FC2ブログ
 
■プロフィール

野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
60歳・・・還暦である。
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)
今さら、もう無理!(大笑)

■最近の記事

■月別アーカイブ

■カテゴリー
■FC2ブログランキング
■ブロとも申請フォーム
■最近のコメント
■小さな天気予報


-天気予報コム- -FC2-

■ブログ内検索

■リンク
■RSSフィード
■FC2カウンター

半年ぶりのルソン島(4)
キャンプ・スリーの慰霊碑の場所で時刻は午後2時・・・
バギオのホテルには午後2時半に到着予定でいたが、ちょっと間に合いそうもない。(笑)

午後2時半にバギオのホテルで、以前ガイドとして一緒に行動を共にしたバギオ在住の“ドミンさん”と待ち合わせを予定しているのだ。
“ステラさん”を通して事前に連絡をしてもらっていたが・・・
当初、彼の携帯の電話番号が変わったのか、連絡がとれないと言う。
旅行社や“ドミンさん”の親戚などと連絡を取ってもらい、ようやく連絡がついたのである。(大笑)

“ドミンさん”は、拙者が初めて一人でフィリピンに来た時にガイドを勤めてくれた“おじいちゃん”である。
もうあれから11年も経つのか・・・・
が・・・平成17年の旅行以来、彼には会っていない。
この時に、一緒にルソン島の拙者の祖父の陣地跡を訪ね山を登ったが、途中で“ドミンさん”が心臓発作を起こしたのである!
この時は、さすがに、拙者もビックリした・・・
その後、ルソン島に引き続き、レイテ島に渡った時には再発することはなかったが・・・
レイテ島では、車で移動中に“ドミンさん”は居眠りのしっぱなしで、ドライバーからも「これでガイドなのか?」と呆れられた。(笑)
高齢だから、もう一緒に行動するのは無理だろうと思い、それからはガイドを“ステラさん”に変えたのである。

というわけで・・・“ドミンさん”とは7年ぶりの再会である!(喜)
予定より30分も遅れ午後3時にホテルに到着。
“ドミンさん”はホテルの外に立って待っていてくれた!
「おお!ドミン!久しぶり!」(笑)

まだチェックインには時間があるので、“ドミンさん”を乗せて一緒にイリサンという場所へ向かう。
バギオでの目的の一つに、このイリサンへの訪問を入れておいた。
イリサンに向かう山道・・・バギオから下る感じになるのだが・・・

バギオには大きく三方向から町に入る道路がある。
1本は、我々が通ってきた、南からバギオ市内に入る「ベンゲット道」(国道11号線)
もう一つは北からバギオ市内に入る「ボントック道」(国道11号線・バギオ市内を貫いている)
そしてもう一つは西からバギオ市内に入る「ナギリアン道」(国道9号線)である。
我々は、この「ナギリアン道」を下り、イリサンに向かう。

このイリサンという場所のカーブのところで、我が戦車第2師団隷下の戦車第10連隊の戦車2両が、車体の先端に爆薬を装着し、敵のM4シャーマン戦車に体当たり特攻を敢行したのである。
その現場を確認したいというのが、今回、バギオに来た目的の一つである。

“ドミンさん”の案内で、その現場に到着・・・
「ここが、その特攻をした場所だ」というのだが・・・

049_convert_20121026142546.jpg

なんとなく地形は似ているが・・・腑に落ちない・・・・
イリサン川に架かる橋を渡り、その先の通称「コブ山」というのが道の左側にあり、その先のカーブが現場のはずだが・・・
橋を渡った記憶がない・・・(笑)
確かに左側に「コブ山」っぽい小山があるが・・・拙者の勘が納得しない・・・(笑)
「ドミン!ここは違うんじゃないか?」
「いや、ここだ」と“ドミンさん”が言い張る。(笑)
いや、いや、違うな・・・ここは違う!

ドライバーに、もっと先まで行くように言う。

約5分ほど走ると、前の方に橋らしきものが見えたので、ここで車を止め徒歩で確認する。

052_convert_20121026143942.jpg 054_convert_20121026144259.jpg

見つけたぞ!(喜)
これがイリサン川にかかる「イリサン橋」である!
標識にもそう書いてある!
ということは・・・この先だな・・・
橋を渡った先の正面に見える小高い山は日本軍の陣地跡である。

059_convert_20121026212111.jpg
(橋を渡り振り返りバギオ方向を見る)

橋の右側、家が建っているところ、橋の左側の山、いずれも日本軍の陣地跡である。
日本軍はこの橋の周辺を防衛線として、頑強な抵抗をしたらしい。

車を適当な場所に停めて、拙者は徒歩で探すことにする。

“ステラさん”からは、危ないから車で行こうと言われたが・・・・(笑)
車に乗って一気に坂を下られたのでは、見つかるものも見つからない。
ここは徒歩で探さねばなるまい。
頑強な抵抗をして、拙者は道路を歩く・・・(大笑)
渋々、“ドミンさん”と“ステラさん”が後からついてくる。(大笑)

2分ほど歩いたら・・・見えた!
まさしく「コブ山」である!(喜)

060_convert_20121026150513.jpg

“ステラさん”の話によれば、日本から来る慰霊団は、この「コブ山」のところで慰霊祭をしているという。
しかし、戦車による特攻が行われたのは、正確にはこの場所ではない。
この先のカーブの頂点で敵戦車に体当たりをしたのである。
なんでここで慰霊祭をしているんだろう?
“ステラさん”は「バスが停めやすい場所だからじゃないでしょうか?」と言う。
カーブのところでは危ないから、便宜上、ここで・・・ということなのだろうか?

問題は、この「コブ山」から先である。
生還者が書き残した当時の説明地図では、この先は大きくS字にカーブしている。
しかし、目の前の道は直線・・・・
別の資料では、戦後、直線に変えたというのだが・・・
山側にあるはずの当時の古い道(旧道)を探したら、細い道が山の中に向かって1本見つかった。
が・・・州政府の管理区域らしく立ち入り禁止らしい立て看板が出ていた。
奥をのぞいてみると、鉄扉と、どうも何かの施設らしき建物が見えた。
とりあえず、ここは後で調査するということにして先を急ぐ。

061_convert_20121026164034.jpg

資料に従えば、「コブ山」の先の一番最初のカーブが体当たりの現場ということになるから・・・
この先に見えるカーブがそうなのかもしれない。

063_convert_20121026165444.jpg

カーブの頂点辺り・・・・
ここが体当たりの現場か?
このカーブからU字型に道路があったはずなので、山側に旧道がないかと見たが、何も見当たらない。
こうなると、果たしてこの資料が正しいのかどうか・・・・
生還者もしくは関係者の記憶というのもあまり当てにはならないからなぁ~
少々不安になる。

体当たり特攻を行ったのは、我が戦車第二師団の戦車第10連隊第5中隊の戦車である。
通称「桜井中隊」・・・・
連隊からバギオの第14方面軍に派遣され、方面軍直轄部隊(従来の連隊からの命令ではなく、方面軍の命令で直接動く)となった部隊である。
当時のバギオは、フィリピンのゲリラが多くいて、各所でゲリラ攻撃をしていた。
これに対し、戦車1個中隊があれば、ゲリラは戦車を嫌がるので、彼らの動きを制することが出来るだろうということでバギオに派遣されたらしい。
この第5中隊は、フィリピンに来た時、輸送船が撃沈され戦車を全て失っている。
兵達は海から助け上げられたようだが、戦車がないので、フィリピンで補充を受けたが、台数は少なかったようである。
昭和19年12月5日にバギオに到着し、守備に着く。
この時の兵力は九七式中戦車3両、九五式軽戦車2両しかなかった。
昭和20年4月15日、この中から戦車特攻として九七式中戦車1両と九五式軽戦車1両が選ばれた。
特攻隊員は11名・・・・この中には17~18歳の少年戦車兵も含まれていた。

昭和20年4月17日午前9時半ごろ、山道をやってくる米軍に対して特攻を敢行する。
「第1車」は九五式軽戦車・・・・
突撃を敢行した時、敵の先頭の戦車は慌てて方向転換をしようとしたが、誤ってこのカーブから崖下に転落した。
「第1車」は次の戦車の脇を通り抜け、その後ろの戦車に体当たりを敢行!
車外員という戦車の上に乗っていた兵2名は、体当たりの寸前に戦車から飛び降り、蒲団爆弾という座布団のような形をした爆弾を抱えてM4シャーマン戦車に突入することになっていたが、そのうちの一人、中山誉雄兵長(17才)は敵戦車の砲弾を浴びて爆発した砲塔と一緒に飛ばされ、奇跡的に生き残った。
「第1車」の操縦手、平野伊孝軍曹は燃え上がる戦車から飛び出し、敵中に飛び込んでいったが敵の機関銃弾を浴び戦死した。
「第2車」は九七式中戦車・・・・
崖下に転落した戦車のすぐ後ろにいた戦車に体当たりを敢行する。
「第2車」の操縦手、平野国雄軍曹は、燃える戦車から日本刀を抜いて飛び出し、敵陣に突っ込んだが、彼も敵の機関銃弾を浴びて戦死したという。
車外員2人のうちの一人、道清茂軍曹は、突撃前に敵の弾を受け、負傷したので、その場におかれて、近くにタコツボを掘って待機していた「肉攻班」(これも蒲団爆弾を抱えて突っ込む予定の歩兵たち)に収容され、生き残っている。

戦車特攻の編成は以下・・・・
(第1車:九五式軽戦車)
車長:丹羽治一准尉
操縦手:平野伊孝軍曹
銃手:末吉清一伍長
車外員:黒川利美伍長
車外員:中山誉雄兵長(生還)
(第2車:九七式中戦車)
車長:西利良曹長
操縦手:平野国雄軍曹
砲手:浜野音蔵軍曹
銃手:四方驥兵長
車外員:道清茂軍曹(生還)
車外員:田村平一兵長

特攻隊員11名のうち9名がこの体当たり攻撃で戦死した。

沿道にタコツボを掘って敵の戦車に体当たりをする予定の「肉攻班」は、敵の猛烈な機銃掃射を受け、頭も上げられない状態のため、特攻を諦めたそうであるが・・・
壮絶な特攻を目の当たりに見て逃げ出したという話をどこかで聞いたか読んだかした記憶がある。
この特攻攻撃で、米軍のバギオ進入は、かなり遅れたそうである。
時間稼ぎにはなったが、犠牲は大きかった・・・
このイリサンでは約6日間に亘って攻防戦が展開されたらしい。
バギオから、とにかく健康な兵士を1500名以上送り出したそうだが、戦場に到着した兵は500名程度だったらしい。
はて?・・・その他の兵達はどこへ行ってしまったのか?

064_convert_20121026211148.jpg

カーブの頂点から、西方向(米軍がやって来た方向)を見る。
当時は今より道路幅は狭かったと思うが・・・・
やって来たのは、M4シャーマン戦車を先頭にした米歩兵第148連隊の2個中隊の車列だったと思う。
この道にズラリとトラックが並んだのだろう。

気になるのは、体当たりをした戦車のことである。
道路上には炎上する日米両戦車4両が道を塞いでいたはずである。
これを撤去するとすれば、崖下に突き落とすという方法を取ったのではあるまいか?
ブルドーザーとかM4シャーマン戦車で押して・・・・
もし、そうなると、このカーブの崖下に日本軍の戦車が今でもあるという可能性があるのではあるまいか?
車内には戦死した戦車兵の遺骨が今も残っているのではあるまいか?
道路上で戦死した戦車兵の遺体も崖下に投げられた可能性もある。
戦後、戦車を崖下から引き上げるなんていう面倒なことはしなかったのではあるまいか?
そう思うと、今も崖下の樹林の中に眠っているような気がしてならないのである。
確かめる術はないだろうか・・・・

念のため、このカーブの先までずっと歩いてみる。
もしかして、同じような景色があったら、拙者の勘違いということになる。
が・・・小さな集落が現れてきたので、ここで諦めて戻ろうとしたら・・・・
どうやら“ステラさん”が携帯電話で運転手と連絡をとったらしい。
車が迎えに来た!(笑)
もうこれ以上、歩かされたら堪らん・・・ということなのかな?(大笑)

帰り道、歩きながら旧道を探したかったのだが・・・・
車が迎えに来たのでは無視はできない。(涙)
やむなく、車に乗り、バギオ方面へ坂道を登る・・・
一気に走るので、やはり車内からは確認できなかった・・・・(涙)
また機会があったら、もう一度訪れて再調査したいと思う。


より大きな地図で イリサンの戦車特攻地点(推定) を表示
スポンサーサイト





旅行 | 13:59:58 | Comments(0)
コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する