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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
57歳
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)

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高崎城乾櫓
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群馬県指定重要文化財
高崎城乾櫓

高崎城の本丸は、烏川の縁りに近いところ(現在の日本たばこ産業倉庫、NTT別館付近)に土塁と堀をめぐらし、その四隅に、西側の土塁の中央に建てられた三層(三階建て)の櫓を取り囲むように四棟の隅櫓を配していた。
その乾(北西)の角にあったのがこの櫓である。
二層(二階建て)で、本瓦葺き入母屋造りの屋根をのせ、腰屋根をめぐらした平入りの建物であり、梁間二間(12尺)桁行三間(18尺)の規模である。
外壁は柱を塗り込めた大壁で、白漆喰で仕上げている。
現状は、初層(一階)西壁(当時とは方位は逆)中央(中の間)に土戸を引く戸口を設け、初層のこの壁以外の三面と二層の四面には、それぞれ太い竪格子をはめた窓を二ヵ所ずつあけている。
ところが、明治6(1873)年に、城内に置かれた東京鎮台高崎分営(15連隊の前身)を撮影した写真では、初層の正面(東壁)右の間に戸口があり、左の間には同様な窓一ヵ所が認められる。
妻飾りは狐格子で、破風板に懸魚をかけている。
高崎城の築城は、慶長3(1598)年、井伊直政によって着手されるが、その後、藩主は目まぐるしく替わり、元和5(1619)年に安藤重信が入部して、元禄8(1695)年まで3代にわたって在城し、城と城下町の整備にあたっている。
享保(1716~1736)ころの著作という「高崎城大意」には、3代の重博が、平屋の土蔵の様でしかなかった乾櫓を二層の櫓に改築したとの記事があるが、これと様式的に見ても矛盾はなく、17世紀末の建築と推定されている。
その後、東門とともに下小鳥町の農家に払い下げられ納屋として利用されていたが、県重要文化財の指定にともなって、昭和54年この位置に移築復元された。
初層の戸口の位置は納屋として使用されていた時期を踏襲しており、屋根瓦は当時の資料によって復元されたものである。
両側の鉄砲狭間をあけた塗り込め塀は、修景のためのものである。

指定年月日 昭和49年9月6日
群馬県教育委員会
高崎市教育委員会

(説明板より)

高崎城乾櫓の由来

この櫓は、高崎城本丸乾(西北)の土囲上にあった。
南に建つ三重の天守閣(御櫓と呼ぶ)と並んで、本丸堀の水に影を投じた姿がしのばれる。
高崎藩に伝えられた「高崎城大意」という書物によれば「もとこの櫓こけらふきにて櫓作りになし二階もなく土蔵などの如くなるを先の城主腰屋根をつけ櫓に取り立て」とある。
先の城主安藤重博が今のように改築したとある。
従って、重博在城の元禄8年(1695年)より以前から存在したjことが明らかである。
多分、安藤重長が城主であった寛永の頃の建築であろう。
城郭建築物の本県内に現存するものはこの櫓只一つである。
幸にこれが保存されていたのは、明治初年に払い下げられ下小鳥町の梅山氏方に移り、納屋に用いられていたからである。
所有者の梅山太平氏が市に寄附の意を表され、県の指定文化財となったのは昭和49年で以来2年を経て漸くこの位置に復元することができた。
元位置はここから西方300mの地点に当る。
屋根の「しゃちほこ」は栗崎町の五十嵐重五郎氏に現存するもと高崎城のものを模造したものである。
また塀は金古町の天田義英氏宅にある高崎城から移した塀にならって作り、瓦は大部分を下滝町の天田季近氏方に保存されていた高崎城のものを寄附されたものである。
高崎城には石垣はほとんどなかった。
この石垣は、土囲敷が広面積を占めないよう止むを得づ築いたもので、乾櫓には土囲上に1m足らずの高石台があったに過ぎない。

昭和52年5月
高崎市教育委員会

(説明板より)

【群馬県高崎市】
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史跡 | 15:25:40 | Comments(0)
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