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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
56歳
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)

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「カバリシアン」へ行く
祖父の連隊がいた場所を祖父は「カバリシアン」と言っていたが、戦史の中では「サンニコラス」もしくは「サンタマリア」とも書かれている。
本当は、一体、どこにいたのやら・・・(汗)
その答えは15年ほど前に現地に来て初めてわかった。
当初、祖父は「サンニコラス」に連隊本部を置いていたようだが、ここから一本道を東に向かって後退・・・
途中に「サンタマリア」という集落があり、川に突き当たって対岸に「カバリシアン」という集落があった。
「サンニコラス」と「サンタマリア」は道路沿いにほぼ繋がっていて、一見しただけでは区別がつかない。
たぶん、そういうわけで、戦史によっては、この2つのどちらかの名前が使われているのだろう。

043_convert_20150724213808.jpg (サンニコラスからの道)

この写真の向こう側が「サンタマリア」、さらにその奥が「サンニコラス」・・・・
向うからこっちに向かって祖父は撤退し、米軍は、それを追って向うからこっちに向かって進撃してきた・・・

060_convert_20150724214250.jpg

道路はここまで・・・川で寸断されている。
当時もそうだったのか・・・それは知らない・・・(笑)
戦後間もない頃に撮影されたと思われる写真を見たことがあるが、そこには橋すら写っていなかった。
橋は戦闘で破壊されたのか?
この川の向こう岸に祖父は抵抗陣地を構築したらしいが・・・・・
当時は乾季である。
今と同じだとすると、川は干上がっていたはずで・・・そうなると、この川は何の意味もなかったかも・・・(汗)
それとも、まだ多少は水が流れていたか?
祖父の下に米軍の砲弾が飛来してきたのは2月1日だったという。

061_convert_20150724220041.jpg

対岸の左奥・・・小高い丘の上に家が建っていた!
前回来たときは、森だったのに・・・(唖然)
いつの間に、あんなところに家を建てたんだ?
あの丘のある辺りに祖父の部隊の物資集積所があったと思うのだが・・・
家を建てる時に地中から何か遺品が出てこなかったかと住人に尋ねたい気がしたが・・・
今回は、戦跡の案内なので、余計な時間は無い・・・(涙)

祖父の連隊は配属部隊を含めて約600名である。
戦史には1000名と書かれているものもあるが、その根拠は不明である。
我が祖父の部隊に対する米第32歩兵師団は「師団」だから・・・1万名はいただろう・・・
600名対1万名の戦いである。
明らかに祖父には勝算はない・・・

この川の対岸は「サラクサク峠」への“西の入口”となる。
当時は、“けもの道”程度の狭い道が山に向かってダラダラと続いていた。
その地形のおかげで全滅を免れたといえる。
“けもの道”ていどの道では、米軍は大部隊を一気に進撃させることは出来ない。
極端な話し・・・一列縦隊で登ってくるしかない・・・
この“西の入口”で米軍を食い止めることが、マニラから北上する民間人と友軍の退路を遮断されるのを防ぐことになる。

044_convert_20150724224805.jpg

吊橋を渡って対岸に向かう・・・
拙者は“高所恐怖症”どころか・・・たいして高くもない、そこそこの高さも怖いという男である。(大汗)
だから、こういう吊橋って怖いんだよねぇ・・・
しかも、竹を割った板を敷いているだけなのである。
歩いていてバリッっと割れたらどうしようと気が気ではない。(大汗)
すでに板が割れてポッカリと穴が開いている場所もあるのである!(大涙)
もう少しまともな橋を架けてくれよ・・・(涙)

へっぴり腰になりながら、恐る恐る橋を渡る・・・
祖父の部下たちが、この姿を見たら何と言うだろうか・・・(汗)
連隊長の孫は意気地がねぇなぁ~と笑っているか呆れているか・・・(苦笑)

045_convert_20150725105753.jpg 046_convert_20150725105955.jpg

対岸の祖父の部隊の陣地入口附近に米第32歩兵師団(レッド・アロー)の記念碑がある。
この碑は、まだ「サラクサク峠」で戦闘をしている最中に建てられたものである。
米軍の“余裕”が伺われる・・・・
小さい碑に見えるが、建立された当時は立派な台座を含めて高さ3mほどの大きな碑だった。
今から35年ほど前に祖父が最初で最後の慰霊に、ここに来た時に撮影した写真を見て知っている・・・
で・・・15年ほど前に拙者が初めて来たときは半分近くが土砂に埋まっていた。

ここはカバリシアン川が大きくカーブする頂点に位置する。
よって、戦後の川の氾濫で、かなり土砂に埋まってしまったのだろう。
今回は、その記念碑が傾いている。
あの大きな記念碑が、ここまで埋まっているということは・・・・
この河川敷で戦死した日本兵たちの遺体は数メートルもの地下に埋まっているか、土砂とともに下流に流されてしまっているか・・・
ここでの遺骨収集は不可能だろう。
実際に、ここでの日本政府による遺骨収集は行なわれていないようである。

048_convert_20150725112835.jpg

橋から右のほう(東側)へ回り込んでみる・・・
正面の森の奥の小高い丘あたりも我が軍の陣地跡のはず・・・
祖父の連隊本部があったあたりか?

047_convert_20150725113306.jpg

乾季で干上がり、水溜りと化した川を渡って、更に東の方向を見る。
15年ほど前に来たときは、ここには土手があり、その上を歩いたのだが、いつの間にか、その土手は消滅していた。
それほどまでに雨季で増水した時は、凄い流れになるということか・・・
あの土手が消えてなくなっているとは・・・(唖然)

川を渡って向こう側・・・写真の右の丘方面に、祖父は斬り込み隊を派遣している。
祖父の部隊には野砲兵第10連隊から野砲が2門配属されていた。
対する米軍には70門の砲を持つ砲兵部隊がいた。
単純に言うと、こちらが2発撃つと70発の“お返し”が来るのである!(唖然)
米軍の戦法は基本的には今も昔も変わりない・・・
最初に砲爆撃で徹底的に叩いてから歩兵が進撃してくるのである。
今でもアフガニスタン、中東で米軍は同じことをやっている。
祖父は敵の砲兵陣地に、1個分隊(9名程度)の斬り込み隊を、いくつか出して攻撃をかけている。
最初のうちは効果があり戦果もあがったようだが・・・
所詮、“焼け石に水”である。

祖父の部隊に配属されていた砲兵62名は、米軍の砲撃により、弾薬集積所が誘爆・・・
一瞬にして50名が吹き飛んだという。
生き残った12名は、祖父とともに転戦したらしいが、以前、砲兵の戦友会に尋ねたら、「生還者に会ったことはない」との回答だった。
転戦中に全員が戦死したものと思われる・・・

祖父の部隊は米軍の猛攻に耐えられず後退を始める・・・
それに先立ち、部隊に配属されていた工兵1個小隊を先に後退させている。
これは、先に後退させて、適当な場所に陣地を構築させ、完成次第、その場所まで後退するという戦法だと思う。
いわば、“尺取虫”のようにジワジワと後退するのである。
これを一気に後退させると、兵達は一目散に逃げ始め、戦線は一気に崩壊してしまう。
それでは、当初の任務である敵の進撃を食い止めることは出来なくなる。

祖父が撤退した正確なルートを拙者は知らないが・・・
多分、写真の奥に見える山のほうへ向かったのではないかという気がする・・・
この撤退・・・・祖父の独断である・・・(汗)
祖父のこの撤退に対し、第14方面軍の参謀である小沼少将が驚愕したと戦史にある。
命令なしで勝手に後退した・・・と怒ったらしいが、すでに400名が戦死し、残っているのは200名程度しかいなかったのである。
ここで頑強に抵抗すれば、1日足らずで壊滅してしまっただろう。
そうなったら、米軍は一気に峠を突破し、マニラから北上する避難経路を寸断してしまう。

小沼少将はガダルカナル島でも作戦の指揮を取ったことのある参謀である。
彼のやり方は、一歩も退かず、全滅するまで戦う・・・というもの。
第一線、第二線、第三線と陣を敷き、第一線は後退することなく全滅するまで戦い、第一線が全滅したら第二線が同様に全滅するまで踏みとどまって戦うというもの。
これを作戦といえるかどうか・・・甚だ疑問であるが・・・
小沼少将は、ガダルカナルの戦いが、手の施しようが無いとわかった段階で日本に帰国している。
ガダルカナル島では兵士たちの多くは戦死より餓死したのだが・・・彼は餓死することなく生き残った。
エリートと呼ばれる連中は、所詮、そんなものである。

その小沼少将が今度はフィリピンへ来て作戦の指揮を取った・・・
「全滅するまで後退するな」という彼のやり方に祖父は逆らったことになる。(苦笑)
本来の目的は、米軍の進撃を少しでも遅らせることである。
600名の兵力で敵の1個師団に勝てるわけがない。
勝てないまでも敵の進撃を遅延させれば、目的は達成したことになる。
いかに時間稼ぎをするか・・・
その具体的な戦い方は現地に任せてもらいたい・・・ということだろう。
現地の状況を知らぬ安全な場所にいるエリート参謀にとやかく言われたくはない・・・と思ったのではなかろうか?
(拙者なら、そう思う・・・)
エリートは教科書通りの作戦しか立てないが、それで勝てる相手じゃない・・・
現地の状況に合わせて臨機応変に作戦を立てるのが、本来の“作戦”ではあるまいか?

敵の進撃を遅らせる時間稼ぎをするにはこの手しかない・・・拙者もそう思うのである。
祖父の部隊が200名にまで減ったことに驚いた小沼少将は、当時、戦車を失い歩兵化していた戦車第2師団を祖父の部隊の後方、「サラクサク峠」に向かわせ陣地構築に当らせる。
その間、祖父は更に時間稼ぎの戦いをすることになる。
「サラクサク峠」まで直線コースで15km程度のところを2週間近くかけてジワジワと後退しながら米軍の進撃を遅らせた。
「サラクサク峠」に到着した時には兵力は80名にまで減少していたという。

この当時、避難路を北上する兵士の間では、祖父の名前はよく知られていたようである。
「今、鈴木部隊が米軍を食い止めてるから、今のうちに早くここを通過しろ」と言われたことを覚えていると言ってくれた生還者がいた。
「あんたのおじいさんには会った事はないが、“鈴木部隊”というのは覚えている。あんたのおじいさんのおかげで生きて帰ってこれた。そういう意味では恩がある」と言ってくれた人もいた。

祖父が偉いのではない・・・
祖父の指揮下で砲撃に叩かれながらも時間稼ぎの戦いをおこなった部下たちが偉いのである。
よく逃げ出さなかったものだと感心する。
よくぞ戦ったと褒めてやりたい・・・
そして・・・500名もの兵士がここから「サラクサク峠」に向かうまでの山中に眠っているのである。
お線香の煙をなびかせながら、この山中をズ~ッと歩いて慰霊してあげたいのだが、いい現地ガイドが見つからないでいる。
それよりも、直線コースで15kmとなると、クネクネと曲がった“けもの道”であるから、実際には倍の30kmくらいは歩かねばならないだろう・・・
山道を30kmも歩き続けることができるだろうか?(大汗)
う~ん・・・体力に自信がない・・・・情けないことに・・・・
もっと若かったらなぁ~(大涙)
夢は夢だけで終わってしまうか・・・

この場所での戦史について“デグチ支局長”に解説・・・・
時刻はまもなく12時になる・・・そろそろ昼飯を食べねば・・・(笑)

「また、あの吊橋を渡って帰るのかぁ~怖くて嫌なんだけどなぁ~」と言ったら・・・
「川を歩いて渡れるんじゃないですか?水が無いですから・・・」と支局長・・・
ん?・・・あれ?・・・・そう言われれば、そうだ・・・(苦笑)
川は干上がり、水は流れていないのである・・・
なんで気が付かなかったんだろうねぇ~(大笑)
バカ丸出しである。

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旅行 | 11:32:57 | Comments(0)
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