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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
59歳
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前田砲台跡
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前田砲台跡

「前田砲台」は外国船来航などにより緊張が高まった幕末に、長州藩が諸外国の排除を目的とした攘夷戦争に備えて十数ケ所に設置した砲台のひとつです。
開門海峡に面した茶臼山山麓の標高10mほどに設置された低台場と標高16mほどに設置された高台場からなり、青銅製の大砲(長州砲)20門を設置した中心的軍事施設でした。
文久3(1863)年5月、長州藩は攘夷(諸外国の排除)を決行し、関門海峡を通過する米仏蘭の艦船に対し、海峡沿に設置した砲台や軍艦から三度にわたり砲撃を加えました。
しかし、翌6月には、米軍艦が報復措置として長州藩の軍艦を砲撃、沈没させたのに続き、仏軍が前田砲台(低台場)を攻撃、破壊しました。
この攻撃後、低台場の補修と高台場の急造がなされ、前田砲台は補強されましたが、翌元治元(1864)年8月5日、英米仏蘭の四国連合艦隊が集結し、再度関門海峡沿いの砲台に対して砲撃を加えました。
この激しい攻撃により、長州藩は大敗を喫し、前田砲台は連合軍に占領されました。
砲台関係施設はことごとく焼き払われ、設置された大砲は、すべて戦利品として接収されました。
この四国連合艦隊による砲撃事件は、下関戦争とも呼ばれ、長州藩において尊皇攘夷から開国を主張する勢力が台頭する契機となり、ひいては、明治維新以降の日本の近代化へ続く大きな転換期の端緒として、極めて重要な意味を持ちます。
また、その主要な舞台としての役割を果たした「前田砲台跡」もまた、重要な価値を持っているといえます。
「前田砲台跡」は平成11年~14年に、山口県教育委員会により、発掘調査が実施されました。
調査の結果、大砲の具体的設置状況は不明であるものの土塁、排水溝、大砲設置平坦面および作業ヤードと考えられる後背平坦面等、砲台施設の一部が検出されました。
また、激しい戦闘の様子を物語るように、低台場では四国連合軍の艦船から打ち込まれたものと考えられる砲弾が、地中にめり込む形で発見され、また、両台場とも占領後に焼き払われたことを示すように、焼土の堆積が確認されました。
この発掘調査の成果と、連合艦隊占領時に英国軍により作成された測量記録の対比から、「前田砲台」の具体的な構造が明らかとなりました。
なお、連合軍により接収された大砲(長州砲)の1門が120年後の昭和59(1984)年、永久貸与の形でフランスの軍事博物館から下関市に里帰りしました。
現在、市立長府博物館に展示されています。
また、壇浦砲台が設置された関門橋付近のみもすそ川公園には、筒先を関門海峡に向けた長州砲のレプリカが並んでいます。

平成20年12月 下関市

「前田砲台跡」を世界遺産に!
下関市は、平成19年12月、九州・山口の6県10市と共同で、世界遺産暫定一覧表記載資産候補提案書「九州・山口の近代化産業遺産群ーー非西洋世界における近代化の先駆けーー」を文化庁に提出しました。
平成20年9月には、「九州・山口の近代化産業遺産群」が文化審議会文化財分科会世界文化遺産特別委員会における調査・審議の結果、「世界遺産暫定一覧表記載文化資産」とされました。
「前田砲台跡」は、当該資産の構成資産の一つであり、下関市は、「前田砲台跡」が世界遺産に登録されることを目指しています。

(説明板より)
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史跡 | 18:40:53 | Comments(0)
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