人の宇宙船が森の中に着陸しているっていう感じ・・・(大汗)
どう表現すればいいのか・・・正直言って、ブルブルッと身震いするような“感動”・・・・

近くまで来たが、入り口がわからない・・・・(笑)
大きな看板でも建っていると思ったのだが・・・
あとは勘に頼るしかない・・・・

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公園の入口と思われる場所に銅像を発見!(喜)
相川勝六という宮崎の振興に尽力した政治家の銅像である。

長い石段を半分貧血を起こしながら登りきったら・・・あった!
「八紘一宇」の塔である!(大喜)

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県立平和公園

この公園は、紀元2,600年記念事業として県奉祝会が中心となり県内はもとより広く国内外の有志の協賛をえて、「八紘之基柱(あめつちのもとばしら)」の建設と広場2,600坪(8,580平方メートル)の■成を行ない昭和15年11月25日に完成した。
この台地は、神武天皇ご東征当時の宮居の跡といわれる「皇宮屋(こぐや)」の北部に位置し、海抜60メートル、下北方古墳群に■まれている。
台上の塔は、高さ36.4メートルで■内各地をはじめ当時世界各地に在住した日本人団体及び友好諸国から寄せられた切石1,789個を含む石材834立方メートルで築かれ、作業員は奉仕団を含め延べ66,500人、総工費67万円を費やしている。
塔は日名子実三氏の設計になり、外形は神事に用いるご幣を象徴しており、左に向かって荒御魂(あらみたま)(武人)、奇御魂(くしみたま)(漁人)、幸御魂(さちみたま)(農人)、和御魂(にぎみたま)(工人)の四像を配し、昔の生活風俗をしのばせている。
正面には、秩父宮雍仁親王殿下の真筆による「八紘一宇(はっこういちう)」の文字が永遠の平和を祈念して刻みこまれているが、終戦の昭和20年8月にはその精神が戦争目的に利用されたとして削除され、「荒御魂」像もまた武力を象徴するものとして取り除かれ、その後、塔は「平和の塔」と呼ばれるようになった。
しかし、昭和32年4月9日に都市公園の決定をうけて公園整備が進むにつれ、美術工芸品としての塔の完全復元と保存の機運が台頭し37年10月5日に「荒御魂」像が、40年1月31日には「八紘一宇」の文字が復元された。
また、37年3月31日に、はにわ園、はにわ館が設置され39年のオリンピック東京大会の際は、国内聖火リレー第2コースの起点に選ばれ、9月9日この地に運ばれた聖火は翌10日県民歓送のうちに東京への第一歩をふみ出した。
これが機縁となり、オリンピックの主会場であった東京都の日比谷公園と姉妹公園の縁を結んでいる。
なお、県立都市公園としては、昭和35年度から45年度まで数次にわたる年次整備計画に基づき、県・市民の憩の場として拡充整備をすすめ、神話の国みやざきを象徴するにふさわしい姿を整えるにいたっている。

昭和46年3月31日
   宮崎県知事 黒木 博

(説明石板・碑文より)



拙者は「八紘一宇の塔」と呼ぶのだと思っていたが、説明文を読んでみると、「八紘之基柱(あめつちのもとばしら)」と言うらしい。
が・・・いつの間にか「平和の塔」・・・・(唖然)
「平和の塔」では、意味がわからないと思うんですけど・・・
そういう名称にしないと、塔自体の存続が危ぶまれたのだろうか?(汗)
塔の設計は、日名子実三という人・・・
ん?・・・聞いたことがある名である・・・
あ・・・・臼杵城に行った時に、この人が作った銅像があった・・・
日名子さんは大分県臼杵市出身の方である。(苦笑)
「八紘一宇」の文字は秩父宮雍仁親王(ちちぶのみや・やすひとしんのう)殿下の真筆だったそうで・・・
「やすひと」というのは、ちょっと読めない字かも・・・(苦笑)
殿下は大正天皇の2番目のお子さん・・・・
当然、1番目のお子さんは・・・昭和天皇となられたわけで・・・(笑)
大正天皇には4人の男子のお子さんがおられ、末子の4番目のお子さんが、拙者が尊敬し敬愛する三笠宮崇仁親王(みかさのみや・たかひとしんのう)殿下である。
三笠宮殿下は、たしか、99歳・・・拙者が最後に殿下にお会いしたのは、殿下が92歳の時だったと思う。
今年の12月の誕生日を迎えると100歳になられる!(大喜)
残念ながら、秩父宮殿下のほうは昭和28年に50歳でお亡くなりなられており、現在は秩父宮家は断絶してしまっている。
その秩父宮殿下の真筆が戦後の「左翼思想」のせいで削られたのか?
復元された文字は、秩父宮殿下がお書きになられた文字なのだろうか?

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まもなく時刻は12時・・・
この公園に来るまでに、食事ができそうな場所は見当たらなかったので、公園内の売店で食事をすることにする。

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この公園には「はにわ館」なるものがあるそうだが・・・・・
余計なものを見ていると時間がなくなる・・・(大笑)
歩き疲れてはいるが・・・もうひと頑張り・・・(苦笑)
この公園に来るときとは別のルートを歩いて下に降りることにする。

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途中で「オロン坂」の説明板に出会う・・・・
どうも拙者が今、下ってきた坂道が「オロン坂」らしい・・・
説明板によれば、「さののみこと(神武天皇)」がそぞろ歩きをした坂だから「皇路坂」と呼ばれるようになったとか・・・
「スサノオノミコト(牛頭大王)」が、たどたどしい足取りで歩いた坂だから「オロの坂」と言われたとか・・・
どうも“神話”の世界の話は興味がないのでチンプンカンプン・・・(苦笑)
何の話やらサッパリわからん・・・
いずれにせよ・・・・「オロン」って、とてもじゃないが日本語とは思えない・・・(汗)

更に歩いていると、目立つ看板がある駐車場に出会った・・・・(笑)

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皇宮神社?・・・
神武天皇御東征進発の地?・・・・
う~ん・・・よくわからないから、このまま通り過ぎようと思ったのだが、なんとなく気になった・・・(笑)
やっぱり、ちょっと立ち寄ってみるか・・・

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石段を登って先に進むと・・・・あれ?・・・・何もない・・・(汗)
原っぱに塔が建っているだけ・・・

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「皇軍発祥之地」と刻まれた塔・・・・
帝国陸海軍が、この地で生まれたとは思えませんが・・・(大汗)
“皇軍”って、神武天皇が率いた軍勢のことかな?(苦笑)
何の説明板も建っていないのは残念である。
宮崎市の教育委員会で何かしらの説明板を建ててくれるといいんだけどなぁ~
「紀元二千六百年 宮崎縣奉祝會」と「紀元二千六百年 陸軍大将杉山元書」の文字が刻まれているだけ。
この揮毫は杉山さんか・・・・
杉山元(すぎやま・げん)は、陸軍大臣を歴任し、日米開戦時には参謀総長だった人。
皇紀2600年は、昭和15年のことだから、ちょうど参謀総長になった頃に、この塔が建てられたのかも。
終戦後、しばらくしてから拳銃自殺をした。
その直後、国防婦人会の役員をしていた奥さんも自殺をし、夫婦で戦争の責任を取られた・・・
杉山大将(元帥)に対してその指導力について批判する人もいるが・・・
散々好き勝手なことをして、いい加減な方針と作戦を立てて多くの将兵を殺しておきながら、その責任を取らず自決もせず、平然と戦後を生き永らえた連中と比べたら、拙者は、死を持って責任を取った、この人は偉いと思う。

さて・・・神社はどこだ?(大笑)
奥のほうに鬱蒼とした森があるので、その中かな?(笑)
向かってみたら、勘が当たった。(喜)

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あれ?・・・・拍子抜けするほど小さな神社だった・・・(苦笑)


宮崎神社 摂社
皇宮(こうぐう)神社

1.御祭神
   神日本磐余彦天皇(かみやまといわれひこのすめらみこと)(神武天皇)
2.相殿
   吾平津姫命(あひらつめのみこと)
   手研耳命(たぎしみみのみこと)
   渟名川耳命(ぬなかわみみのみこと)
3.特殊神事 はやま祭(旧正月14日)
4.御鎮座は、宮崎市下北方町皇宮地で神武天皇宮崎の宮の跡(江戸時代の碑)と伝えられる聖地である。
5、明治10年3月、宮崎神宮の摂社に列せられた。
  昭和9年境域の拡張整備が行われて「聖跡皇宮屋」の記念碑が建てられた。
  昭和10年11月の陸軍大演習の際には、昭和天皇のご巡覧という光栄を得た。
  現在の社殿は昭和51年に竣工、同年7月遷座祭が行なわれた。

(説明板より)



皇宮神社を参拝後、さらに歩く・・・・(笑)
まもなく「宮崎県総合博物館」のところまで戻ってきた。(笑)
博物館好きの拙者としては、見学したい衝動にかられるのだが・・・
時刻は午後1時を過ぎた・・・・
ここで博物館を見学すると、それだけで今日一日が終わりかねない・・・(汗)
博物館には気がつかなかったことにしよう・・・・(大笑)

さて・・・次は、清武という場所にある「きよたけ歴史館」に行く事にした。
この歴史館のそばに安井息軒の生誕地があり、歴史館にも彼についての資料が展示されているらしい。

清武まで電車に乗って行こうと思い、近くの「宮崎神宮駅」に行く。

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ん?・・・・駅に駅舎がない!(汗)
どうもホームで切符を買うようである・・・・
ホームに行って時刻表を見たら・・・・電車がない!
1時間に1本あるかどうか・・・である。
このホームで1時間も待つようなのか?
いやぁ~宮崎って大都市だと思っていたのに何て不便なんだろう。
たまたま居合わせたオバサンに、この時刻表は正しいのかを確かめたら、本当に正しいそうだ・・・(唖然)
この地元のオバサンも、この本数の少なさには呆れていた。(笑)
・・・・電車に乗るのを諦め宮崎駅方向に歩くことにする。

とにかく今日も暑い・・・・
暑くてフラフラ、歩き疲れてフラフラ・・・(大笑)
大通り沿いを歩いているのに、タクシーと全く出会わない!!(怒)
電車は本数が少ないわ、タクシーは走っていないわ・・・・なんと不便な町なんだ!(怒)
疲れが溜まってイライラしてくる。
もう歩くのも限界か・・・と思ったらタクシー会社を見つけた!(大喜)
なんと運がいいんだろう・・・・・
タクシーで清武まで向かう・・・・

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「きよたけ歴史館」は、民家が点在する田舎の高台にポツンと建っていた。
全然目立たない場所にあるので、タクシーの運転手さんが「知らない」と言ったのも無理はないかも・・・・(苦笑)
「安井息軒の旧宅」と言って、ようやく通じた次第である。(笑)

館内は撮影禁止だが、ロビーの銅像はOKとのこと。(大喜)

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安井息軒
1799~1876

安井息軒は幕末から明治初期にかけて活躍した日本を代表する儒学者です。
寛政11年(1799)に、飫肥藩士安井滄洲の次男として清武中野に生まれました。
幼くして学問を志し、大坂、江戸で苦学して帰郷、清武郷校「明教堂」、飫肥藩校「振徳堂」で飫肥藩の教育に尽くし、後に江戸に移住して私塾「三計塾」を開きました。
「三計塾」は“江戸に集う書生が最後に門を叩くところ”と評価され、全国から俊英が集い、紀伊の陸奥宗光、土佐の谷干城、長州の品川弥二郎、米沢の雲井龍雄など、新時代を切り開いた幾多の人材を育てました。
文久2年(1862)には幕府儒官として昌平坂学問所教授となり、晩年は『論語集説』『管子纂詁』等業績的な著書を著し、江戸期の儒学研究を集大成するとともに、近代漢学の礎を築きました。
明治9年(1876)9月23日、77歳で東京に没し、その墓所は現在東京都の史跡に指定されています。
この像は、清武町文化会館前に建立された安井息軒像の原型です。
製作者である清武町出身の宮崎大学名誉教授平原孝明氏から寄贈されたものです。

(説明プレートより)


それほど大きな資料館ではないので、40分ほどで見学を終了。(笑)
この歴史館と道を挟んだ反対側に「旧居」があるというので見に行く。

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604_convert_20151102212739.jpg (安井息軒先生誕生地碑)

「きよたけ歴史館」に戻って職員の方にタクシーをお願いする。
職員の方が過去の図録をタダでくれた・・・(驚!)(大喜!)
普通はお金を払って買うものなんですけど・・・
「差し上げます」とのこと・・・・なんと親切な方か・・・・(大喜)
拙者のホームページを教えてあげて、事務所のパソコンで見てもらう。
このサイトの管理者が拙者でございます・・・(大笑)
で・・・・ご感想は?
「内容が多すぎて見切れない」と笑われた・・・・(大笑)
ごもっともでございます・・・・友人にも大変不評なサイトなのです・・・・(苦笑)
タクシーが来るまで、かなり時間がかかるようなので、歴史館の周囲をウロウロ・・・
(実はタバコが吸いたかったので灰皿を探していたんですけど・・・)(笑)
建物の裏に、安井息軒と夫人の“廟”があった・・・
立派な廟に驚いた。

623_convert_20151102214037.jpg (安井息軒廟)

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(安井息軒廟から見た景色)

今日の観光は、ここまで・・・・
さすがにクタクタ・・・・
タクシーで宮崎駅まで行き、ホテルに戻る。

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宮崎駅前で見かけた看板・・・・
やっぱり宮崎といったら「神話のふるさと」ということになるか・・・・・(汗)

631_convert_20151102220210.jpg (今日の夕食)
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旅行 | 10:09:39 | Comments(0)
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