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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
59歳
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)

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半年ぶりのルソン島(3)
ウルダネタを出発して北上、約1時間後、ロザリオという町の手前のレストランで食事をする。
時刻は午後1時・・・

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今回の旅では、基本的に食事代は含まれていない。
食事代は現地で直接拙者が支払うことになっている。
拙者とガイドの“ステラさん”、ドライバーの“ラオルくん”の3人で約600ペソ(約1200円)ぐらいだったと思う。
下手に食事代が旅費に含まれてしまうと、自由が利かない・・・
現地払いにしておけば、皆と一緒に好きなものが食べられる。(笑)
というわけで・・・拙者は基本的に食事代は含めないようにしてもらっている。
“ステラさん”は「食事代はいくらぐらいを考えていますか?」と拙者の予算を気にするのだが・・・
拙者は経済観念のない“お坊ちゃま”である。(笑)
「いくらでもいいよぉ~!食べたいものを食べよう!」と答えるので、彼女は毎回、食事の内容に苦慮してる。(大笑)

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レストランの前の道・・・
ここを向こうへ(北へ)向かって進む・・・・

まもなく山道に入る。
この道路は、「ケノン道路」と呼ばれている。
アメリカのケノン大佐が、この道路の開削の指揮をとったので、その名が付けられたのである。
バギオに向かうこの道路の開削には、多くの国の労働者が投入された。
フィリピン人、中国人、カナダ人、ハワイアン、メキシコ人、インド人、チリ人、ペルー人、スペイン人、イタリア人、ロシア人、ドイツ人、フランス人、ポルトガル人、スウェーデン人・・・等々・・・
しかし、どこの国の労働者を使っても上手くいかなかったそうで、最終的に日本人移民労働者が、これに当たり、多くの犠牲者(700名といわれている)を払って、1905年(明治38年)に、この道路が開通したのである。
日本側は戦時中、この道路を「ベンゲット道」もしくは「国道11号線」と呼んでいた。
バギオはベンゲット州なので、ベンゲットと名付けたのだろう。
「ケノン道」とは言わない・・・・
“ステラさん”が「アメリカの大佐の名前が付いている道路だから嫌だったんですかね?」と笑う。
多分、そうだろうなぁ~(笑)

山の斜面を削って道路を作ったのだろうが、今ではかなり広く良い道路になっている。
が・・・一部、まだ狭いところもあり、また、工事中のところが何箇所もあり片側通行の場所も多い。
拙者が、昨日マニラに一泊したのは、実は、このためなのである。
マニラに到着してから真っ直ぐバギオに向かっても行けない事はないのだが、この山道に達した頃には真夜中近くになる。
こんな崖の斜面を走る道路を夜間には走りたくない。(大笑)
ひとつ間違えれば、奈落の底に転落する。
実際、時々事故も起こっているようである。
命をかけてまで急ぐ旅ではないので・・・(大笑)
マニラに1泊して、午前中に出発するという旅程にしたのである。

042_convert_20121025111625.jpg(慰霊碑のある場所)

キャンプ・スリーという場所に日本軍の慰霊碑がある。
歩兵第71連隊会が昭和57年3月16日に建立したものである。
山の麓からキャンプ・ワン、ツー、スリーと上に向かって“キャンプ”という名称が残っている。
たしか・・・キャンプ・セブンまであったと思う。
これは、多分、この道路を開削する労働者のキャンプ(日本流で言えば飯場)の名残なのかな?

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このキャンプ・スリー周辺には、第23師団(旭兵団)の歩兵第71連隊がバギオ防衛のために展開していた。
鹿児島の兵達である。
バギオは日本で言う所の軽井沢のような場所で、避暑地である。
戦前には、フィリピン政府は夏はここへ移動して、バギオで政務を行っていたという。
現在ではエアコンが完備されているから猛暑のマニラから政府が移動するということはないが・・・(大笑)
ダバオにはフィリピン防衛の指揮をとる山下奉文大将の第14方面軍が移動していた。
このバギオを攻撃するために米軍が山を登ってくる・・・
(主力は米歩兵第136連隊だと思う)
それを途中で迎撃するのが歩兵第71連隊の使命・・・・
この連隊の他にも第23師団隷下の部隊も展開していたようである。

039_convert_20121025121311.jpg(キャンプ・スリーの橋)

キャンプ・スリーの橋梁地区に第23師団工兵第23連隊の一部が配置されていた。
(ということは・・・このあたりかなぁ~という気がする)
昭和20年3月17日の夜、ここ地区の手前に展開していた第23師団歩兵第64連隊の正面に米軍が攻撃を仕掛けてきた。
これに対して工兵隊は斬り込みを敢行・・・
敵の戦車数両を破壊し敵兵数十名を殺傷したが、斬り込みを敢行した工兵隊員は全員戦死した。

ここキャンプ・スリーは激戦地であったのである。


より大きな地図で キャンプスリーの慰霊碑 を表示
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旅行 | 12:30:17 | Comments(0)
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