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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
56歳
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)

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松山城大手門
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松山藩及び築城の沿革

中世この地方一帯を遊佐郡平田郷中山地方と称す
江戸期初頭庄内藩主酒井忠勝(ただかつ)公の遺命により第三子酒井忠恒(ただつね)公に庄内の所領の中中山村外35ヶ村及び村山郡の中左澤地方74ヶ村併せて知行2万石を与え中山に分封せんことを幕府に出願す
正保4年(1647年)12月11日其の許可を得たり
依って寛文元年(1661年)中山地内稲荷沢古舘の跡を選び此処に館を構築し中山陣所と公称し政庁を開く
翌2年忠恒公家臣団と倶に鶴ヶ岡より移駐し鶴ヶ岡亀ヶ崎に因み中山を松山に改め以後松山藩と公称す
超えて第三代藩主酒井石見守忠休(ただやす)公幕閣に列し若年寄の重職を歴任す
安永8年(1779年)12月15日幕府忠休公永年の勤功を嘉し上州の地桐生地方5千石を加増し城主を命じ松山に築城を許可す
以後松山藩2万5千石の表高となる
よって宗藩鶴ヶ岡の軍師長坂十太夫正逸為に築城の縄張を行い執政上野織右ヱ門安邦を総奉行に任命し天明元年(1781年)5月工事に着手す
以来巨額の工費と人力を動員し天明7年(1787年)9月に至り本丸仮御殿を落城し第一次の築城工事を終わる
時巳に忠休公逝去し第四代忠崇(ただたか)公之に替る以来庄内松山城としてその偉容を近隣に誇り幕末に至る
時に藩主第七代紀伊守忠良(ただよし)公たり世情まさに王政復古の動乱期に当り慶應4年(1868年)の春以来宗藩と共に武門の誉れを守る
明治元年(1868年)維新後宗藩鶴岡と共に官軍に抗した理由により時の政府に城池没収取り毀しの厳命を受け遂に全城郭を破却の止むなきに至りここにその当時の偉観を全く失うに至る
実に創藩以来2百年余築城以来80有余年に亘る松山藩の命運であった

松山城大手門

天明元年(1781年)築城に当り本丸西方外濠に面し城郭の正面として翌2年9月に竣工し通常端門又は多聞楼と称される
完成以来9年目即ち寛政2年(1790年)秋10月10日の早暁屋上に落雷し之を焼失す
時に酒田在住の庄内藩士並びに松山藩財政方本間四郎三郎光丘同次郎四郎重利の両士大手門再建を藩庁に出願す
藩庁為に幕府の許可を俟ち寛政4年(1792年)6月26日再建完成す
現存の城門即ち大手門これなり
翌5年山形銅町の鋳工庄司氏造るところの青銅の鯱一対
屋上に飾り再建の主旨を銘記す
鯱の高さ4尺8寸(約1.45米)造形極めて優美なり(現在屋上にある鯱は大手門再建2百年を記念して平成4年4月山形市銅町庄司逸雄氏により制作されたものである)
藩政時代階上に非常の兵具を配置し階下の門扉(現在無し)の両側に下士12名門番として昼夜常駐せり中1名は面番役又1名は下座見役とし常に拍子木を持ちその打数により時刻及び登城の士の通過を門番に通報する
但し藩主不在中は大門扉を閉じ側の潜り戸より通行することを例とせり
明治2年城郭破却中来松の按察使坊城俊章閣下による格別の取り計らいにより破却を免れ得たものと伝えられる
後に旧藩校の流れを汲む松嶺正心学校の校舎として子弟教育の場となり貢献長期に亘る
再建以来実に2百有余年の風雨に耐え当時の城郭を偲ぶ唯一の建物として今尚毅然として城跡に建つ
昭和45年(1970年)2月4日山形県文化財の指定を受け現在に至る

平成23年6月
酒井市教育委員会

(説明板より)

【山形県酒田市字新屋敷36-2 歴史公園内】
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史跡 | 15:10:35 | Comments(0)
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