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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
56歳
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)

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大川周明博士顕彰碑
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大川周明博士顕彰碑

題額 酒井忠明
大川周明顕彰会・大川周明博士生誕百年祭実行委員会 建之
昭和61年10月吉日



哀輓三章

識見文章 共に絶倫
多年興亜経綸を展ふ
痩躯六尺 英雄漢
睥睨す 東西古今の人

危言 厄に遭うも道何ぞ窮せん
幾度か身を投ず 囹圄の中
筆は秋霜を挟み 心は烈日
果然頽世 清風を起す

立言何ぞ遜らん 立朝の勲
時 艱難に際して嗟す
君を喪うを
渺々たる魂兮 招けとも返らず
哀歌空しく対す 暮天の雲
               哀輓
大川博士周明君  土屋久泰

昭和33年2月15日、東京青山斎場に於て行われた葬儀の日、霊前に捧げられた弔詞。
土屋竹雨久泰先生は、明治20年鶴岡に生れ、荘内中学校・第二高等学校・東京帝国大学に学ぶ。
漢詩は当代第一。
書家として亦一家をなす。
長年大東文化大学々長として東洋文化の振興に寄与す。
昭和33年11月、71歳にて逝去

(説明銘板より)


大川周明博士を偲ぶ

鳥海山の秀峰を仰ぎ世界に通ずる日本海に浴した大川周明博士は此地酒田に生を受け育ち、第五高等学校、東京帝国大学に学んだ。
博士は少年期より求道の志固く、その精進は宗教、学問に及び政治、特に国際政治に甚大な感心を持たれた。
その学問行動の軌跡は、新井白石、吉田松陰に比適されるものがある。
博士の悲願とされたアジア諸民族の独立は既に達成され人類は未曾有の科学文明の時代に突入せんとしている。
先生の霊安らかならん事を祈ると共に後昆の領導を希ふ所以である。

昭和61年10月
拓殖大学総長
高瀬侍郎

(銘板より)


アジア植民地解放の父 大川周明の略歴

明治19年酒田西荒瀬村藤塚に生まれた。
荘内中学時代角田俊次の家塾に起居『南洲翁遺訓』に影響を受け、また横井小楠の卓抜なる見識に傾倒した。
熊本五校、東京帝大インド哲学科に学んだ。
ふとした縁でヘンリー・コットンの『新インド』を読んで、イギリス植民地下のインドの悲惨を知り、植民地政策の研究へと人生の転換を志した。
昭和4年時の満鉄総裁山本条太郎を説いて、満鉄から調査局を分離し東亜経済調査局を主宰、理事長となり、アジア、アフリカの政治経済、社会、文化の調査研究の指導に当り、また盟友北一輝と共に「猶存社」を創立。
更に「行地社」「神武社」を主宰、五・一五事件に連座、獄中で不朽の名著『近世欧羅巴(ヨーロッパ)殖民史』を著した。
昭和13年4月、東亜経済調査局附属研究所を設立主宰。
日支間の和平、アジア問題に献身し、大東亜戦争では東條に極力開戦阻止を進言したが果さず、戦後A級戦犯容疑者に指名されたが、昭和23年暮、不起訴で釈放された。
日本は敗戦したが、アジア、アフリカ諸国は独立し、大川の植民地解放の夢は実現した。
大川著『回教概論』はイスラム研究の最高水準をいっている。
晩年『古蘭(コーラン)』の翻訳に没頭し、昭和25年に岩崎書店より刊行している。
昭和32年12月24日神奈川県中津に於て逝去。
71歳。

大川周明顕彰会

(説明板より)



【山形県酒田市日吉町1丁目・日枝神社】
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