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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
60歳・・・還暦である。
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)
今さら、もう無理!(大笑)

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半年ぶりのルソン島(5)
バギオ市内に向かってナギリアン道を登る・・・・
市内に入る手前に「日本人墓地」がある。
明治の末に、ベンゲット道建設のため移住し、病や事故で亡くなった方々が葬られている場所である。
ここにも立ち寄ることにした。
9年ぶりの再訪問である。

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(ナギリアン道から見た墓地)

当時は「日本人墓地」と呼ばれていたが、現在では現地人の墓が増え、日本人の墓石はわずかに残るのみ。
現在では『パブリック墓地』となっている。
当時の「日本人墓地」の規模がどのくらいかはわからないが、この墓地も激戦地である。
バギオ市内に入る米軍を阻止する“最後の砦”だった。

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現在残っている「日本人墓地」は、この狭い一画のみである。
墓石は戦前のものである。
ここには「先亡同胞諸精霊菩提塔」というのが建っている。

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この塔は大正11年5月1日にバギオ日本人会によって建立されたと刻まれている。
が・・・更に・・・
「内閣総理大臣 陸軍大将 男爵 田中義一閣下 寄建」とも刻まれている。
田中義一総理大臣が寄贈したということなのだろうが・・・
大正11年の時点で、田中義一は陸軍大将ではあったが、総理大臣ではない。
陸軍大臣を務めていたが、大正10年に辞任している。
彼が軍人から政界へ転じたのは大正14年になってからで、昭和4年になって内閣総理大臣となっている。
ということで・・・建立したとされる日付と合わない・・・(笑)
これは昭和に入ってから再建したということか、それとも後から総理大臣の名前を拝借して刻み込んだのか・・・

ナギリアン道のイリサンにおける戦車特攻とイリサン橋周辺の戦闘で、米軍は約1週間ほど足止めを食ったらしいが、米軍は日本の防衛線を撃破して更に進撃してきた。
ベンゲット道のキャンプ・スリーで戦っていた歩兵第71連隊は、第23師団(旭兵団)の命令により、昭和20年4月19日、イリサン方面に転用される。
が・・・この段階では既にイリサン方面の戦闘は最終段階・・・
バギオの防衛戦に投入されることとなる。

戦車特攻を行った、我が戦車第2師団(撃兵団)の戦車第10連隊第5中隊(桜井中隊)は、昭和20年4月23日に、第14方面軍の命令により、この「日本人墓地」に出撃した。
この時の桜井中隊の手元にあった戦車は、九七式中戦車2両、九五式軽戦車1両の合計3両・・・
しかし、九五式軽戦車は故障のため使えず、結局九七式中戦車2両だけの出撃となった。
情けないことに、この2両の戦車がバギオ防衛の切り札なのである。
対する米軍のM4シャーマン戦車は60両ほどが進撃してきたという。
悲壮な出撃と言わざるを得ない・・・
桜井中隊長は、中隊の総力をもって出撃することを決し、戦車に乗らない中隊員約60名は、蒲団爆弾を抱えて敵戦車に肉弾特攻をすることとなった。
これら「肉攻班」は白鉢巻を締め、自動貨車(今で言うトラック)2台に分乗して出撃したという。

途中で、キャンプ・スリーから撤退してきた歩兵第71連隊の「肉攻班」を指揮下に入れる。
この肉弾特攻をする歩兵たちは第10中隊(中隊長:大山正一中尉)の兵達である。
彼らも従えて、車体に火薬入りのドラム缶を括り付けた戦車2両が「日本人墓地」に向かって進む。
昭和20年4月22日の朝・・・
米軍がナギリアン道の周囲、崖の斜面などに対して砲撃を開始する。
道路の脇、崖の斜面に蒲団爆弾を抱えて待機している「肉攻班」がいると見ての砲撃だったのだろう。
22日の夜になり・・・
桜井中隊以下の特攻隊は、「日本人墓地」にまで進出して露営していた米軍に対して特攻攻撃を敢行!

桜井中隊長は、部隊を2つに分ける。
右側を進むのが中隊長車の戦車1両と「右肉攻班」・・・・
左側を進むのは、もう1両の戦車と「左肉攻班」・・・

この時、桜井中隊の中隊長、桜井隆夫大尉は戦車に乗らず、白鉢巻と背中には十字に白襷をして徒歩で戦車の前を歩き、後続してくる右側を進む戦車と「右肉攻班」の指揮をとった。
夜間の戦車の移動は難しく、徒歩で誘導したほうが良いと見てのことだったのだろう。
そして・・・「日本人墓地」に突っ込み乱戦となる。
桜井中隊長は、左胸に敵弾を受けて戦死・・・
桜井大尉の遺体を2両の戦車のうちの1両、中隊長車の上に乗せて、更に突っ込む。
左側を進むもう1両のほうは、途中で穴に落ちて動けなくなり、その場所から戦車砲と機銃を撃ちまくったという。
この戦車に乗っていたのが誰だったのかは資料が残っていないので残念ながら不明である。

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桜井中隊長の遺体を乗せたまま走り回ったのは・・・このあたりか?
向こうに見える家の建っている小山は日本軍の防衛陣地跡である。

桜井中隊長の遺体を乗せた「右攻撃隊」の戦車は、「日本人墓地」からナギリアン道へ出て逃げるM4シャーマン戦車を追った。
この時に、山の裾野に隠れていたM4シャーマン戦車に至近距離から横っ腹を撃たれ、桜井中隊長の遺体を乗せたまま炎上したという。
この戦車を指揮していたのは松下康治少尉・・・・その他の乗員の名前は資料が残っていないのでわからない。

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(旧・日本人墓地の入り口)

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「日本人墓地」の入り口から見た墓地の前の道(ナギリアン道)・・・・
この道の先のほうで、桜井中隊長の遺体を乗せた中隊長車が敵の攻撃を受け炎上した・・・

もう少し、この周辺を散策して、更には、このナギリアン道を歩いて調べてみたかったのだが・・・
“ステラさん”が嫌な顔をするのである。(大笑)
拙者に万が一のことがあっては・・・と心配するのである。
墓地の中でも現地人が何人も寄ってきて、物乞いしたり、何かを売りつけようとしたりと大変であった。
“ステラさん”としてはサッサと車に乗ってもらいたいらしい・・・(大笑)
拙者としては、寄ってくる現地人を怖いとは思っていないので・・・
別に平気なのだが・・・
それより徒歩で調べねば、当時の状況がわからない。
もう生還者がこの地を案内してくれるなどということはあり得ないのだ。
自分の足で調べねばと思うのだが、それをなかなか許してもらえないのには閉口した。(涙)
車もピタリと拙者に寄り添うようにして走る・・・
写真を撮るのに邪魔になるから付いて来るなと命じて・・・
「もう少し先まで、ちょっと歩いてみるから・・・」と言うと、みんながギョッとした顔をして・・・その後、呆れ顔になる。(大笑)
何がそんなに楽しいのか・・・と思っているのだろうが・・・
拙者の頭の中に浮かんでくるのは昭和20年の当時の様子しかないのである。(笑)

左側から攻撃を仕掛けた「左肉攻班」は藤田秀史少尉(戦後生還)であるが、敵の銃火が激しく動きが取れない。
多分、敵の戦車に近づくことが出来なかったのだろう。
夜が開けてしまったら全滅は必至であるので、夜のうちに闇にまぎれて撤退した。
この時の残存兵力は約40名・・・・
桜井中隊長以下約20名が戦死したため、第14方面軍司令部から原隊(戦車第10連隊)への復帰を命じられる。
生存者たちは自動貨車2両に分乗して「山下道」を使い、北部ルソンのアリタオへ向かう。
「山下道」は第14方面軍の山下奉文大将が作らせた補給路だったようである。
アリタオには兵站基地や病院があった。
この道は、以前は、車も通れないほど荒れ果てて獣道のようになっていたようであるが、最近、車が通れるように道が整備されたという。
いつか、この道を走ってみたいと思う。
「山下道」を使いアリタオに到着した残存兵は、原隊である戦車第10連隊の本隊がサラクサク峠で戦っていることを知り、戦闘に堪えられるもの約20名で現地に向かったらしい。
この頃、サラクサク峠では戦車第10連隊の原田連隊長と、拙者の祖父、捜索第10連隊長が、共同で米軍と戦っていたのである。
この約20名の第5中隊の残存兵達が無事にサラクサク峠に到着したのか、その後どうなったのか・・・資料が残っていないのでわからない。
少なくとも祖父の部隊に配属になったという話は聞いたことはない・・・


より大きな地図で バギオ・日本人墓地 を表示
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旅行 | 15:00:53 | Comments(0)
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