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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
59歳
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)

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旧岩国藩家老 吉川氏屋敷跡
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旧岩国藩家老 吉川氏屋敷跡

駿河(するが)(静岡)を拠点として活動していた吉川(きっかわ)氏は、正和2年(1313)、吉川経高(つねたか)の代に弟たちとともに安芸(あき)(広島)に拠点を移した。
これが安芸吉川氏であり、後の初代岩国藩主吉川広家(ひろいえ)はその直系にあたる。
それに対し、吉川経高とともに安芸に移った弟の一人、吉川経茂(つねしげ)は、後に石見(いわみ)(島根)に領土を得て移り住んだため、石見吉川氏と呼ばれている。

天正9年(1581)、織田信長の命により中国地方に進出した羽柴秀吉は、鳥取城へ軍を進めた。
このとき、鳥取城主であった山名豊国(やまなとよくに)は、羽柴秀吉に降伏しようとしたが、降伏を望まない家臣の中村春続(はるつぐ)・森下道誉(どうよ)が、山名豊国を城外へ追い出し、安芸の吉川元春(もとはる)に城将の派遣を願った。
それをうけた吉川元春は、石見吉川氏10代目にあたる吉川経家(つねいえ)を鳥取城へ派遣することとした。
部下とともに入城し、決死の覚悟で守る吉川経家に対し、羽柴秀吉は、2万の大軍を率い、三里四方にわたる大規模な包囲網をしき、また、織田軍による外部からの輸送の遮断によって、鳥取城を兵糧攻めすることとした。
悪条件の中、吉川経家は抵抗を続けよく守ったが、時とともに鳥取城内には餓死者も増え、これ以上の抵抗は死者を増やすだけであると判断し、責任者以外の城兵の助命を条件に開城条約を結ぶことを決意した。
羽柴秀吉側の提示した条件は、主君山名豊国を追い出して今回の戦いの原因を作った中村春続・森下道誉ほか数名の切腹を求める一方、吉川経家をはじめ、安芸から派遣された城兵の命は助けるというものであった。
これに対し吉川経家は、主君山名豊国に対しては不忠であったが、毛利氏や吉川氏に対し功績のあった中村春続・森下道誉の2名の助命と、派遣されたとはいえ、城将となった責任として吉川経家自身の切腹を願い出た。
双方の意見が分かれ、羽柴秀吉としても、吉川経家のような義にあつい人物を殺すにしのびず説得を続けたが、合意には至らず、結局、吉川経家の切腹を認め、吉川経家も中村春続らの切腹を受け入れることとした。
天正9年10月25日、経家は自刃し、35歳の若さでこの世を去った。
そして、鳥取城は開城し、条約を守った羽柴秀吉によって多くの城兵はそ命を救われることとなった。

吉川経家の子経実(つねざね)は、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの後、吉川広家に従って岩国に入り、その後は代々岩国藩の家老を務めた。
この地は家老として仕えた石見吉川氏の屋敷地であった場所であり、江戸中期頃建築された長屋が遺構として残っていたが、老朽化により平成23年に解体された。

平成23年3月 岩国市教育委員会

(説明板より)


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史跡 | 12:22:58 | Comments(0)
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