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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
57歳
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)

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平田篤胤の墓
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平田篤胤之奥墓
天保十四年癸卯閏九月十一日

国指定史跡
平田篤胤の墓

平田篤胤は、安永5年(1776)に久保田城下中谷地町(現在の中通4丁目2)に久保田藩大番組頭大和田清兵衛祚胤(としたね)の四男として生まれ、小さい頃から漢学や医術を学んだ。
20歳の時に郷里を離れて江戸へ出て、苦学をしながら多くの学問をおさめた。
25歳の時に備中松山藩士平田藤兵衛篤穏(あつやす)の養嗣子となり、平田姓を名乗って平田半兵衛篤胤となる。
そして28歳の時、最初の著書「呵妄書」を著わして国学に強い関心を持つようになり、以来、生涯を学問に打ち込んだ。
国学とは純粋な我国古来の精神や道徳を探求し、それを学ぶことの大切さを説いたものである。
篤胤のこの神道・国学の考え方は、江戸のみならず各地の武士・神官・商人・農民など多くの人々に受け入れられた。
天保12年(1841)66歳の時、その思想が幕府の体制をゆるがすとされ、幕命によって国元へ帰藩させられた。
晩年を郷里で過し、天保14年(1843)久保田城下中亀ノ丁(現在の南通亀の町)にて68歳で病没した。
墓所は遺言に従って衣冠束帯の姿でこの地に葬られ、師である本居宣長のいた伊勢の方角に向けられているといわれている。
篤胤の思想は幕末の尊王思想の根本となるなど、歴史を動かす原動力としても多大な影響力を及ぼした。
著述は「古史伝(こしでん)」・「霊能真柱(たまのまはしら)」など百部千巻を超すといわれ、荷田春満(かだのあずままろ)、賀茂真淵(かものまぶち)、本居宣長とともに、国学の四大人と称されている。

昭和9年5月1日指定
秋田市教育委員会

(説明板より)

【秋田市手形大沢21-1】
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史跡 | 12:52:45 | Comments(0)
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