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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
57歳
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)

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富士山本宮浅間大社
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富士山本宮浅間大社

(御祭神)
主神 木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと)
配祀 瓊々杵尊(ににぎのみこと)
   大山祇神(おおやまづみのかみ)

(御由緒)
人皇第7代孝霊天皇の御代、富士山が噴火し、人民が離散し国内が荒れ果てたので、第11代垂仁天皇は、富士の神霊を山足(やまあし)(山麓)の地に鎮祭した。
これが浅間大社の創祀である。
第12代景行天皇の皇子日本武尊が東征の際、浅間大神の神助を畏み、山宮の地(現社地の北方6キロ)に篤く大神を祀られた。
その後、平城天皇の大同元年(806)坂上田村麿が勅命に依り、神霊を山宮より大宮(現社地)遷し奉った。
以来実に1千2百余年、全国1千3百余社に及ぶ浅間神社の総宮として、全国的に篤い崇敬をあつめている東海最古の名社である。
古来、朝廷の崇敬極めて篤く、延喜の制では名神大社に列し、駿河国の一宮として崇められた。
武家時代に入ってからは、源頼朝をはじめ北条義時、武田信玄、同勝頼、等の名武将は、それぞれ神領や神宝を献納して篤く崇敬した。
特に徳川家康は、天下を平定した奉賽のため、慶長9年(1604)に本殿以下の諸社殿を奉献し、更に富士山八合目以上を社地として寄進した。
本殿は二層の楼閣をなし、浅間造と称し重要文化財に指定されている。

~以下略~

(説明板より)

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(右:南極の石 左:火山弾)

南極の石
この石は、南極奥地より氷河に乗り幾億年もの歳月を経て流出し、地吹雪により風化したもので、第7次南極観測船ふじの乗組員により採取されました。
富士浅間大神の、御神霊を奉斎して、昭和基地に赴いた砕氷艦、ふじ、の乗組員赤池稔氏の(富士宮市出身)奉納であります。

名称 火山弾
目方 約30貫(約百キロ)
これは富士山噴火の時に、地中の岩漿が火熱のために溶けて空中に吹き上げられ落下した際に、酸化して冷却したものです
この様に形が整って大きなものは、珍しいといわれています。

(説明板より)

162_convert_20140102174539.jpg(流鏑馬の像)

流鏑馬祭縁起

社伝によれば建久4(1193)年5月源頼朝が富士の裾野で鎌倉武士を率いて巻狩を行ったとき当浅間大社に参詣し 流鏑馬を奉納したのに起因すると言われる古儀である
当大社所蔵の天正5(1577)年の富士大宮御神事帳や 慶安3(1650)年の富士本宮年中祭礼之次第にも 5月5日の条に 五月会流鏑馬 と記載されている
又その当時の古文書 朱印状等によれば武田勝頼より流鏑馬料 豊臣秀吉及び徳川家光よりは御朱印地の寄進があり神事祭礼として国家安寧のため誠を尽して斎行するように下知されていたことを知ることができる
現在は5月4・5・6日の三日間にわたり行なわれ4日が前日祭 5日が本祭 6日が後日祭になっている
5日の本祭はこの祭の中心で 拝殿で祭典を行い ついで練行と称して神馬を中心に宮司以下神職 弓武者 槍武者 鎧武者 射手代官 射手 氏子代表 稚児等が市内を練り歩いた後 桜の馬場に参入して 鎌倉武士を髣髴させる絢爛豪華な神事流鏑馬式が古例によって盛大に行なわれる
当日は端午の節句でもあり近郷近在から20万余の参詣者で境内は終日殷賑を極めることは昔も今も変ることがない

平成7年5月5日

(碑文より)



静岡県富士宮市宮町1-1

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史跡 | 14:13:44 | Comments(0)
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