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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
57歳
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)

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弘道館
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弘道館

弘道館は水戸藩9代藩主徳川斉昭(烈公)寛政12年(1800)~万延元年(1860)が、自らの発意により天保12年(1841)創設した藩の学校です。
当時は、正庁、至善堂を中心として文館、武館、医学館、天文台等が配置され梅林の中には鹿島神社、孔子廟、八卦堂、学生警鐘(鐘楼)等があり総合大学のような偉容を示していました。
明治元年(1868)藩内に争乱がありその際の兵火によって文館、武館、医学館等を失い、その後広大な敷地も県庁、三の丸小学校用地として割譲され規模は縮小されました。
昭和20年(1945)の戦災によって残存していた、鹿島神社、孔子廟、八卦堂も焼失しましたが、正門、正庁、至善堂、学生警鐘は、奇跡的に災禍をまぬがれました。
昭和28年(1953)から、八卦堂、孔子廟の復元、正庁、至善堂の修理等を行い、弘道館公園として現在に至っています。
明治■年(1871)藩校としては閉鎖されましたが、同8年公園となり大正11年(1922)特別史跡、旧弘道館として國の指定を受け、昭和39年(1964)正庁、至善堂及び正門が國の重要文化財に指定されています。

茨城県

(説明板より)


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正門

天保12年(1841)の弘道館創立時に建てられた正門です。
本瓦葺き四脚門という建築様式で、屋根瓦には葵の紋があります。
藩主の来館や諸儀式を行うときのみに開門しました。
門柱や扉などにみられる傷跡は、明治元年(1868)におきた弘道館の戦いと呼ばれる藩内抗争の銃撃戦でできた弾痕です。
正門及び正門南10.0メートル、北11.4メートルの附塀は、重要文化財に指定されています。

(説明板より)


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正庁(学校御殿)

この二十四畳敷の部屋が藩主の出座する正席の間で二の間、三の間から成り 藩主以下重臣等が臨席して 文武の試験や諸般の儀式を挙げたところ。
また、武術の場合は前庭にある大椎の下の対試場で行われ 藩主・重臣はこの正席の間から覧たものである。
なお 南面縁側の長押には烈公親書の「游於藝」の扁額が掲げられている。

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弘道館記

この大きな掛軸は弘道館記碑の石摺りであって その碑文は烈公自らの撰文並びに書である。
弘道館の建設に際し創られたもので 全文ことごとく水戸学の結晶とも云うべく水戸藩の建学精神を天下に宣言した文章である。
この石碑は公園内の八卦堂に納められ 寒水石で高さ3.1米、幅1.9米、厚さ0.55米あり515文字から成っている。

(説明板より)

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至善堂

この部屋が至善堂と云い藩主の座所。
明治維新に将軍職を辞した徳川慶喜公(烈公第7子)がここにあって恭順の意を表し 静かに朝廷の命を待たれた由緒あるところ。
その他の3室(二の間、三の間、四の間)については 諸公子講学の場所にあてられた。
なお「至善」とは最上最高の善。
人間は最高善に到達し かつその状態を維持することを理想とすべきであるとの意。

(説明板より)


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【茨城県水戸市】
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史跡 | 11:27:15 | Comments(0)
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