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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
57歳
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)

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シンガポール日本人墓地公園に行く
次に向かったのは・・・『日本人墓地公園』
時刻は、まもなく午後4時になる・・・・

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『日本人墓地公園の沿革』という説明板には、この墓地の由来がこのように書かれていた。


日本人共有墓地は、娼館主、雑貨商として成功した二木多賀治郎が自己所有のゴム林の一部を提供したことに始まる。
それまで当地で死去した日本人の遺骨は牛馬の棄骨場に埋められており、そのことを悲しんだ二木は、1888(明治21)年、同胞の渋谷吟治、中川菊三と連名で英国植民地政庁に自己所有地8エーカー(約1万坪)を日本人共有墓地として使用する申請を行い、3年後に正式許可を得た。
南十字星の下、ここには、からゆきさん、戦前活躍した日本人、そして戦犯処刑者も眠っていて、明治、大正、昭和の日本人海外史が偲ばれる
(以下、年表は略)



この墓地ができるまでは、日本人の骨は牛馬の骨捨て場に埋葬されていたとはねぇ~
驚きである。
ちなみに・・・・
平成11年現在の墓地の面積は2万9359平方メートルで、墓標数は910基だそうである。

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公園内の案内板はイラストマップである。
これが良く出来ているマップで・・・・説明文は英語だが、わかりやすい!(喜)

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故大講義板倉タカ刀自之墓

板倉タカ(いたくら たか)
1867(明治元)年生ー1926(昭和2)年没

天理教シンガポール教会初代会長。
娘時代から人生の辛苦をなめたといわれている。
大連にて料理屋旅館を経営していた。
のちにマレー半島に渡るが母の病で日本に帰国、その際天理教に入信した。
その後シンガポールに渡り、テーブル・クロスなどの行商のかたわら、からゆきさんたちの良い相談相手となる。
1916(大正5)年には天理教の布教を開始。
1922(大正11)年、信者の献金によりキャセイ映画館近くに天理教教会を開き、55才で初代会長となる。
59才で没。
大柄な心の広い人であったという。
この板倉タカ刀自の墓近くには4基の天理教信者の墓がある。

(説明板より)


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南方軍総司令官寺内元帥之墓

寺内寿一(てらうち ひさいち)
1879(明治12)年生ー1946(昭和21)年没

山口県出身。
明治の元勲寺内正毅(てらうち まさたけ)の長男で、明治、大正、昭和に生きた軍人。
父と同じく陸軍大将、元帥となる。
台湾軍司令官、軍事参議官、北支方面軍事司令官を歴任し、1941年には南方軍総司令官に着任して太平洋戦争の南方作戦を指揮した。
1945(昭和20)年敗戦の年、サイゴン郊外で病にたおれ、英国軍マウントバッテン将軍の配慮でジョホール州レンガムのヒギンス氏別邸にて療養。
その為、日本軍の降伏式にも参加出来ず脳溢血で死去。
遺骨はマウントバッテン将軍の指示により、軍刀その他の遺留品と共に特別機で東京の遺族の元に送られ、この墓には、寺内元帥の遺髪、爪、襟章、肩章が納められている。

(説明板より)



ここにある寺内元帥の“お墓”は、いわゆる“遺髪墓”である。
“本当の”お墓は、山口県の護国神社の近くの高台に父親のお墓と並んで大きな立派なお墓が建っている。
昔、訪れたことがある・・・・
拙者としては、個人的には好きではない人ですが・・・・(苦笑)



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二葉亭四迷終焉之碑

二葉亭四迷(ふたばてい しめい)
1864(元治)年生ー1909(明治42)年没

本名、長谷川辰之助(ロシア文学家、翻訳家、小説家)
この碑はあくまでも記念碑であって墓ではない。
遺骨の全ては東京の染井墓地に埋葬されている。
文学は男子一生の仕事にあらずと軍人を志し、士官学校を三度受験し三度失敗した四迷であるが、文芸史上空前の業績を残す。
1887(明治20)年に近代ロシア文学の根本精神を把握、創作や翻訳に現実主義を導入した。
自らの小説総論に基づいた『浮雲』は言文一致体で書かれた日本で最初の近代散文小説である。
東京外国語学校教授を経て、1908(明治41)年朝日新聞特派員として渡露。
1909(明治42)年5月10日、肺を患った四迷は帰国途上の日本郵船賀茂丸(コロンボ~シンガポール間のベンガル湾洋上)船中にて死去。
13日、当地パシル・パンジャンの丘にあった火葬場で荼毘に付された。
1929(昭和4)年7月14日、古藤、富房、堀切の諸氏により自然石を用いたこの終焉の碑が建立される。
碑文は当時シンガポール在住の医師・西村竹四郎の筆である。
代表作品に『浮雲』、翻訳作品『あいびき』『うき草』『其面影』『平凡』などがある。

(説明板より)


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上山柑翁之墓

上山柑翁(うえやま かんおう)
1889(明治22)年生ー1942(昭和17)年没

1889(明治22)年9月17日蚊取り線香の発明者であり、大日本除虫菊(株)の創業者である上山英一郎の長男として生まれる。
本名上山英之助。
柑翁は雅号。
1913(大正2)年24才で東京高商(現一橋大学)卒業、同年上山商店に入社。
1930(昭和5)年第二代社長に就任。
1935(昭和10)年、社名を現在の大日本除虫菊(株)に変更する。
1942(昭和17)年、日本農産物輸出組合理事長、南洋ゴム拓殖(株)社長に就任、昭南島(シンガポール)に営業所を開設する。
同年12月30日陸海軍嘱託として東南アジアに出張の途上、シンガポールのセンバワン飛行場で搭乗機が墜落し死去。

(説明板より)

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(左奥の石碑=作業隊殉職者の碑)
(右奥の墓石=大寛院眞光義徹居士)

作業隊殉職者の碑

拓南の碑(たくなんのひ)

「東南アジアの隆盛を冀(こいねが)い拓南に生きた人々ここに眠る」と自然石に彫られている。
1980(昭和55)年代に石原産業が建てた。
石原産業は1919(大正8)年、バトゥ・パハのスリメダン(マレーシア)に石原廣一郎、東粂次、田所久吾が鉱脈を発見し興した鉄鉱石の採掘会社。
事業は成功し拡張を重ね、のちの石原産業海運となるが戦後の財閥解体により石原産業となった。

大寛院眞光義徹居士

西村吉夫(にしむら よしお)
1892(明治25)年生ー1934(昭和9)年没

京都府出身。
石原産業の前身スリメダン鉱山入社。
1933(昭和8)年より、石原産業シンガポールの支配人となる。
同年、日本人会会長となる。
1934(昭和9)年12月5日、軍港を撮影した為英領海峡植民地当局からスパイ容疑により出頭を命じられ、取り調べ先の中央警察でマラリア治療薬の猛毒のキニーネを大量に飲み死亡した。
当時は第二次世界大戦に向かって動いていた時代で、シンガポールもその流れの中にあった。
同年12月6日、日本人会は盛大な会葬をもって日本人社会の信頼厚かった故人の霊を弔った。
この会葬の写真は御堂内に掲げられている。

(説明板より)



569_convert_20140921133623.jpg(従軍南洋会員戦死者之墓)

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御堂前で、ささやかな慰霊祭を執り行い、「海ゆかば」を斉唱して黙祷を捧げる・・・・
あまり時間がないので、そうそうゆっくりと墓標を見て回ることができなかったが、結構「からゆきさん」と思われる女性の名のお墓が多かった・・・
それにしても、地元のシンガポール日本人会はすごい・・・
綺麗に整備して維持管理をされている。
さすがは「墓地」ではなく「墓地公園」である。
日本人観光客は必ずここを訪問して、つまらぬお土産などを買うお金の一部でも維持管理費として寄付してあげるべきだと思う。

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この墓地公園の一角に“メモリアル・プラザ”がある。
その説明プレートは以下の通り・・・


「先人を偲ぶ集いの場」拓く

日本人共同墓地は現在日本人墓地公園と名が改まり、シンガポール日本人会が責任母体となって、日常の管理・維持を行なっている。
他に日本人学校小・中学部をはじめとする団体、個人のボランティアの理解と協力もあって、墓地は篤く守られている。
その閑な一角にこの度、メモリアル・プラザ「先人を偲ぶ集いの場」が拓かれることになった。
戦前あまたの日本人が渡来した。
当地で命を落とし、この墓地に眠る人も多くいる。
一方日本人社会に足跡や功績を残しながらも、ここを永眠の地と成さなかった人もまた多い。
この度そのような人の記録を追蹤し、顕彰碑を建てることにした。
公園化計画の施行によって新装なった日本人墓地公園を一巡すれば、訪問者は当地での日本人社会の歴史が判ることになった。
南国の大樹が蔭を落とし、鮮やかな花が咲き乱れるこの碑のある広場が先人を偲び、己の今と行く末に思いを馳せる場となることを願う。
メモリアル・プラザの日本名「先人を偲ぶ集いの場」は日本人会史蹟史料部の座長を長らく務め、この墓地の維持管理、改善に尽力された安川一夫氏が今年3月に他界される数日前に病床で考えられたものである。

2002年8月22日
史蹟史料部

(銘板より)



ここに“ハリマオ”で有名な、谷豊(たに・ゆたか)の顕彰碑もあった。
誰かが、「谷豊のお墓だ!」と言っていたが・・・・あの・・・このメモリアル・プラザの説明文を読んでないのかな?(苦笑)
たしか、谷豊は、死亡後、その子分たちが遺体を担いでジャングルの中に消えて行ったとか・・・という話を聞いた事がある。
マレー各地にいくつかの「谷豊の墓」と呼ばれるものがあるそうだが、どれが本物かはわからないとも聞いたことがある。
遺髪墓なのか、分骨して建てられたものなのか・・・・わからないそうだ。
いずれにせよ、その遺体はどこに消えたのかわからないというのだから、なんともかわいそうである。
この日本人墓地に埋葬してあげることができたら、さぞかし喜んでくれただろうとも思うが、いや、生死を共にした子分たちの元に一緒にいるほうが幸せかな?

573_convert_20140922153427.jpg(谷豊の顕彰碑)


マレーのハリマオ 谷豊(たに ゆたか)
1911(明治44)年11月6日ー1942(昭和17)年3月17日

福岡県に生まれる。
幼年期に両親とともに英領マレーのクアラ・トレンガヌに移住。
豊が兵隊検査のために福岡に帰国中であった1933(昭和8)、満州事変勃発に怒った華僑暴徒による異母妹静子虐殺事件が発生した。
翌年にこれを知った豊は復讐を誓いトレンガヌに戻る。
生来血気盛んな豊は、次第にハリマオ(虎)という名で知られるようになり盗賊団の頭目となる。
一説では3000人の部下がいたという。
マレー人になりきるため、後にイスラム教に入信する。
1941(昭和16)年、南部タイのハジャイで英軍に拘束されるが、日本軍特務工作員・神本利男の助けで出獄。
同氏の説得により英軍の後方撹乱実行に同意し、日本軍藤原機関の一員となる。
マレー人、タイ人部下を率いて開戦直前の諜報・物資調達に従事。
開戦直後は、英軍による橋梁爆破を阻止するなどの日本軍進路確保、マレー人の日本軍への協力や英軍に同行するマレー義勇軍の中立化などに力を注ぐ。
その間持病のマラリアを悪化させ、1942(昭和17)年3月、陥落直後のシンガポール、タントクセン病院で死去した。
葬儀はイスラム教の教義にのっとり、病院のあるノベナ近くのパジラン・モスクでマレー人によって行われ、その後、当時その近辺にあったイスラム墓地に埋葬されたといわれるが、この墓地は現存せず、正確な墓の位置もわかっていない。
死後、その短い一生を描いた小説・映画などが多数作られ、現在のハリマオ伝説を生むこととなった。
ハリマオ・谷豊は死後「陸軍通譯」として判任官待遇を受けている。
生前の1942(昭和17)年2月1日に遡っての任官であった。

(銘板より)



あれ?
碑文によると、谷豊の遺体はちゃんと埋葬されたようである。(汗)
子分が担いで行った・・・というのは、あれは創作か?(苦笑)

それじゃ、そろそろ帰りましょうか・・・ということになったが・・・
拙者は、結構、皆さんと離れて行動するタイプなので・・・・(笑)
一人でブラブラ散策しているうち、敷地の奥のほうに、なにやら石碑群があるのを見つけた。
おお!軍関係のものではないか!(喜)
早速、添乗員の“アサダさん”を呼びとめ、軍関係の慰霊碑の存在を伝える。

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手前の3つの石碑・・・・
左から『作業隊殉職者之碑』、『陸海軍人軍属留魂之碑』『殉難烈士之碑』である。
説明板によれば・・・・
作業隊殉職者之碑は、終戦後シンガポール島内各作業隊において傷病死した者の遺骨と火葬の灰が収められているという。
「作業隊」というのは、終戦後、遺棄弾薬の処分や遺体の埋葬や、その他各種の作業をした日本兵捕虜のグループのことだろう。
折角、戦争で生き残ったのに、戦後に傷病死とは・・・・
陸海軍人軍属留魂之碑は、シンガポール攻略時の戦死病没者ならびに西本願寺保管の南方軍各地戦死者の遺骨が収められているという。
この「西本願寺」というのは、もしかしたら、当時、シンガポールに西本願寺の別院のようなものがあったのかも・・・
殉難烈士之碑には、終戦時自決した参謀以下の将兵の遺骨とチャンギ刑務所で処刑された100名以上の将兵の血の流された土が収められているという。
戦後自決したのは何名いたのか明記されていないのが残念である。

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小さな墓石・・・・
『殉難者納骨百三十五柱』とだけ刻まれている。
戦後、チャンギー刑務所で処刑された戦犯の方々の遺骨が埋葬されているのか?

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左の写真は、『近歩五戦死者之墓』・・・・
近衛歩兵第5連隊の戦没者、元陸軍中佐・大柿正一をはじめとする連隊の戦死者396柱が納められているという。
大柿正一とは、あの「バクリ」近辺の戦いで壊滅的な損害を出した大垣大隊の大隊長である。
「納められている」ということは、遺骨は日本に運ばず、ここに埋葬されているということなのだろうか?
右の写真は『近衛歩兵第四連隊慰霊之碑』・・・・
これは慰霊碑だからお墓ではない・・・

ささやかな「慰霊祭」をするなら、御堂の前じゃなくて、ここでやるべきだったな・・・・
もっと拙者が早く気がついていれば・・・・失敗した・・・(涙)

時刻は午後4時半・・・・
約30分間という忙しい訪問であったが、とりあえず満足・・・
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旅行 | 19:22:33 | Comments(0)
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