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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
56歳
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)

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「プンカン」に立ち寄る
昼食は「カバリシアン」から「サンニコラス」を経由して車で20分ほど引き返した「タユグ」という町にあるファストフード店で食べることにする。
この店には前回も来たことがあるので、知っている店のほうが気が楽である。(笑)

064_convert_20150727195904.jpg

で・・・・食後のデザートは・・・
“デグチ支局長”が近くの店で買ってきてくれた「ヤクルト」!(大笑)

065_convert_20150727200822.jpg

日本では「ヤクルト」をじっくり見たことなんてないので、何が書かれているかなんて気にもしませんでしたが・・・
「CURTURED MILK」って書いてある・・・
CURTURED MILK?
日本語にすると・・・「教養のあるミルク」?・・・「洗練されたミルク」?・・・「培養されたミルク」?(大笑)
ヤクルトって・・・どんな飲み物だ?・・・これ・・・
この「ヤクルト」は「ヤクルト・フィリピン」という会社が販売している。
ヤクルトの現地法人らしい・・・
住所は「Calamba, Laguna, Philippines」・・・・
ラグナ州のカランバに会社があるらしい。
ラグナ州のカランバと言えば、終戦時に投降した日本兵が収容された捕虜収容所があった場所である。
拙者の祖父も、この捕虜収容所に収容されていたのである。
あら・・・お懐かしい地名・・・(喜)

ここから30分ほど走り「サンホセ」まで戻る。
分かりやすく言うと・・・今回はY字に移動しているのである。
Y字の付け根のところがマニラで、そこから上(北)に向かい、Y字の左(北西)の枝に進む・・・
そこが「サンニコラス」「カバリシアン」である。
で・・・今度は引き返し、Y字のVの部分、つまり分岐点が「サンホセ」・・・
今度は「サンホセ」から右(北東)へ向かい上って行くのである。(これでわかるかな?)(苦笑)

067_convert_20150727215912.jpg (サンホセ)

ここから国道5号線を北上する。
この国道は、マニラから北部ルソンへ退避する日本軍や民間人が通った道である。
その国道5号線上に「プンカン」があるのだが、ここは町ではなく、小さな集落という程度の場所である。
で・・・この道路わきに慰霊碑があるので、そこに立ち寄ってお線香をあげようと思うが・・・
目印になるようなものもない場所なので・・・うっかり通り過ぎてしまうかも・・・
と・・・思っていたら、途中で道路工事にぶち当たってしまった!
で・・・迂回路を示されたが、これが田んぼの畦道のような狭くてクネクネとした道・・・
あらら・・・国道上を走っても見落としやすい慰霊碑なのに・・・
迂回路を走ったら、もっとわからなくなる・・・
得意のタブレットを使って、ナビの地図を表示し、現在位置を確認していたが・・・
なんと・・・このあたりから電波が入らなくなり、現在位置がわからなくなった・・・(涙)
万事休す・・・・である。
ウロウロ走り回った挙句、ようやく国道に戻る。
が・・・ここがどの辺りなのかがわからない!(大汗)
通り過ぎちゃったかも・・・・

「サンホセ」を出て1時間後・・・・迂回路を走ったため、かなり時間をロスしたが・・・
ん?見覚えのある景色・・・
「プンカン」である!
あった!あった!(喜)
通過してなかった!(大笑)
まぁ~いい加減な道案内・・・支局長に申し訳なし・・・
慰霊碑の所で車を停め慰霊をする。

080_convert_20150727224207.jpg

070_convert_20150727224446.jpg (『内藤大隊並金子中隊追悼之碑』)

(碑文)
私達は第二次世界大戦におけるフィリピン共和国 アメリカ合衆国 日本国 三国の不幸な犠牲者を此処にお祀りします
願わくは総ての世界の国民が手を携えて日日希望に輝き明日の幸を築き絶えることのない永遠の平和をもとめます
昭和55年1月吉日

大変失礼な言い方になるが・・・何を言っているのかサッパリ理解できない碑文である。
「内藤大隊」と「金子中隊」を追悼する碑のはずだが・・・
これら二つの部隊に関しては全く記載されていない。
これで「追悼」になるのやら・・・(大汗)

ちなみに「内藤大隊」とは、歩兵第10連隊第2大隊(内藤大隊)のことで、「金子中隊」とは独立歩兵第356大隊の第4中隊(金子中隊)ではないかと思うが、確証はない・・・
なにせ、部隊に関しては何も記されていないのだから・・・
「内藤」とか「金子」と言われても、どこの部隊かわからないというのでは「追悼」にならないのでは?

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(『鉄歩兵第十連隊比島戦没者追悼之碑』)

(碑文)
連隊本部
  通信中隊
  速射砲中隊
  連隊砲中隊
  作業中隊
第1大隊本部
  第1中隊
  第2中隊
  第3中隊
  第1機関銃中隊
  第1大隊砲小隊
第2大隊本部
  第5中隊
  第6中隊
  第7中隊
  集成第8中隊
  第2機関銃中隊
  第2大隊砲小隊
第3大隊本部
  第9中隊
  第10中隊
  第11中隊
  第3機関銃中隊
  第3大隊砲小隊
右の歩兵第10連隊は戦没者2942名
実に92%の多きに達しております
ご冥福をお祈りいたします
岡山バレテ会有志之建立  

碑に書かれている「鉄歩兵第十連隊」の「鉄」とは、姫路で編成された第10師団のことで、秘匿名(通称号)を「鉄兵団」と言った。
拙者の祖父の連隊も、この鉄兵団(第10師団)に所属する部隊である。
そういう意味でも、歩兵第10連隊は拙者にも縁のある部隊といえる。

ここ「プンカン」には、当初、拙者の祖父の部隊が配置された。
しかし、地形的に米軍の進攻を食い止められるような場所ではないことを進言し、結局、先ほど訪れた「サンニコラス」「カバリシアン」に陣地を転換することとなった。
第10師団の主力から遠く離れた場所に飛ばされたのである・・・(苦笑)
余計なことを言ったせいなのか?(笑)

米第25歩兵師団は北へ北へと逃げる日本軍と民間人を後ろから追いかけてくる。
これを食い止める最大の場所は、この先にある「バレテ峠」・・・
ここに第10師団主力が展開する。
このメインの防衛線の前面に前哨陣地を設定するのだが、その場所に「プンカン」を選んだのである。
米第25歩兵師団はハワイで編成された部隊で、ガダルカナル島で日本軍と戦った部隊である。
愛称は「トロピック・ライトニング」・・・部隊のマークは稲妻の図柄である。
その部隊が南から北へと日本軍を追い上げてくる。
そして、西から東に向かい第32歩兵師団がこの国道5号線を寸断するため進撃する。
それを食い止めることになったのは、我が祖父の連隊である。
陣地転換をしたが、結局は真正面から米軍と戦うことになったのである。

祖父が去った後の「プンカン」には、新たな部隊が配置された。
通称「プンカン守備隊」と呼ばれた部隊である。
兵力は約2000名、祖父の部隊(600名)の約3倍強の兵力である。
人数が多ければなんとかなると思ったのだろうか?
命令を下したのは第14方面軍の参謀だったらしい。
兵力より地形に問題があるから、ここはダメだと祖父は進言したのに、参謀は耳を貸さなかったようである。
こういうお粗末な“作戦”を立てる奴に限って、イザとなったらフィリピンを脱出して日本にいち早く逃げ帰るのである。
そして、戦後も生き長らえ・・・慰霊祭にも顔を出さず、生涯を終えるのである。
バカを見たのは命令に従い戦死した人たちということになる・・・
「上官の命令は陛下の命令」というなら、それなりによく熟慮して命令を出してもらいたいものだ。
天皇陛下に失礼であろう?・・・お粗末な命令を出しちゃ・・・

「プンカン守備隊」の指揮官は勤兵団(第105師団)の井上大隊長。
この守備隊の主力は鉄兵団(第10師団)の歩兵10連隊、歩兵39連隊、歩兵63連隊や野砲兵第10連隊から抽出された、いくつかの大隊や中隊なのだが、なぜか勤兵団の大隊長が指揮官なのである。
これが拙者には理解できない・・・
こう言っては失礼だが、“よそ者”の勤兵団の大隊長に全体の指揮をとらせるのか?
統一指揮を取らせるなら鉄兵団の部隊から指揮官を出させるべきではないか?
各種雑多な部隊で編成されている「プンカン守備隊」だが、主力は鉄兵団の部隊なのである。

結局、国道5号線を挟んで両側の丘に勤兵団の井上大隊と鉄兵団の内藤大隊が分かれて配置に付いた・・・
心情的に、そうなるのは当然かも・・・・

米第25歩兵師団の米第161歩兵連隊が内藤大隊の正面から攻撃を開始・・・
これに対して内藤大隊は必死の防戦をするが、陣地のある丘の最南端の「ネコ陣地」を放棄する。
これを知った小沼少将は激怒し、陣地の奪還を命ずる。
一歩も下がるな・・・がモットーの小沼少将の相変わらずの命令である。
鉄兵団司令部は歩兵第63連隊主力に反撃を指示するが、連隊主力が「プンカン」に到着した時には、すでに守備隊は撃破された後だったそうである。
内藤大隊長は生存者75名を率いて最後の突撃を敢行し戦死・・・
歩兵第63連隊は連隊長の独断で反転して撤退・・・
これにまたもや小沼少将が怒った・・・
この「プンカン」は、どうやっても地形的に守りづらい地形なのである。
モタモタしていたら、周囲から米軍が浸透し、丘ひとつ丸々包囲され殲滅されてしまうような場所なのである。
しかも、この「プンカン守備隊」の任務は敵の進撃を遅延させるはずなのだが・・・
陣地を取られたら取り返せ・・・では、遅延作戦にならないのでは?
一箇所だけでの損害ばかりが多くなり、敵の進撃を食い止める兵力がなくなってしまう・・・
そのあたりを考えて歩兵第63連隊の連隊長は独断で反転したのではあるまいか?

小沼少将の激怒に遭い、鉄兵団司令部は改めて歩兵第63連隊に反撃を命じた。
が・・・すでに戦線は崩壊・・・
大苦戦していた井上大隊も大隊長が戦死・・・
歩兵第63連隊には反撃の中止命令が出される。
2000名を擁した「プンカン守備隊」は約1ヵ月の戦闘で120名ほどに減り、撤退することとなった。
実質、壊滅である・・・
それでも、よく皆さんは頑張ったものである。
この不利な地形にもかかわらず・・・
かわいそうだと同情するより、よく頑張ったと褒めてやらねば・・・

小沼少将は、その後、さらに戦況が悪化したころ、さっさと日本に脱出した・・・・(唖然)
これは大本営からの命令による人事異動らしいが・・・・

この「プンカン」には、歩兵第10連隊関係の「追悼碑」はあるが、「プンカン守備隊」全体の慰霊碑はない。
なぜなのかは知らないが・・・
歩兵第10連隊の「追悼碑」の碑文を読むと、この地で連隊の92%が戦死したような誤解を受けてしまうが、実際は、ここから北のバレテ峠までを含め、さらにフィリピン到着前に輸送船と一緒に沈んだ将兵も含めての数字であろう。

“デグチ支局長”に戦史を説明し・・・さらに北上する。
途中、「バレテ峠」を通過するが、時刻は午後3時を過ぎているので、ここに立ち寄るのはマニラに帰る時にして、先を急ぐことにする。
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旅行 | 15:52:58 | Comments(0)
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