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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
57歳
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)

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「ドラグ」と「ブラウエン」
次に向かったのは「ドラグ」という場所・・・

途中で見かけた家・・・
バスの中から撮影したので、うまく撮れなかったが・・・(苦笑)

098_convert_20150827103545.jpg

レイテ島は、2年前の台風のおかげで大被害を受けたが・・・
かなり復興が進んでいるようである。
屋根が飛ばされる被害が多いので、フィリピン政府は屋根に使用するトタン板を無償で支給したという。
というわけで・・・この家の屋根もピカピカ!
どの家も・・・こう言っては失礼だが、物置小屋に近いオンボロ住宅でも・・・屋根だけは銀色にピカピカに輝いているのである!(笑)
これに太陽の日差しが当たるから眩しいほどの輝きを放つ・・・
ちょっと周囲の景色にそぐわない感じだが・・・・(苦笑)
フィリピン人の逞しさを感じる・・・
あ~頑張ってるなぁ~と思うのである。
どこかの国(どこかの県人?)のように補償金だか補助金をもらってパチンコ屋に通うような連中とは出来が違うかも・・・(大笑)

午前8時半・・・「ドラグ」の「HILL120(120高地)」に到着!
10年前に、ここに一人で来たことがある、懐かしい場所・・・

100_convert_20150827104801.jpg

丘の麓に真新しい看板が・・・
おお!なんとわかり易い標識か・・・
「津波の避難場所の指定」をしているようだ。

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10年前に来た時は、このような碑はなかったと思うが・・・
米軍の記念碑らしい・・・


ATOP THE HEIGHT OF THIS HILL 120, BLUE BEACH, DULAG, LEYTE, PHILIPPINES AT 1042 A.M. 20 OCTORBER 1944, ONLY 42 MINUTES HAD ELAPSED SINCE THE FIRST ASSAULT TROOPS OF THE 3RD BN 382D INFANTRY , 96TH DIVISION OF THE AMERICAN FORCES OF LIBERATION HAD LANDED 1ST LT. CLIFFORD W. MILLS RAISED THE AMERICAN FLAG IN PHILIPPINES SOIL AFTER IT HAD BEEN LOWERED AT BATAAN ON 9 APRIL 1942 FLOATING HIGH AND PROUD WAS TANGIBLE PROOF THAT THE AMERICANS HAD MADE GOOD THEIR PROMISE TO THE FILIPINOS.

(碑文より)



この「HILL 120(120高地)」の麓に日本の慰霊碑がある。
10年前と変わらず綺麗なまま建っている。
いや、以前より綺麗になっているかも・・・(笑)

110_convert_20150827204554.jpg 109_convert_20150827204640.jpg


レイテイ島 戦歿者慰霊碑

7-5-37
比島に眠る
  勇者たちに捧ぐ

平成16年3月15日
7-3-37
秋田市山王 佐々木辰雄
秋田市川尻 川村 暢



「レイテイ島」という表記が気になるところですが・・・(笑)
この地区では、京都の第16師団・歩兵第20連隊第3大隊が米軍と戦い全滅したという。
この碑を建立した方は秋田の人で京都の人ではない・・・
部隊名も何も書かれていないので、わからないが・・・秋田の部隊もここにいたのか?
建立者は遺族なのだろうか?
どういう関係の慰霊碑なのかよくわからない・・・
台座の部分に英文の碑文が嵌め込まれていた。


-CENOTAPH-
DEDICATED TO CONSOLE ALL SOULS OF FILIPINOS, JAPANESE AND AMERICAN WHO PASSED AWAY IN LEYTE DURING WORLD WAR Ⅱ.
SWORN THAT THE SAME TRAGEDY AND MISTAKE SHOULD NEVER BE REPEATED.
PRAYER FOR THE TRUE WORLD PEACE AND FRIENDSHIP FOREVER.
THE GENEROUS ARRANGEMENT AND THE PERMISSION BY HON. MAYOR MANUEL "BOY" SIA OUE DULAG, LEYTE, PHILIPPINES ARE SINCERELY APPRECIATED.
JANUARY 08, 2003
CONTRIBUTED BY:
MR. SASAKI TATSUO AKITA CITY JAPAN
MR.NAGAMINE KATSURO NAGANO KEN



こちらの英文のほうには「勇者たち」などという文字はない・・・(汗)
とにかく「過ちは繰り返しませぬ」・・・という言い方である。
まぁ、こう言っては失礼かもしれないが、妥当な“二枚舌”である。
この碑文の寄贈者2名のうち一人は長野県の人・・・
これまた、京都の人ではない・・・
英文のほうは平成15年、慰霊碑のほうは平成16年と、作られた年が違うので、以前は別の碑が建っていたのかも。
いずれにせよ、中心人物は、どちらにも名前が刻まれている秋田の方のようだ・・・

10年前に、ここに来た時に、偶然、「マニラ新聞」の記者と出会った。
彼も慰霊碑を訪ね歩いていた。
どうしても位置がわからない慰霊碑があるので教えてくれと頼まれ、教えてあげたのだが・・・
後でわかったのだが、日本政府からの依頼で慰霊碑の撤去の為の調査をしていたらしい。
教えて失敗したぁ~と後悔した・・・(笑)
その後、彼は新聞社を辞めているようだが・・・今はどうしているのだろう?

ここに10分程度いて・・・次に向かう・・・・

その途中で、日本軍人の慰霊碑がある場所に立ち寄る。
ちょうど我々が通る道路の側に建っていた・・・
ここの地名は、拙者は知らない。
こういう慰霊碑があることも今回初めて知った。

111_convert_20150827214505.jpg

「CAPT, ISAO YAMAZOE SHRINE」と書かれている鳥居・・・
ヤマゾエ・イサオ大尉の廟・・・ということらしい。


記念碑
第2次大戦の傷跡が今なお残り住民の反日感情も根強いレイテ島ドラグ市を日本軍が占領中に公平で友好的な態度を貫き市民の信望を集めた日本兵山添勇夫陸軍大尉並びに勇士達の遺徳を偲び記念碑を地元の人々の手で建立された
1943年4月18日この地点で戦死された

出身地 京都府与謝郡岩滝町石田

寄贈者 坂本■計
      河野アメリア



碑文によれば、山添大尉は、ここで戦死されたそうだが、昭和18年のことらしい・・・
米軍がレイテ島に上陸したのは昭和19年である。
米軍が来る前に、ここで戦死したのか?
フィリピンゲリラに殺されたのか?
それにしても、地元のフィリピン人が「記念碑」を建てたというのには驚いた。
添乗員の“アサダさん”は、以前にもこの地を訪れたそうだが、その時より碑が立派になっているとか・・・

115_convert_20150827221518.jpg (山添大尉)

次に向かったのは、「ブラウエン」・・・・
ここは平坦な場所で、飛行場があった。
この飛行場の争奪戦が行なわれた激戦地である。
「ブラウエン北飛行場」があった場所にある慰霊碑をお参りに行く・・・・

127_convert_20150827224148.jpg

あれ?・・・この場所には、10年前に来たことがあるような気がする・・・
周囲の景色が、少々変わっているが・・・(10年も経っているんだから当然だ・・・・笑)

128_convert_20150827231142.jpg (現在)
PICT4819_convert_20150827230115.jpg (10年前)

電信柱と街灯の位置関係から、やっぱり、10年前に来たのはここだよなぁ~(苦笑)

その時に、ここにあった慰霊碑は高千穂空挺隊の供養碑と大阪府遺族会が建立した慰霊碑・・・
風の便りでは、撤去されたと聞いていたので、今は更地になってしまっていると思っていたのだが・・・
これらの慰霊碑は撤去され、今は静岡県関係の「平和之碑」が新たに建立されていた。

PICT4813_convert_20150828133813.jpg(10年前)
125_convert_20150828135256.jpg(現在)


平和之碑
静岡県知事 石川嘉延

日比両国の永遠の平和と繁栄を祈念し建之

戦後60年 2006年1月
静岡県議会英霊にこたえる議員連盟

(碑文より)



どうも日本人というのは「平和」という言葉が好きなようで・・・(大笑)
平和!平和!平和!・・・・である。
正直言って、ここで何があったのか、どういう部隊が戦ったのか、どのくらいの戦死者が出たのか・・・
そういうことを記してもらいたいのだが・・・
当時の“ものさし”で計れば、「よく頑張りましたね。御苦労様です」ということになる。
これだけでは、「顕彰碑」になってしまうかもしれないが・・・(苦笑)
その次に、日本、米国、フィリピンの戦死者、犠牲者への追悼の言葉で、最後に「平和」を祈ることで「供養」「慰霊」ということになると思うのである。
いきなり「永遠の平和を!」って言われたんじゃ、戦没者は何のことやらわからないと思うんですけど・・・(大汗)
まぁ、「平和」と言っておけば無難だけど・・・・(大笑)

左の碑が「主碑」で・・・・
「右の碑は何だろう?」とツアー参加者・・・
慰霊団が来るたびに、ここにプレートを貼り付けているようである。
こういうやり方で、定期的にお参りに来ていますというのを残すのは良いことだと拙者は思う。

121_convert_20150828174246.jpg

時刻は午前8時半・・・・・
次に向かったのは、もう一つの「ブラウエン飛行場」跡・・・・
ブラウエンには3つの飛行場があったという。
多分、東にあった「サンパブロ飛行場」ではないかと思うが・・・
拙者は、ここは初めてである。
小学校の敷地内に碑があるとのこと。

131_convert_20150829095026.jpg

この小学校の敷地内に「第114飛行場大隊終焉の地」の木柱が建っていた。
文字が消えかかっていて読みづらいが、平成13年に建立されたようである。
木製なので、そのうち文字も完全に消え、朽ち果てて消滅してしまうだろう。

129_convert_20150829102642.jpg 135_convert_20150829102940.jpg

「飛行場大隊」とは航空機の整備や補給、飛行場の警備を担当した陸軍の部隊である。
第114飛行場大隊は、満洲の牡丹江で昭和19年に編成され、フィリピンに派遣された部隊。
兵力は350名程度だったらしい。

138_convert_20150829105804.jpg 137_convert_20150829105546.jpg
(小学校の前の道)

どのあたりに飛行場があったのだろう?
もしかしたら、この直線の道が、当時の滑走路跡か?

校長先生など、先生方に挨拶し、ちょっと教室を見学させてもらう。(笑)
教室の中に生徒が一人だけいた・・・
ん?・・・・どういうことだ?(笑)
声をかけてみたら「今日は学校はお休みだ」と言う。
へ?・・・じゃぁ、なんで君はここにいるの?(大笑)
補習?(笑)
彼は、大人しく椅子に座ったまま、じっと黒板を見ていた・・・
わからん・・・さっぱり、わからん・・・(苦笑)
「ちょっと教室内を見せてね」と言ったら、頷いた・・・
口数の少ない子だが・・・まぁ、いきなり“外国人”に遭ったら、こういう対応になるよな・・・
拙者が彼の立場なら、教室から逃げ出すに違いない・・・(大笑)

136_convert_20150829112214.jpg 139_convert_20150829111930.jpg

140_convert_20150829113112.jpg

教室の壁には、ホセ・リサールの肖像画が貼られていた。
フィリピンの学校には、必ずホセ・リサールの銅像や肖像画がある。
日本で言えば・・・二宮金次郎に当たるか?
最近では、日本の小学校では二宮金次郎の銅像を見かけなくなったが・・・
ちょっと日本はフィリピンを見習うべきかも・・・(苦笑)
文科省が悪いのか、日教組が悪いのか・・・

なぜか、ここでの時間がやたらと長い・・・・
ガイドは校長先生たちとオシャベリしてるし・・・
他の参加者は、トイレを借りに行っているのか、なかなかバスに戻ってこない・・・

というわけで、バスのところに集まった子供達とオシャベリして時間を潰す・・・(笑)
やたらと積極的に声をかけてきた少年がいた。
ここの生徒だと言う・・・
で・・・向うのほうから、ちょっと太目のオバチャンが歩いた来た・・・(笑)
彼のお母さんだそうで、しかも、この小学校の先生だと言う。
なので・・・このお母さんに「グッドモーニング!」と挨拶したのだが・・・・
キッ!と自分の子供を睨んで校内に入っていった・・・(大汗)
かなりご機嫌斜めである・・・
何で?・・・・???
「もしかして・・・お前、何かしたんじゃないか?お母さんが怒っているようだけど・・・」
「ん?何もしていないよ」と少年はニヤニヤしている。(笑)
「いや、お前、何かしたろう?怒ってるもん!お母さん・・・・」
「いやぁ~・・・・」と、またもやニヤニヤ・・・
「あのね、この子は僕の妹!」と少年・・・
あっ・・・こいつ、話をそらしやがった!(大笑)
「お前、ちゃんと勉強しているの?」
「・・・・・」
周囲の子供達がヤンヤ、ヤンヤ・・・どうも、彼をからかったようである。(笑)
少年は、一瞬、ムッとして、周囲の子供達に何か言ったようだ・・・(笑)
「ちゃんと勉強しろよ」
「イエス・サー!」(ニコニコ・・・)
本当に、調子のいい奴だ・・・(苦笑)
日本でもフィリピンでも、どこの国でも・・・子供は可愛い・・・(笑)

このブラウエンには3つの飛行場があったらしいが、拙者が10年前に来た時に訪れた場所は、ここではない・・・
第26師団の卒塔婆などが建ち並ぶ場所に行ったのだが・・・・
あそこが「サンパブロ飛行場」跡だと思っていたのだが・・・
飛行場は広いからなぁ~
ここもサンパブロ・・・あそこもサンパブロだったのかも・・・(苦笑)
あれは、どの辺りだったろうか?
フィリピン人の女性ガイドに尋ねてみたが、よくわからないようで・・・
「たぶん、この近くだと思います」と言う。
「そこには行かないのか?」と尋ねたら「あ~あそこは台風で何もなくなってしまいました」と言う。(汗)
怪しい・・・どうも、その言い方は怪しい・・・(苦笑)
過去の経験から言うと、フィリピン人のガイド、特に女性のガイドというのはプライドが高いのか「知らない」とは滅多に言わない。
「知らない」と言う代わりに適当な理由をつけて平然と誤魔化したり嘘をつく・・・
「卒塔婆が建ち並んでいる場所」と言ったら首をかしげていたのだから、正確な場所を知らないのだと思う。
にもかかわらず、「何も無くなっっています」と言い切るというのはおかしいだろ?
「近いのなら、そこへ行く事はできないのか?何も無くてもいいから」と言ったら無視された・・・(唖然)
「さぁ、次に行きま~す!バスに乗ってください!」・・・である。
やっぱり、知らないんだ・・・
誤魔化したな・・・
これだからガイドといっても信用できないのである。(怒)
特に戦跡巡りの場合は・・・・
過去に何人かのガイドに会っているが、比較的、誤魔化しや嘘が少ないのは“ステラさん”なので、個人旅行の時は、必ず彼女をガイドとして使うことにしているのである。
他のガイドは、しょっちゅう適当に誤魔化して御茶を濁すから使えない・・・(苦笑)
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旅行 | 10:30:47 | Comments(0)
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