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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
57歳
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)

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永慶寺跡
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(山梨県甲府市・護国神社脇)

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龍華山永慶寺跡

護国神社の境内とその周辺は、江戸時代に老中首座として幕政を担った柳沢吉保の菩提寺「龍華山永慶寺」の建てられたところである。
将軍徳川綱吉の信任厚い吉保が、小姓から異例の出世を遂げて甲斐三郡の領主に任ぜられたのは宝永元年(1704)のことで、その翌年から永慶寺の造営が始まっている。
永慶寺は当初、穏々山霊台寺と称したが、地形普請の終了した宝永5年に龍華山永慶寺と改められた。
以後、京都万福寺の大工秋篠家や甲府・下山・江戸の大工を動員して伽藍の建設が進められ、宝永7年に完成した。
永慶寺は禅宗の一派である黄檗宗の寺院であり、同宗本山の京都万福寺8代悦峯禅師を開山祖に迎えている。
永慶寺の伽藍は甲斐国第一を競う規模で、仏殿を中心に北に方丈、東に斎堂、西に禅堂、南に天王堂と惣門を配するなど、万福寺の伽藍配置を模倣したことがわかっている。
正徳4年(1714)に吉保が57歳で没すると、江戸から永慶寺に運ばれて埋葬された。
吉保の正室定子と側室(嫡子吉里の母)もこの寺に葬られている。
永慶寺の諸堂は、享保9年(1724)に行なわれた吉里の大和郡山(奈良県大和郡山市)への所替えに伴い取り壊されたが、寺は郡山城の近くに再建され、現在に至っている。
なお、解体された永慶寺の仏殿は、大泉寺の本堂として移築されたが、江戸時代に焼失した。

平成4年1月
相川地区文化協会

(説明板より)

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龍華山永慶寺

この寺は、はじめ穏々山霊台寺といい、甲府城主柳沢吉保公が自らの菩提寺として悦峰禅師を開山に、宝永5年(1705)この地に建立した黄檗宗の寺である。
寺領370石、正徳4年(1714)吉保公を、前年に同夫人を葬った。
家督を相続した吉里は、享保9年(1724)大和郡山に転封となったため、これに伴って吉保公夫妻の墓を恵林寺に改葬して寺を廃し、新たに大和郡山に永慶寺を建立した。
当時の永慶寺は、「甲陽柳秘録」に「殿堂甍並べ、門楼高く聳えて、風景国郡に冠たり」と見え、七堂伽藍を備えた美麗を極めたものであった。
ここに永慶寺に関連する礎石、石塔等を集め、寺跡碑を建てる。

(碑文より)
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史跡 | 14:32:18 | Comments(0)
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