FC2ブログ
 
■プロフィール

野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
59歳
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)

■最近の記事
■月別アーカイブ

■カテゴリー
■FC2ブログランキング
■ブロとも申請フォーム
■最近のコメント
■小さな天気予報


-天気予報コム- -FC2-

■ブログ内検索

■リンク
■RSSフィード
■FC2カウンター

オリオン峠
オリオン峠の慰霊碑・・・・見つけた!
が・・・意外にも道路の脇にある!
あれ~イメージが違うんだよなぁ~(笑)
山の頂上にあると思っていたんだけど・・・
こんなとこ?(笑)

DSC04424_convert_20100514204355.jpg

慰霊碑は学校のようなところの脇にあったが・・・
廻りはフェンスで囲まれていて、しかも、ブロックが積まれつつある。
どうも工事中のようなのだが・・・・
あれ?入口がない!(笑)
そんなバカな・・・
と・・・
近所の人たちが集まってきた。
どうもこの慰霊碑の管理をしている“おばあちゃん”が身ぶり手ぶりで、ブロック塀を乗り越えて中に入っていいと言ってくれたので・・・(多分そう言っていたと・・・思う・・・笑)
ブロックを乗り越えて中に入ってみたら・・・・
あれ!!!
なにこれ!!
一瀬部隊の慰霊碑じゃないですか!
これにはさすがに驚いた。
「オリオン峠の慰霊碑」というのは知っていたが、まさか一瀬部隊のものとは思わなかった。
事前の勉強不足である。

DSC04420_convert_20100514205055.jpg

この碑は昭和59年に建立されている。
その建立した人(団体?)が、お金を出して、周囲の整備をさせているのだそうだ。
ブロック塀はその工事途中ということだそうだ。
最近では、戦友会、遺族会が解散となり、慰霊碑の管理費を払う人がいなくなり、フィリピンでは次々と慰霊碑が撤去されているというのに、ここは整備しているんだから大したものである。
慰霊碑の裏面に長文の英文で碑文が刻まれているが、日本文は「一瀬部隊玉砕散華之戦跡」としか記されていない。

ここオリオン峠には二宮大隊(独立歩兵第184大隊)がいたが、この部隊は別な場所に転進し、代わりに一瀬大隊(独立歩兵第179大隊)、山下大隊(独立歩兵第175大隊)が陣を敷くことになる。
この峠でサンチャゴに向かい北上してくる米軍を迎え撃つということなのだろう。
昭和20年6月9日に一瀬大隊(独立歩兵第179大隊)の2個中隊が到着している。
6月12日の夜にはサンチャゴにある第103師団司令部まで砲声が聞こえたという。
たぶん、この頃から戦闘が始まったのだろう。
13日には大隊長の一瀬末松大佐(陸軍士官学校26期)が戦死し、山下大隊の山下大隊長が指揮を執る。
14日には師団司令部のあるサンチャゴが砲爆撃を受け戦車も侵入してきたというが、一瀬、山下両大隊は15日までオリオン峠の一角を保持していたという。
『戦史叢書』によれば、こういうことだそうだ。

また、一瀬部隊は、本部と4個中隊の他に銃砲隊と作業隊があり、総勢1100名の部隊だったらしい。
で・・・戦後の調査では・・・
戦死500名、生死不明400名、戦病死200名で・・・合計すると1100名・・・
つまり、玉砕したということになる。
“サトウさん”のおじいさんは、生死不明の400名か戦病死の200名の中に入っていることになるが・・・
それにしても生死不明が400名とは多すぎる。
これは、大隊本部が各中隊の状況を把握していなかったためではあるまいか?

この旅の事前に、多少資料などを探したが、その中に生還した衛生兵が昭和38年に証言した記録があった。
それによれば、オリオン峠には本部と第1、第2、第3中隊が1日おきに峠に到着し、その後、第1、第2中隊は殆ど消滅したという。
消滅とは、まさしく消えてしまった・・・ということだろう。
全滅したのか、それとも散り散りになったのか・・・その姿が見えなくなったらしい。
戦果を挙げたのは第3中隊のみだったという。
斬り込み隊は、戦車1両、砲車数両を爆破して、食糧を分捕って帰って来たという。
が・・・結局は、その後、ほぼ玉砕してしまったらしい。

さて・・・ここでまた頭が混乱して来たぞ。(笑)
“サトウさん”のおじいさんの所属中隊に関して分からなくなってきた。(笑)
だいたい“唯一の生還者”から話を聞いた人からの「伝聞」だから始末が悪い。
どうして生還者自身が直接遺族に伝えなかったのか・・・不思議である。
間に入って”第3小隊唯一の生還者”の話を伝えてきた人の手紙によれば・・・
第3中隊は一瀬部隊が南下後、カワヤンに残っていたが、サンチャゴの師団司令部が敵に襲われたため南下したということになっている。
しかも、“サトウさん”のおじいさんの第3小隊は第3中隊の先頭を切って南下したという。
おかしい・・・(笑)
話が合わない・・・
一瀬大隊の生還した衛生兵の証言では、オリオン峠に第3中隊は到着して戦果を挙げているのである。
手紙を寄こした人の話は、『戦史叢書』(いわゆる公刊戦史)からの引用なのか?
この『戦史叢書』には間違った記載が多く見られ、拙者は書かれていることをあまり鵜呑みにはしないことにしているのだが・・・
よく遺族の中にはこれを鵜呑みにして、一方的に思い込みをして拙者に質問して来る人がいて、大いに閉口することがある。
これも、その一つかも・・・・
先頭じゃなくて、最後にカワヤンを出発したなら、辻褄が合う。
第3中隊本隊はオリオン峠で壊滅。
最後に出発した第2小隊、第3小隊の2個小隊は、本隊にたどり着けず、しかもサンチャゴにある師団司令部を蹴散らしてエチアゲまで進出して来た米軍と遭遇。
第2小隊長は砲撃で吹き飛び戦死。
第3小隊長の“サトウさん”のおじいさんは、部下を引き連れ川を渡って東方山中に逃げ込む・・・・
これなら辻褄が合う。
中隊の先頭を進んでいたのでは、オリオン峠まで到着してしまい、そこで戦うことになるからである。

“唯一の生還者”からの「伝聞」では日時に関して何も語られていないのだが、これなら時系列的にも合う。
しかも、これならば第3小隊が東方山中に逃げ込んだことも理解できるのである。
つまり・・・・
大隊も中隊もすでに全滅して合流できないのである。
本来ならば、本隊を追求、合流せず、途中で姿をくらますというのは「敵前逃亡」扱いにされてもおかしくないのだが、合流すべき本隊が玉砕していては合流したくても合流できない。
となれば・・・小隊が独自の判断で行動しても全く問題はない。

手紙や文献を読んでも、どうもピンとこなくて、よくわからなかったのだが・・・
実際に現地を訪れ、部隊の移動ルートを実際に移動してみて、その位置関係がわかってきたら、なんとなく“見えて”きた。(笑)

こういう調査は本当に難しいのだ。
生還者の話が必ずしも正確とは限らない。
どこかで勘違いや思い違い、言葉足らず、などがある。
で・・・文献の方にも間違った記載があったりする。
どれを信じていいのやら・・・ということになるが・・・
いくつもの資料を照らし合わせて、一番、可能性のある、辻褄が合う、理屈に適ったものを採用するしかない。
ということで、かなり相互にチェックしないといけないので大変なのだ。(笑)
それでも、真実はどうなのかはわからないんだから・・・・ある意味、悲しいといえば悲しい・・・
「事実は小説より奇なり」は実際にあり得るのだ。

いずれにせよ・・・この慰霊碑は一瀬部隊玉砕の慰霊碑であるから・・・
“サトウさん”のおじいさんの仲間の慰霊をせねば・・・
お線香をあげて供物を並べて手を合わせる。
(今回は歌は無し!・・・笑)
管理人の“おばあさん”に慰霊碑管理のお礼として寸志を拙者からコッソリ渡す。(笑)
そして、いつものように、集まってきた子供たちには供物を配ってもらう。

これで一瀬大隊全部の慰霊まで出来てしまった。
これはよかった。
立ち寄って“正解”であった。


より大きな地図で オリオン峠 を表示

(オリオン峠の位置は推定)
スポンサーサイト





旅行 | 20:37:51 | Comments(0)
コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する