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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
56歳
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)

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「クラーク」、「バターン半島」
今日は、またまた早朝の出発・・・・(涙)
午前6時半である。
朝食会場のレストランのオープンと同時、午前6時に朝食・・・

297_convert_20150907115515.jpg (ホテル・JEN)

今日は、これから「クラーク地区」に向かう。

「マバラカット」の町に入り・・・
日本海軍第201航空隊(略して「201空」)の士官宿舎だったという家の前を通過する。
慌ててバスの中から写真を撮ったので、上手く撮れなかった・・・(涙)

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ホテルを出発して約2時間後・・・マバラカットの「東飛行場跡」に到着。

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「神風特攻隊記念碑」(記念像?)を参拝・・・
ここには何度も来ているが、敷地の右隅の塀の裏に「資料」の展示があるという。
あら・・・それは知らなかった・・・(苦笑)

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次に向かったのは、タルラック州の「カパス」(キャパス?)という場所・・・
ここは初めて訪れる・・・
「デス・マーチ・メモリアル・ピープルズ・パーク」という幕が張られていた・・・
つまり・・・「死の行進記念市民公園」・・・という意味かな?(苦笑)

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この公園のモニュメントに「死の行進」の大きなレリーフが設置されている。

310_convert_20150907140116.jpg 311_convert_20150907140158.jpg

「死の行進」のプロパガンダのレリーフである。
まぁ、なんと醜悪に日本兵を描いていることか・・・
一体、誰が建てたのだろう?(大汗)

“行進”から多くのフィリピン人が逃亡したらしいが、日本兵たちは見逃したという。
そんなことに構っている余裕はなかったのだろう。
“行進”する側は手ぶらでいいが、引率する日本兵は重い銃を担いだ完全武装なのである。
どちらが苦しかったか・・・
一人の日本兵で200人ほどの捕虜を“輸送”したと聞いたことがある。
う~ん・・・捕虜を殴る蹴るなんて出来たかねぇ~
大勢の捕虜の前でそんなことをしたら、自分が逆に殺されちゃうんじゃないかね?(苦笑)
日本兵のほうがビビリながら捕虜を“輸送”したんじゃなかろうか?(大笑)

次に向かったのは・・・「カパス・ナショナル・シュライン」という場所。
先ほどの公園から車で30分弱のところにある。
日本語に訳すと「カパス国立霊廟」(?)・・・
バターン半島から最終目的地である「キャンプ・オドネル」まで捕虜たちが歩いたわけだが、その“終点”に、この「死の行進」の犠牲となったフィリピン兵や米兵の為に建てたものだという。
いわゆる「慰霊碑」がある場所・・・ということになるのかな?

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遠くに、鉛筆のようなものが見えてきた・・・
あれが、「慰霊塔」のようである。
あらら・・・すごいこと・・・(唖然)

日本も、こういう巨大な塔を造ればいいのに・・・
高さ100メートルの塔を広島の原爆投下地点に建てるとか・・・(笑)
で・・・「民間人を大量殺戮した原子爆弾の投下地点」って看板も建ててさぁ~(笑)

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皆さんが敷地内を見学している間に、拙者は敷地内の売店でコーヒーを飲む・・・
いやぁ~コーヒー好きの拙者は、コーヒーを飲まないと、どうも調子が出ないのです・・・(苦笑)
やっとコーヒーが飲めた!(大喜)
で・・・当然、それからタバコを一服して・・・(大笑)
ようやく見学スタート・・・

敷地内には、「死の行進」で使われたという貨車が展示されていた。

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BATAAN DEATH MARCH BOXCAR

After the Death March which claimed many lives, Filipino and American prisoners of war, having walked 105 kilometers from Mariveles and Bagac, Bataan under the intense April heat, were assembled in San Fernando, Pampangaand were loaded into boxcar.

This boxcar, and many like it, were used to transport Filipino and American prisoners of war - the defenders of Bataan and Corregidor - from San Fernando Pampanga to prison camps in Capas, Tarlac after the long march.

It was one of the many freight cars of the Manila Railroad Company before the World War Ⅱ .
Measuring about six feet long, eight feet wide and six feet high, this boxcar had wooden walls and metal roof.
A larger version made of steel, was 33 feet long, seven feet high and eight feet wide.

At San Fernando, the prisoners were loaded into the boxcars by the Japanese guards who used their rifle butts and bayonets to squeeze more people than the capacity of the boxcars.
Fifty to sixty men were forced into this particular type of car.
As many as one hundred fifty to one hundred sixty men were crammed into the larger version of this boxcar.
The boxcars so tightly packed that it became impossible to sit down.
The only source of ventilation and air was a tiny slit in the door of each boxcar.

The car, under the sweltering sun, rapidly became an oven, and men suffocated in the heat.
Those afflicted with dysentery could not control their defecation and soon the floor of the car was filthy with excrement, urine and vomit.
Many died where they stood in the boxcars.

This boxcar is the last known surviving freight car of its kind, and is a mute witness to the human sacrifice and heroism of all those who were victims of the Bataan Death March.
It serves as memorial to the horrors of war and to man's inhumanity to his fellow man.

(説明板より)



324_convert_20150908210954.jpg (オベリスク)

330_convert_20150908211233.jpg (メモリアル・プラザ)


CAPAS NATIONAL SHRINE

Established as Camp O'Donnel in 1940 as cantonment center for the military training of the Filipino youth.
Became cantonnent and mobilization center of the 71th Division, PA, USAFFE on July 15, 1941, as ordered by the U.S.A. president ERANKLIN DELANO ROOSEVELT.
Transformed into a Prisoner of War Camp by the Japanese Imperial forces after the “Fall of Bataan” and the surrender of the Filipino and American troops.
Renamed Capas Prisoners of War Concentration Camp.
Around 60,500 Filipino and American prisoners of war were herded in this camp.
Many became weak, sick and eventually passed away.
On July 25, 1942, approximately 30,000 Filipino and American prisoners died of sickness and malnutrition while under detention.
Became Part of Clark Air Base Military Reservation after World War Ⅱ.
Turned over to the Philippine Government on the occassion the 40th Anniversary of Bataan Day on April 9, 1982.
Declared as capas National Shrine by Proclamation No. 842, dated December 7, 1991 by President CORAZON C. AQUINO.


DESIGN FEATURES AND COMPONAENTS

MEMORIAL MONUMENT
The “Obelisk” is the focal center of the entire shrine site which stands for peace.
The needle-like tower consist of three sections symbolizing the Filipino, American and Japanese people in this modern age of global peace, who have learned the lessons of war from the past.
Regulatory signal beacons is installed atop the obelisk, to symbolize the height of nationalistic aspiration of Filipinos towards peace and freedom.

The Mini-Forest
( Nature Park)
to date, approximately 35 hectares of land hane been utilized for the reforestation of the shrine.
About 25,000 trees of various species (Mahogany, Duhat, Allbangbang, Mango, etc ) have been planted.
The reforestation of the shrine area is a very appropriate action of the government so as to invoke invironment consciousness among the people in the province.

MEMORIAL PLAZA
A solemn gathering place to remember and honor the war heroes.
The large space provided allows the people to view the magnificence of the peace monument ( Obelisk ) .
The scale and proportion of the site will create a monumental effect to excite the spectators imagination.

ESPLANADE
A wide mall along central axis from the front ( main ) gateway, to the Ceremonial Plaza, to the Flag pole and stretching to the Memorial Plaza and the Obelisk.
This central walk is flanked on both sides by mini-flagpole to accentuate the approach to the Obelisk.

(銘板より)



時刻は午前10時を過ぎた・・・
ここから再び「クラーク」へ戻る。

335_convert_20150908222333.jpg (クラーク国際空港)

ここ「クラーク」には「クラーク国際空港」という空港がある。
戦時中は日本軍の航空基地があった場所である。
で・・・この「国際空港」には日本からの直行便はない・・・
その代わり、韓国から直行便が就航している。
そのせいか・・・フィリピンに来る韓国人が多い・・・(汗)
空港の周辺には、ハングル語の看板も結構見かけるから、韓国人相手の店なのだろうか・・・「ネオン街」がある。

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我が「観光バス」は、この「飲み屋街」(ネオン街?ピンク街?)(大笑)を行ったり来たり・・・
何をしているのかと思ったら・・・
ガイドが携帯で何やら連絡をとっている。
どうやら、これから向かうレストランの場所がわからないようである。
あのね・・・自分も行ったことがない店に我々を連れて行くのか?(唖然)
下見はしていないのか?(怒)

20分以上ウロウロして、ようやく店の場所がわかったらしい・・・
向かったのは、近くにある「チャイナタウン」ならぬ「コリア・タウン」である。

339_convert_20150912113546.jpg 341_convert_20150912113801.jpg

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多くの韓国人がやってきて、ここに住み付き、「コリア・タウン」を作ってしまったらしい。
もともと、ここに住んでいたフィリピン人を追い出して「朝鮮人街」を作ったため、トラブルが多発しているという話もある。
東京でも似たような街があったような・・・朝鮮人が住み付いて「コリア・タウン」になってしまった場所・・・(苦笑)
あれと同じかな?

で・・・今日の昼食は「韓国料理」だという・・・(唖然)
どうしてフィリピンで韓国料理を食べねばならぬのか・・・拙者としては正直言って面白くない!
案の定、レストランに着いたが昼食の用意は全くされていなかった・・・
携帯電話でやり取りしてたんでしょ?
我々がまもなく到着することはわかっていたよね?
散々待たされ・・・愛想のない店員がようやく準備を始める・・・
そこへ、韓国人のお客が・・・ウェイトレスは、同国人には愛想がいい・・・
ん?俺たちが日本人だから愛想悪くしたのか?
だから・・・韓国料理店なんかには行きたくないんだよね!(怒)
侮日感情丸出しの店の料理・・・何を混ぜられているか分かったもんじゃない・・・(苦笑)
かといって・・・全く手をつけないというわけにもいかぬ・・・
ここがツアー旅行のツライところである・・・(大涙)

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午後1時、高速道路を使ってバターン半島の「マリベレス」へ向かう。
いつの間に高速道路なんて出来たんだろう?(笑)
拙者が前回、初めてバターン半島へ行ったのは11年前のことである。
あの時は、一般道を走り、かなり時間がかかったと記憶している。
いやぁ~便利になったんだぁ~(笑)

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高速を降りて一般道を走る。
まもなく、「サマット山」が見えてきた。

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山頂に大きな十字架が建っている。
あの十字架は・・・展望台・・・
11年前に登ったことがある。(笑)
この「サマット山」は大戦初頭のフィリピン攻略戦の時の激戦地である。
この展望台には「資料館」もあって、日本軍の兵器等の展示もあるのだが・・・
どうも、この山には行かないようである。(笑)
軽く通過する・・・・

海の向うにチラリと「コレヒドール島」が見えた・・・

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午後2時過ぎ、「死の行進」の出発地点に到着。

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(出発地点を示す「00km」の道標)

ここは、ちょっとした“公園”になっていた。

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ここに、“記念碑”(?)もある。
英語とフィリピン語の2ヶ国語で刻まれた「死の行進」についての記述があるが・・・・
ちょっと話が長いので・・・
ここには書かない・・・(大笑)

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ここでトイレ休憩・・・
しかし、公園内のトイレは、かなり汚いらしく、女性陣は使えないとのこと・・・(唖然)
“この手の公園”にしては管理が杜撰である。
我が家の近くの児童公園の公衆便所よりヒドイ・・・(大笑)
まぁ、フィリピン人のやることだから仕方がないか・・・
やむなく、少し歩いたところにあるファストフード店のトイレを拝借・・・(笑)

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公園の前の道路・・・
ここから、この道を向うに向かって歩き・・・
はるか向うに見える山を越えて「行進」したのだろう。

午後3時過ぎに公園を出発・・・
「死の行進」のルートを走る。

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374_convert_20150912190535.jpg (5km地点)

「スタート地点」を出発して、まもなく山道となる・・・
延々と上り坂・・・
スタートして、炎天下の中、直ぐに上り坂とはねぇ~
拙者は「死の行進」とは、スタートから終点まで、延々と平坦な道を歩いたのだと思っていた・・・
実際に“現地”に足を運ぶというのは大事なことだと思う。
まさか、こんな道を歩いたとはねぇ~(汗)
拙者なら、5km地点の遥か手前で脱落だな・・・(大笑)

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山道の途中から下界を見る・・・
ちょうど工場のようなものがある辺りに捕虜たちが集まったらしい。
周囲の丘や山から続々と投降してきたらしい。
捕虜は7万人?
唖然である・・・
実際にこの地形を見たら、すぐにドンドン移動させないと、とてもじゃないが収拾がつくまい。
周囲はマラリアが蔓延している場所・・・
食料が無くなり栄養失調でガリガリに痩せ、マラリアに冒されて衰弱してからの投降である。
そうなるまで抵抗しておいて・・・
「あとは日本軍がなんとかしてくれますよね?」・・・か?(唖然)
それから、この山道を歩くんでしょ?・・・死んでもおかしくないな・・・(笑)
死なせるために歩かせたのではないだろう?
一方的に日本軍を責められてもねぇ~・・・・米軍のほうにだって責任はあるんじゃないのか?
死に至るほど衰弱してからの降伏ではねぇ~

終戦時、日本軍も餓死寸前まで戦い衰弱して投降した。
拙者の祖父も終戦まで戦い続け、栄養失調で衰弱していたため捕虜収容所の病院に入院させられた。
捕虜収容所では、千人単位で死者が出たのである。
これに対して、米軍を責める人はいない。
死に至ったのは本人の責任である・・・ということか。
死に至るほど衰弱するまで戦い続けた日本兵が悪いのである・・・ということか。

日本軍は衰弱している捕虜を歩かせたから死なせたというわけである。
歩かせなければ死ななかった・・・ということが前提とされていると思う。
が・・・このまま、あの場所に留め置いていたら、マラリアの蔓延する地である・・・
ドンドン死者が出たのではないだろうか?
移動してもしなくても、いずれにせよ死者は出たのではなかろうか?
どっちに転んでも「非人道的」と言われることになる・・・
なんで、こんな場所に投降してきたのかねぇ~
もう少し交通の便のいいところに出てきてくれれば少しは違ったかも・・・(笑)

それにしても・・・不思議なのは・・・
あの「出発地点」の公園は海岸の近くにあるのである。
どうして日本軍は船を使わなかったんだろう?
そういう発想があってもおかしくはないと思うが・・・その船が無かったのか?(大汗)

376_convert_20150912201133.jpg (16km地点)

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右の道が、「マリベレス」から来た道・・・・
左の道が「カブカーベン」へ向かう道(だと思う)・・・・
ここがちょうどその分岐点だと思う。
「カブカーベン」という場所で本間司令官とウェンライト司令官が会見をしたという。
まさか、この分岐点で会談したわけではあるまい?(大笑)
その場所へ行くのかと思ったら、あっさりと通過・・・
多分、どこで会見が行なわれたのか正確な場所がわからないのかも。(苦笑)

384_convert_20150912202754.jpg (58km地点)

午後5時・・・「58km地点」を通過する。
ここは「デナルビアン」という町らしい。
ここのロータリーにモニュメントが・・・
米軍の兵士が戦っているモニュメント・・・・
この地点が、米軍の最初に作られた防衛線らしい。
ということは、日本軍の猛攻を受けて、ここから50kmほど後退して山の中に入ったということか?
となると・・・何やら勇猛果敢に戦っている姿のモニュメントだが・・・(苦笑)
50kmも逃げたのでは・・・・ねぇ~・・・・
あまり威張れたものじゃないと思うけど・・・(大笑)

午後6時・・・「サンフェルナンド駅」に到着する。

421_convert_20150912210111.jpg 390_convert_20150912210206.jpg

ここは「死の行進」の出発点から102kmの地点となる。
昔は、マニラからここまで鉄道が敷かれていた。
今は廃線となっていて、レンガ造りの旧駅舎が「資料館」として残っている。

バスを降りて写真を撮っていたら、地元の“オジチャン”が日本語で声をかけてきた。
あ~日本語が話せるのかと日本語で話しかけたら・・・
日本語はわからない・・・と言う。(大笑)
日本語は挨拶だけしか知らないというのだが、その日本語は訛りもない完璧な発音だった。(驚!)
「完璧な発音だったので日本語が話せるのかと思いましたよ」と言ったら大いに喜んでくれた。
すると・・・彼が1枚のカードを手渡してきた。
名刺かと思ったら、そうじゃない・・・
この駅舎の写真のカード・・・
尋ねて見たら、彼はこの駅舎が好きで仕方がないのだそうで・・・(笑)
自分で写真を撮って、パウチでカードを自作して、ここに来る人にタダで配っているのだという。
へぇ~・・・奇特な人がいたものだ・・・(笑)
いわば、“非公式”の「なんちゃって保存会会長」みたいなものかな?(大笑)
わざわざ、この駅舎を見に来てくれる人がいるのが嬉しいのだそうだ。
もっと、おしゃべりをしたかったが、拙者の低レベルの語学力では、このくらいが限界・・・
こういうのが悔しいのである・・・
もう少し流暢かつ自由に英語が操れればなぁ~・・・・もっと色々と話が出来るのに・・・(大涙)
毎度のことだが・・・なんとも悔しい・・・
何年経っても英語力が上達しない・・・(涙)

旧駅舎の内部はガランとしているが、一応、資料館になっている。

392_convert_20150912211900.jpg (駅舎内部)

「死の行進」の等身大(?)のジオラマがあった・・・
「マリベレス」から100kmほど“行進”した捕虜たちは、ここから鉄道輸送で収容所へ送られたそうで、その当時の様子を再現したものだそうである。

414_convert_20150912212155.jpg 417_convert_20150912212337.jpg

日本兵なんかは、なかなかの顔つきである。(大笑)

418_convert_20150912212800.jpg 419_convert_20150912212854.jpg

このジオラマの展示については、その説明版には英語と一緒に日本語が併記されていた。
他のものに関しては英文のみの表記である。
たぶん、日本人の誰かが協力して説明板を作製したのだろう。

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ここには、昭和20年のマニラ攻防戦の時の写真の展示もあった。
廃墟と化したマニラ市内の様子を写した写真である。

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また、「死の行進」の貴重な写真も展示されていた。
多分、これは日本の報道班員が撮影したものだろう。
まさか、捕虜に写真を撮る余裕などあるまい。(大笑)

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(説明文)
Japanese troops guard American and Filipino prisoners after their surrender on April 9, 1942, and before the harrowing Bataan Death March began.



それにしても、この写真を見る限り、餓死寸前でガリガリに痩せて・・・・という米兵は見当たらないのだが・・・
あえて、そういう兵隊にはカメラを向けなかった可能性はあるが・・・
どうなんだろうねぇ~
あの痩せ衰えた姿が「死の行進」のイメージだが・・・
なにか、ちょっと違うような気がする。
いつもキャデラックかベンツに乗っている人が、軽自動車に乗せられたので「粗末な扱いを受けた」と文句を言っているのと、たいして変わらない話なのかもしれないなぁ~・・・・という気がした・・・・(苦笑)
この「死の行進」・・・3日間ほど歩いたらしい。
「マリベレス」から「サンフェルナンド」まで88kmの距離を歩いたという話があるが・・・
この駅にある「道標」では、「102km」となっている。
何で違うんだろ?(苦笑)
だいぶ距離が延びてるんですけど・・・・(大汗)
新たに測定したら・・・ということなのか?
20kmもの誤差というのは、いかがなものかと思うが・・・
このあたりが、よくわからない。
「100km以上歩かされた」と言う方がインパクトはあるからなぁ~(苦笑)

時刻は午後6時を過ぎ、日も沈み始め暗くなり始めた・・・・
今日の見学はこれで終了。
高速道路を使って、マニラに戻る。

本来の理想のコースは、午前中に、「マリベレス」を訪問し・・・・
出発地点から「死の行進」のコースを辿って、今日の午前中に訪れた、捕虜収容所のある終着地である「オドネル」を午後に見学すると、非常にわかり易かったと思うが・・・・
どうして逆のコースになったのだろう?(苦笑)

午後8時、市内のレストランで夕食・・・

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ツアーの皆さんと一緒に食事をするのは今晩が最後となる。
ツアーは明日、コレヒドール島を観光し、明後日、帰国する。
拙者は明日のコレヒドール島観光には参加せず、皆さんより1日早く明早朝に帰国する。
ジャーナリストの“タカヤマさん”さんから「何かあったのか?」と心配されてしまったが・・・(苦笑)
当初からの予定なのである。
いつもは最後まで参加するのだが、今回は親父が一人で留守番するのが寂しくてどうしようもないらしいので、やむなく1日早く帰国することにした。
ツアーと一緒だと、成田でもう1泊しないと帰宅できないので、帰宅が5月5日になってしまうのだ。(涙)

参加者の某氏から旅費について個人的に質問された。
拙者の旅費は、ツアーの料金とは殆ど変わらないのである。
某氏が「それはありえないだろう」と言う。
1泊分のホテル代と、明日のコレヒドール島観光の費用、明日の朝食から帰国の日の朝食までの4食・・・
これらを差し引いたら、かなり旅費は安くなるはずだという。
しかし、明朝は、午前4時ごろにはチェックアウトして空港に向かわねばならないので、多分、旅行社のほうで送迎車とガイドを用意しているだろうから、その分と相殺になるのではなかろうかと思っていた。
「それでも、安くなるはずだけど・・・」と言われた。(苦笑)
それに、航空券も一日早く一人で乗るから、団体料金とは違って値段が高くなり、それでツアー料金と差のない金額になったのではないか・・・と言ったら・・・(苦笑)
「いや、それもあり得ない。団体だろうが個人だろうが、このツアーの航空券は値段が同じはずだ」とおっしゃる。(唖然)
う~ん・・・そう言われちゃうと、ちょっと気になる・・・(大笑)

ホテルに戻り添乗員に確認したら・・・
送迎は予定にはないので、一人でタクシーでもつかまえて空港へ行ってくれとのこと。(唖然)
「送迎は・・・ない?」(大汗)
午前4時に、そこらのタクシーを拾って乗ったら、強盗してくれと頼むようなものである。(大汗)
運良く(笑)、まともなタクシーを拾えたら300ペソ(800円弱)くらいで空港へ行けるかも知れないが・・・
身の安全を考えたら、ここで冒険はしたくない。(大笑)
ホテルに頼めば、契約している運転手なので、まず安心だろうが、3倍もの高額である。
う~ん・・・約2400円のタクシー代・・・自腹である・・・(涙)
しかし、安全を考えたら已むを得まい・・・
フロントに午前4時に送迎してくれるよう頼む・・・(大涙)

時刻は午後10時・・・・
明日は午前3時には起床である・・・(涙)
さっさと寝る!(大笑)
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