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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
56歳
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)

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「サラクサク第2峠」に登る
一旦、途中まで戻ってから「サラクサク第2峠」に登ることとなる・・・
その途中・・・
山道にバイクを止めて何やら話しこんでいる若い連中に遭う。
我々のガイド役を務めている高校生の“アンディ”が彼らに我々のことを説明・・・
若者連中の中の一人が握手を求めてきた。
「バランガイ・キャプテン」だという。
「バランガイ」とは、フィリピンの行政区分の最小単位だから・・・日本でいうと部落、集落、村、地区・・・にあたるだろうか?
つまり、彼は「区長」もしくは「村長」ということになるかな?
拙者よりどう見ても10歳以上は若く見える。
「どこのバランガイのキャプテンなの?」と英語で尋ねたら、山の向うを指さす・・・
え?・・・ここから更に山奥に「村」があるのか?(唖然)

拙者は何度も「サラクサク第2峠」には登っているので、一人で行く事も可能だが・・・
毎回、村の中から「案内役」を出してもらって、毎回2名を雇って山に登ることにしている。
理由は、このように突然、現地人とバッタリ会った時のための対策なのである。
見知らぬ“外国人”が一人でウロウロと山中を歩いていたら怪しいでしょ?(大笑)
逆の立場で考えれば、当然、そうなるとおもうが・・・
しかも、山といえども、誰の土地かわからないわけで・・・
勝手に立ち入ったらトラブルの元である。
しかも、拙者は現地語が全く話せないので、英語で説明するしかないが、その英語が通じるかどうか・・・(大汗)
というわけで・・・現地人を同行させるのである。
ガイド兼ボディーガードである。(大笑)

最初、怪訝そうな顔をしていた彼らもニコニコ顔になり・・・
「気をつけて!」
「おお!サンキュー!」(笑)
フィリピン人のこういうフレンドリーなところが拙者は好きである・・・(笑)

まもなく子牛2頭と鉢合わせ・・・
以前は、滅多に牛に出会うことがなかったが、最近は村も少しは豊かになったのだろうか?(笑)
誰かが牛を放牧している・・・
我々に興味津々の子牛が、こちらに近づいては逃げ、また近づいては逃げ・・・を繰り返す。
そのうち、1頭が親牛の元に“報告”に向かった・・・

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まもなく、草むらから親牛が出てきて、我々の行く手を遮った・・・
「あの・・・急いでるんですけど・・・」(汗)
子牛め・・・親に何と“告げ口”したのか知らないが・・・
親牛はなぜか拙者を威嚇するのである・・・(大汗)
「何もしてねぇって!俺は何もしてねぇよ」(大汗)
幸いにも親牛はロープで繋がれていたので良かったが・・・
そうでなけりゃ、突進してきそうな怒り方である・・・(大汗)
「おい!アンディ!何とかしろ!」(大笑)
「虎の威を借る狐」ならぬ「親の威を借る子牛」・・・・(笑)
2頭の子牛は親にピタリと寄り添って、すまし顔で、こちらを見ている・・
「お前さぁ~・・・親に何て言ったの?」

ようやく“危機”を脱し・・・(大笑)
「サラクサク第2峠」に向かい登山を開始!(喜)

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右の写真の正面が「サラクサク峠」の「アキ陣地」がある日本軍名「天王山」・・・
この「天王山」には歩兵第39連隊の乾(いぬい)大隊が陣地を構築していた。
乾さんは、確か中尉だったと思うが・・・
フィリピン到着前に輸送船が撃沈され、大隊の大半が海に沈んでしまい大隊長も戦死、そのため、中尉の乾さんが大隊長となって再編成された部隊(約100名)である。(これを通称「海没組」と呼ぶ)
米軍にさんざん叩かれ80名までに減りヘトヘトになって後退してきた祖父は、この乾大隊に“収容”され、一息つく・・・
階級では祖父は少佐、乾さんは中尉なので・・・
その後、乾大隊は祖父の指揮下に入った。

乾さんは、20代半ばの若い人だが、かなりの人物だったようで・・・
死を覚悟して必死に「天王山」に陣地を構築していた。
当時の参謀は、ちょくちょく命令を変更する。
陣地が出来上がった頃に「陣地転換」(陣地移動)の命令を出し、部隊を移動させるのである。
とにかく一貫した命令が出せない参謀が多い・・・腹が据わっていないと言うか・・・
これを繰り返されると、現地の兵士たちは、もう真面目に陣地を造ろうなんて思わなくなる。
「どうせ出来上がった頃には別の場所に移動させられるんだろう」と・・・・
ところが、そういう時に限って米軍の攻撃を受け、易々と全滅したりするのである。
それもこれも、不出来な参謀のせいである。
そのような目には遭わせたくないと、他の部隊の指揮官たちから異例の上申が司令部に行なわれている。
「本人は死を覚悟して陣地の構築をしているので、乾中尉を絶対、他の場所へは移動させないで欲しい」と・・・
元々は第1大隊第2中隊の中隊長だった「中尉」なのに、再編成された大隊の「大隊長代理」として「乾大隊」と戦史に残るくらいなのだから、それだけでも、どういう人物だったかわかろうというものである。

「天王山」の争奪戦で、乾中尉は戦死した・・・
敵に包囲され、捕虜になる恐れがあったため自刃したとも言われているが拙者は真相は知らない。
祖父から聞くのを忘れた・・・(涙)
拙者が中学生の頃だったと思うが・・・
祖父が戦死した乾中尉のお母さんに、乾さんの戦死の状況を報告に行った話を聞いたことがある。
確か、姫路にお住まいだったと思う・・・
乾さんは母一人、子一人の「母子家庭」だったと記憶している。
乾さんのお母さんは祖父の話を聞いても、一人息子を亡くした悲しさより、戦死したのに二階級特進しなかったことが不満だったそうで、かなり祖父を責めたらしい。
「いくら説明してもわかってもらえなくてなぁ~」と祖父は言っていた。
お母さんの言い分では、立派に戦って戦死したなら二階級特進していいはずで、そうなれば少佐という階級になったはずである・・・とのこと・・・
「一人息子を失ったことより、階級のほうを気にするとは・・・あのお母さんには参った」と祖父が言ったことを覚えている。
お母さんは「軍国の母」だったのかもしれないが・・・
二階級特進ということで、息子の死は無駄ではなかった、お国の為に役に立ったのだと思いたかったのではなかろうか?
なんとも寂しい気がしたことを記憶している。

この「天王山」に米軍が攻撃を仕掛けてきたのは昭和20年3月初旬・・・
ここを攻撃したのは、祖父の部隊をカバリシアンで散々叩いて追いかけてきた米第32歩兵師団の米第127歩兵連隊(約4000名)であるが、1ヵ月の間に何度も山頂を取ったり取られたりを繰り返すという激戦となる。
米第127歩兵連隊は大隊長、中隊長のほとんどが戦死し、戦闘に耐えうる兵力が1,500名程度までに減少・・・・
ついに米第128歩兵連隊と交替することになった。
4月1日に「天王山」は完全に敵の占領するところとなったが、この日、米第128歩兵連隊連隊長のヘティンガー大佐が戦死している。
この時点で乾大隊も実質の玉砕となった。(終戦時に生き残っていたのは8名のみ)

右の写真の左端の窪んだところが「サラクサク第2峠」の頂上である。
左の写真は右の写真に繋がっているのだが・・・(パノラマ写真が撮れなかったので、こうなった)(苦笑)
左の写真の中央が「サラクサク第2峠」の「フユ陣地」の日本軍名「高田山」である。
「高田山」は、戦車第10連隊の高田中隊(佐藤さんの旧姓)51名が守っていた山だったので「高田山」と名付けられた。
祖父は、この「高田山」まで後退し、高田中隊を指揮下に入れ、ここを陣地として、追いかけてきた米軍と戦ったのである。
この写真を撮った場所は、ちょうど戦車第10連隊の蒲田中隊がいた「蒲田山」あたり・・・
我々は、この蒲田中隊が斬り込みのため通った道を歩いて「サラクサク第2峠」に向かう・・・

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正面に見える山が「フユ陣地」の「高田山」・・・
「サラクサク第2峠」頂上から登る。
初めてここに来た時に、このあたりで米軍の手榴弾を見つけた。
当時は、この山も「昼なお暗い密林」と言われるほどの木々に覆われていたが、今では頂上は禿山である。
70年前の米軍の攻撃がいかに激しかったか・・・
70年経っても森は再生されない・・・
山の形も、猛砲爆撃で形が変わってしまっているという。

「アキ陣地」の「天王山」を攻撃する前に、米軍は、この「高田山」を攻撃している。
写真の右側の斜面を這い登って攻撃を仕掛けてきたようであるが、祖父たちは、これをうまく撃退した。
その後も米軍は攻撃を仕掛けている。
三列横隊になって、「高田山」を銃を撃ちながら登る姿が「天王山」ふもとの日本軍陣地から良く見えたという。
ということは・・・そのときの米軍の攻撃ルートは、今、我々が登っているルートかも・・・

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「高田山」の頂上に到着!・・・祖父の陣地跡である!(喜)
写真の左奥・・・霞がかかってよく見えないが・・・あの辺りが「カバリシアン」・・・
あそこから祖父たちは、敵の猛砲撃を受けながら、拙者の後方に見える山々を移動して、ここまで後退してきたのである。
拙者のすぐ後方に見える山が「天王山」・・・・

拙者が立っている場所の少し左の斜面に砲兵観測所の壕があった・・・
この山の斜面にはいくつもの横穴壕があったそうだが、今ではその痕跡は皆無である・・・
すべて潰れているため、何の痕跡も無い・・・
当時は素掘りの横穴だったのだから仕方がないかも・・・土も柔らかいし・・・
ここに砲兵観測班がやって来たときの話しを生前、佐藤中隊長から聞いた事がある。
多分、やってきた砲兵は、野砲兵第10連隊の将兵だと思うのだが・・・
観測器材を担いでやってきて、早速、観測を始め、後方の砲兵陣地に試射の諸元を伝えた・・・
1発だけ、試射をする・・・
と・・・ちょうど、その1発が、「天王山」の斜面を登っている米兵の一団のど真ん中に命中!
米兵が空高く吹き飛ぶ姿がここから見えたという。
まさしく、その場所に拙者は今、立っている・・・
「あの正確さには驚いた」と佐藤中隊長・・・
すでに日本軍は弾薬の補給も絶え、所有する砲弾も少ない・・・
貴重な砲弾の1発を試射に使ったら、よりによってど真ん中に命中である!
「日本の砲兵はたいしたもんだと感心したねぇ~」と言う。

佐藤中隊長の話によると、自分に真っ直ぐ向かってくる砲弾というのは音がしないそうである。
ヒュルヒュルヒュル~と飛翔音がする砲弾は、自分の頭上を通過する弾か、自分の位置より離れた場所に着弾する弾なのだそうである。
じゃぁ、どうしてわかるのか・・というと・・・
これは勘しかないそうである。(苦笑)
「ん?何かおかしい・・・来る!来るぞ!」と思い、連隊長である祖父を後ろからタコツボに突き飛ばし、その上から覆いかぶさったら、数メートル離れたところに敵の砲弾が着弾したことがあったという。
爆発の時に飛び散った土が佐藤さんの首にめり込んだそうでそうで・・・
「あの時の痛みは今でも忘れられない」と仰っていた・・・
砲弾の破片じゃなく土で良かった・・・

日本兵にも米兵にも言えることだろうが・・・
勘が働かないと、砲弾が自分のところに飛んでくることには気が付かない。
日本軍の試射で吹き飛んだ米兵達は、その瞬間まで何も気付かなかったのだろう。
身を隠すこともなく悠然と歩いていたら・・・突然プツンと記憶が切れた・・・という感じか?
本人は自分が死んだことすら気が付いていないかも・・・・
勘の良し悪しで生死が分かれる・・・か・・・・

ここ「高田山」に座って景色を見ていると、日本兵達の姿が見える・・・
変な話なのだが・・・(大汗)
タッタッタッと銃を片手に拙者の目の前を横切る日本兵が見える・・・
拙者の右手前方には機関銃陣地があったのだが、そこに向かって弾薬箱を背にした日本兵が走っていく後ろ姿が見える・・・
「天王山」の北斜面に、へばりつくようにしながら頂上に向かって突撃をする何百という日本兵の姿が、チラチラと見える・・・
暑さのせいで頭が少しおかしくなったのか?(苦笑)
彼らは自分が戦死したことに気が付かないまま、今も戦っているのだろうか?
拙者は、ガダルカナル、ニューギニア、サイパン、グアム・・・等々、多くの戦跡を訪問しているが、日本兵が走り回っているのを見たことは一度もない・・・(汗)
まるで映画のワンシーンのように鮮明に見えるのだが・・・それは、ここだけでしか見えないのである。
他の戦跡では全く何も見えない・・・不思議なのだが・・・
思い込みが激しすぎるせいなのかもしれない・・・・
だから・・・祖父の指揮下で戦った将兵達を見に何度でもここに来てしまうのである。

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「高田山」から見た「天王山」・・・
山の中腹のように見えるあたりに崖崩れの跡のようなものが見える。
崖崩れのように見える場所には、大きな横穴があった。
戦後間もない写真に写っていたが、今はその横穴はない。
崖崩れのように見えるのは、その横穴の崩落した痕跡である。
その辺りに、わずかに「ビリヤ・ベルデ道」の痕跡が一部だが残っている。
祖父が歩いた道である・・・・
「天王山」にも登りたかったが、ちょっと時間が無いので、今回、ご案内するのは諦めた。

「天王山」の争奪戦は、写真の右側・・・緑の深い斜面を日本軍がよじ登って攻撃を仕掛けている。
その斜面と山の麓には日本軍の横穴陣地がいくつもあった。
今はその痕跡は残っていない・・・
山頂を占領された日本軍としては、「馬乗り」された格好になるため、なんとも落ち着かなかっただろう。
自分の壕のすぐ上から米兵のおしゃべりが聞こえてくるんだから・・・
最終的には、この「天王山」の麓で頑張っていた日本軍も玉砕してしまった。

「高田山」の頂上には、も「タコツボ」がいくつも残っている。
それを見て“デグチ支局長”が驚いていた。(笑)

この「高田山」を中心とした「フユ」陣地は4月11日には完全に米軍に占領されてしまった。
この時、ここを攻撃した米第128連隊第2大隊の記録によれば・・・
この「フユ」陣地では223名の日本兵の死体を確認したそうで、137個の横穴陣地にも日本兵を封じ込めたという。
つまり、壕の入口を爆破して塞ぎ、生き埋めにしたということか・・・
ここに陣を構えた祖父の連隊は、固有の残存兵80名に、佐藤中隊長率いる51名が加わり、さらにいくつもの部隊が祖父の指揮下に配属され、500名ほどまで兵力を回復して米軍と戦ったが・・・・
祖父がここを撤退する時には、生き残りは30名しかいなかったという。
そのうちの約半数が負傷兵である。
祖父たちは「サラクサク第1峠」に向かい、そこでまた戦うが、我々がこれから第1峠までは行くのは無理・・・
もし行こうとするなら1日がかりになってしまう・・・
時刻は11時半・・・・
もう戻らねばならない・・・

“オマリオさん”の家に戻る途中、「サラクサクの慰霊碑」に立ち寄りお参りする。

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この碑は昭和53年5月20日に、戦車第2師団の戦友会を中心とした生還者達によって建立された。
碑文は日本語、英語、タガログ語の3ヶ国語で、マニラで大理石に刻まれた。
前回、この碑文が消えかかっていたので拙者が修復したのだが・・・
今回確認したら、もう消えかかってしまっており、前回の修復は無駄骨であった・・・(大涙)
今回、気が付いたのだが・・・この碑文のプレートを留めている金属のピンが1ヶ所抜き取られており、もう1ヶ所は半分壊されていた。(驚)
金属はカネになるので、どこかのバカがやりやがったのだろう・・・(怒)

この「サラクサク峠」での米第32師団の戦死者は825名、重傷者を含めた損害は3200名だと言われている。
これに対して日本軍の損害は、昭和20年3月から5月末(戦闘の終了=米軍の占領宣言)までの3ヶ月間の戦死者は4600名と言われている。
が・・・日本軍の損害は、あくまでも推測、概算であろう。
そこまで正確にカウントしていたわけがない・・・
ここに投入された戦車第2師団の参加兵力は約4000名と言われている。
祖父の連隊のように戦車第2師団に配属になった兵力は、4400名・・・・
総数で8800名という説もあるが、根拠がハッキリしない。
多くの補充兵が、現地に到着する前にジャングルの中に雲隠れして逃げたという話を聞いている。
彼らが、その後、生きて帰れたか、それともジャングルの中でフィリピンゲリラに襲われ命を落としたか・・・・・
確たる記録は無いからわからない・・・

戦車第2師団ですら、生還率は20%程度である。
配属部隊に至っては、ほとんどが玉砕して壊滅している。
祖父の部隊ですら生還したのは11名だけである。
そう考えると、投入兵力と戦死者の比率が合わないのである。(汗)
8800名の投入で戦死者が4600名では、生還率が50%になってしまうのだが・・・・(大汗)

この碑が建っている丘は、“オマリオさん”の家のすぐ目の前にある。
ここは日本軍名「サル陣地」だというのだが・・・
拙者の勘では、「サル陣地」ではないと思う。(汗)
この辺りの正確な陣地配置図は作製されていない。
略図だけなのだ・・・・
戦車第10連隊の蒲田中隊長に生前、確認をしたら、氏も「あそこはサル陣地じゃないと思う」と仰っていた。
なぜならば、蒲田中隊は2度にわたり「サル陣地」に応援の部下を派遣しているからである。
戦車第2師団司令部から「サル陣地に応援部隊を派遣せよ」の命令を受け、部下を派遣し、陣地に到着して声をかけたら相手は米兵だった!(唖然)
一斉射撃を受け、部下の多くが戦死した・・・
これを師団司令部に報告したが、司令部では「米軍に占領されてはいない。ここに伝令が来て応援を要請しているんだから、もう一度、兵を派遣せよ」と命令・・・
再度、部下を派遣したが、陣地はすでに米兵が占拠しており、今度もまた撃たれて多くの部下を死なせてしまった。
結果からいうと、師団司令部の言っている「サル陣地」の位置と、第一線の蒲田中隊の言う「サル陣地」が全く違う場所だったのである。
「現場に来ず、確認もせず、地図だけ見て命令をするからこういうことになるんだ!」と怒っていた。
「あのいい加減な命令さえなければ、多くの部下が死なずにすんだのに・・・」とも言っておられた・・・
蒲田中隊長は死ぬまで師団司令部を恨んでいたのである。
中隊長としては多くの部下を無駄に死なせてしまった悔しさが今も残っている・・・
そういうわけで、現場が混乱するほど陣地の位置が不明確なのである。
戦後、どこかの誰かが(本当は名前を知ってるけど・・・)「ここがサル陣地です!」と言ったが為に、それが定着している。
“声の大きな奴”に押し切られた形である。(汗)

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慰霊碑の丘から見た景色・・・(一応、2枚の写真は繋がっている・・・)(笑)
左の写真の中央、奥にある山に「サラクサク第1峠」がある。
その手前に見える一段平らに見える場所辺りが「スズメ陣地」だと思うのだが・・・
「スズメ陣地」は、向うからこちらに向けてかなり広い範囲にわたっていたようである。
右の写真の中央に道路が見えるが、あの辺りまで続いていたのではないかと思われる。
その「スズメ陣地」は、「高田山」を撤収した祖父が次に指揮を取った陣地でもある。
あの場所が「スズメ陣地」となると・・・この慰霊碑のある丘あたりは「東スズメ」もしくは「北スズメ」と呼ばれた陣地になると思うのだが・・・確証は無い・・・(涙)
左の写真の、一段平らになっている場所の脇にある尾根に登って、こちらを見たことがある。
そのときの印象では、この丘は、まるでライオンが寝ているような形に見えるのである。
「スズメ陣地」の北東に「シシ陣地」というのがあったのだが・・・
形からいうと、このライオンが寝そべっているように見える、この丘こそ「シシ」と名付けるに値するのだが・・・
これまた確証は無い・・・(涙)
生還者ですら、戦後20年も経って来た時、自分の陣地跡を確認するのに苦労したというのだから、拙者にわかろうはずもない。
しかし・・・あくまでも勘であるが・・・拙者の勘では、この丘は「サル陣地」ではない・・・(苦笑)

右の写真の中央、瘤のように見える場所が、さきほど我々が登った「高田山」、その右の頂上が平らな山が「天王山」である。

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慰霊碑の場所から、北西の方向を見る・・・
左の写真中央の青い屋根の建物がある場所が学校である。
その後ろに見える、ちょっと尖がった山が「ナツ陣地」である。
初めてここに来た十数年前は、もっと山頂は尖がっていたのだが、いつの間にか先端部が崩れてしまったようである。
元々は、もっと大きな山だったのではあるまいか?
米軍の砲撃や爆撃でかなり山が崩れてしまい、あのような形になっているような気がする。
尖がっている山頂のように見える部分は、実は山の真ん中が吹き飛ばされ、山の斜面の一部があのように見えているのではないかという気がする。
日本軍は北から「ハル(春)」「ナツ(夏)」「アキ(秋)」「フユ(冬)」と陣地名を付けていた。
その他には指揮官の名前や花の名前(「サクラ」とか「ウメ」)、動物の名前などを付けていた。
右の写真中央の赤い屋根の家が“オマリオさん”の家である。
その後ろの山の裾野が「ハル陣地」があった辺りである。

時刻は12時半を過ぎた・・・・急いで戻らねば・・・

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慰霊碑のある丘・・・・
う~ん・・・・この辺りの土地が売りに出ているから買えと“オマリオ氏”は言ってたのかな?
ここに家を建てて、「墓守」ならぬ「慰霊碑守」になれってか・・・(苦笑)

「オマリオ宅」に戻り、昼食・・・・
食後、“デグチ支局長”の取材・・・・
“オマリオ夫人”から「昔は日本から生還者がよく来て山に登ったが、今では鈴木さんしか、あの山に登る日本人はいない」と笑いながら言われてしまった・・・(照)
日本から小グループの慰霊団が時々来るが、「サラクサク峠」に登る人はいない・・・
時間の関係で、慰霊碑をお参りするのが精一杯なのである。
山に登るには村に一泊しなければ無理である。
また、戦友会の生還者たちは、もう高齢になってしまい、慰霊にも遺骨収集にも来る事ができない。
この村では、日米の戦闘と、日本軍が畑の農作物等食糧を奪った為に、餓死者も出たという話である。
その罪滅ぼしの意味もあって、戦友会では公民館を寄付したり、学校にオルガンを寄付したりと、来るたびにも何らかのカネも落としていったのだろうが・・・・
今は、そういう人もいなくなってしまった・・・
“オマリオ夫妻”は、当初から日本の慰霊団の為に、いろいろと世話を焼いてくれた方である。
「誰も来なくなって寂しくなった」と奥さんが言う。
もう30年以上も前に、よく来ていた生還者たちの名前もよく覚えていた。
その記憶力の良さには驚いたが・・・・
これらの方々は、もう既に他界されている・・・

戦時中のことを知っている村の高齢者を紹介してくれるよう事前に拙者から“オマリオ夫人”に頼んでおいたが・・・・
残念ながら、該当する人物はいないそうで・・・・(汗)
どうもフィリピン人は長生きをしないのか・・・・お年寄りに会う事は滅多にいない・・・
この村で戦時中の事を知っているのは、今回、ガイドをしてくれたおじいさんだが・・・・
彼はマリコ村出身ではなく、戦時中は「サンニコラス」の近くに住んでいたそうである。
当時は、子供だったそうだが、その当時の思い出話を語ってもらった。
こういう時にガイドの“ステラさん”が役に立つ・・・(笑)
日本語と英語とタガログ語が出来るから・・・・

とりあえず、戦跡の訪問、戦史の説明、エピソード、現地人の体験談・・・と、拙者が考えていた“取材”は無事に完了!(大喜)
一応、これだけセッティングしましたが・・・・記事に出来ますかね?(大笑)
あとは、支局長の“腕”次第である・・・・(大笑)
支局長からは「鈴木さんと一緒じゃないと、あの戦跡は歩けなかったから、それだけでもかなりの収穫ですよ」と喜んでもらえた。
記事になろうとなるまいと、とにかく少しでも祖父達の戦いをわかっていただけたら、それだけでもありがたい・・・・
記事は適当なタイミングを見て、配信するとのこと。
共同通信社が配信する記事を、新聞各社が購入して掲載してくれないと、今回の取材は日の目を見ることはない・・・
さて・・・どうなりますか・・・(苦笑)

当初の予定から、少し遅くなってしまったが、そろそろ、おいとませねば・・・・
これから、更に北上する予定なのである。
“オマリオ夫人”には宿泊代と食事代を「謝礼」という形で、“デグチ支局長”から支払ってもらう。
拙者自身はは、ガイド料のような謝礼をいただかない。
そういうつもりも全くない・・・
その代わりに、経費はすべて社のほうで持ってくれるという。
謝礼以上の「厚遇」である・・・
いやぁ~、もう、感謝、感謝・・・である。
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