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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
59歳
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)

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慰霊地をどこにしようか・・・
バレテ峠を越えて、今度は下り坂・・・・
サンタフェに到着。
ここは昔からある「宿場町」という感じの集落である。
ここには一時期、戦闘指令所や野戦病院もあったらしい。
この集落から西に向かって山道を入っていくと、サラクサク峠がある。
そこが祖父が戦っていた場所。
米軍は、サラクサク峠を越えて西からこの国道5号線を寸断するよう横切る作戦だった。
そのため、祖父たちは時間稼ぎの戦闘を続ける。
600名対米軍1個師団(米第32師団)である。
米軍は約2万名弱くらいいたであろう。
フィリピンに来る前はニューギニアで日本軍と戦った実戦経験のある部隊である。
600名の祖父の部隊は、一気に50名まで兵力を消耗。
この時に、戦車を失い歩兵化していた戦車第2師団が投入された。
激闘すること3ヵ月にも及び、結局、米軍は峠を突破できず諦める。
その代わり、第10師団が守る国道5号線上のバレテ峠が突破されてしまった。

このサンタフェを通過して北上へ逃げる日本軍将兵や在留邦人など民間人の退路を守るため祖父たちは戦っていたのである。
ある生還者から「あなたのおじいさんには会ったことはないが、サンタフェを通過する時に鈴木部隊が米軍を食い止めて頑張っているから今のうちに早く通過しろと言われたので名前だけは知っている。そういう意味ではあなたのおじいさんには恩義があるんだ」と言われて感激したことがある。
そのサラクサク峠には慰霊碑が建っているが、ここから更に山奥へ行く時間的余裕はない。
残念ながら、祖父の部下達のお参りには行けない。
今回は“サトウさん”ご家族がメインであるから・・・勘弁願おう。
たぶん「いいよ~」って言ってくれるだろう・・・と勝手に解釈し・・・(笑)
サンタフェのガソリンスタンドでトイレ休憩、一服して・・・さらに北上する。

今日の昼食はバヨンボンでとるのがいいのではないかと“ステラさん”と話をしていたのだが・・・
なんと、ドンピシャ!12時にバヨンボンに到着!(笑)
お~お~!完璧な旅行ではあるまいか?(大笑)
バヨンボンにあるサパー・インというホテルのレストランで食事をする。
このホテルは、よく日本の慰霊団が宿泊するホテルである。

DSC04348_convert_20100506174647.jpg(ホテル)
DSC04346_convert_20100506175141.jpg

ホテルの従業員と“ステラさん”と私の3人で“サトウさん”の慰霊地の検討をする。
川の近くでの慰霊がいいと思うのだが、問題はどのあたりがいいかということ。
アンガダナンという街が川の近くにあり、そこから川岸に行けるとのこと。
そのほかの場所からは川岸に行く道はなさそうだという。
とにかく、アンガダナンを候補地の一つとしよう!
“ステラさん”が「アンガダナンが目的地ですか?」と言う。
そうじゃなくて、単なる拙者の勘である。(笑)
だから、候補地の一つ。
現地に行ってみなければわからない。

まだ出発するには、ちょっと時間がある。
タバコを吸いに外に出たついでにホテルの周囲を調査。
ホテルの前あたり1ブロックなら歩いても安全そうである。
車の窓から景色を見ているだけではよくない。
少しは街の中を散策しなくては、思い出というものが残らない。
エアコンの効いた車の中にいるばかりでは、外の暑さを経験できない。
というわけで・・・“サトウさん”ご家族を誘ってホテルの周囲を散歩することにした。
が・・・“ステラさん”がちょっと嫌な顔をしたのが気になる。
ん?何かあるのか?
まぁ、よかろう・・・
ホテルの前の道を1ブロックだけ歩いてすぐにホテルに戻ることにする。
と・・・後から“ステラさん”が追いかけてきた。(笑)
何かあったら大変ということで心配して追いかけてきたのである。(笑)
拙者の事だから無茶をするんじゃないかと思ったのだろう。(笑)
一人旅なら無茶もするが、今回は別である。
1ブロックだけしか歩かないよ。(笑)
雰囲気を感じるだけだから大丈夫。(笑)

DSC04351_convert_20100506180132.jpg(街の中)

“ステラさん”が血相を変えたということは、この町を単独で散策するのは危険ということなのか?
このバヨンボンは北へ向かう日本軍、民間人が滞留した場所である。
在留邦人などはここにいくつかの集落を作って自活生活に入っている。
その跡地はどうなっているのか知らないが・・・
たしか、「大和村」とか、何だとかと日本語の村の名前を付けた集落を作ったらしい。

ここからエチアゲに向かう。
約2時間後、エチアゲの町に入るが・・・
どこか適当な場所はないものか・・・
ここがエチアゲですよ~と分かるような場所で記念写真を撮っておきたい。
で・・・エチアゲ・イースト・セントラル・スクールという学校の前で写真を撮ることにする。
「ECHAGUE(エチアゲ)」という文字が一緒に写れば証拠写真である。(笑)

DSC04354_convert_20100506182015.jpg(学校)
DSC04352_convert_20100506182306.jpg(学校の前の道)

更に前進!
アリシアという町を通過して・・・そのままカワヤンまで向う。
“ステラさん”が「アンガダナンへ行くんじゃないんですか?」と驚いた。
いや、こっちの方が驚いちゃうんだけど・・・(笑)
アンガダナンはあくまでも候補地の一つである。
カワヤンは一度行かねばならぬ場所だから・・・このまま進む!(笑)

“サトウさん”のおじいさんは、独立歩兵第179大隊(一瀬部隊)第3中隊第3小隊の小隊長だった。
ルソン島北端のアパリから南下してカワヤンに駐留していた。
戦況が急迫し、駐留地を出発し南下して北上して来る米軍と戦うことになったらしい。
で・・・一瀬部隊の先頭を切って南下していたが、途中で米軍と遭遇、戦車による攻撃を受ける。
小隊長は戦うのは無謀ということで物陰に隠れ戦場を離脱。
途中で川を渡り東方の山地へ向かったが、小隊長は途中で病死したという。
これが、“唯一の生還者”の証言らしいのだが、どうも腑に落ちない点が多い。
この証言は生還者が直接語ったのではなく、間に入った方が聞いた話として伝わっている。
間に入った人が会った時にこの生還者は「あまり話をしない人」だったという。
拙者の祖父もフィリピン戦については全く体験談を語ることはなかったが、遺族に対しては何時間にもわたって事細かに最後の様子を話していた。
遺族に対しては生還者はだいたいそういう丁寧な対応をするはずなのだが・・・
小隊長と最後まで行動を共にした人にしては証言があっさりしすぎている気がしないでもない。
“唯一の生還者”のこの証言は正直言ってあまり信用できない気がしてならない。

カワヤンにいたことは確かである。
ここから南下して米軍とぶつかったが・・・それはエチアゲだろうか?
米軍側の記録や資料を入手していないのでなんとも言えないが・・・
エチアゲまでは到達していなかったのではあるまいか?
その手前のアリシアあたり又はアリシアからエチアゲの中間地点あたりで衝突したのではないだろうか?
証言では、小隊長は戦闘を避けて「カワヤンの1~2キロの地点から川を渡った」という。
「カワヤンの1~2キロ」とはカワヤンを過ぎてというよりカワヤンの手前と考えていいだろう。
ということで、いずれにせよ、カワヤンまで行って検証しなくてはなるまい。

DSC04359_convert_20100506204710.jpg(カワヤンの入り口あたり)

走ること約40分ほどでカワヤンの入り口付近に到着。(写真の白いワゴン車が我々の車である)
ここのトライシクル乗り場(日本でいえばタクシー乗り場)でトライシクルの運転手たちにカガヤン河の川岸に向かう道があるかどうか尋ねてみたが、そういう道はないという。
当時、逃避行している人が、道がないから川には行かなかったとは言えまいが・・・
少なくとも我々は慰霊のために川岸には行けない。
簡単な略地図では、道路のすぐ脇を川が流れているように見えるのだが、この道路からは全く川が見えない。
“唯一の生還者”の「1~2キロ地点で川を渡った」というのは、どうだろうか?
信用できる証言だろうか?

もと来た道を戻ることにする。
少なくとも、“サトウさん”のおじいさんは、この道を通ったことは間違いない。
サンチャゴへ向かう道は、この道しかないのだから・・・・
当時と同じ道を走って亡きおじいさんを偲んでもらうことにする。

DSC04368_convert_20100506205823.jpg(カワヤンからエチアゲに向かう道)

やっぱり、どうも納得できない。
車で40分近くかかる1本道を真っすぐ引き返して、カワヤンの1~2キロ手前で川を渡るというのは考えられない。
ここは遺族の方の御意見も伺わねば・・・・
お二人とも、この1本道を引き返してから川を渡るというのは不自然な気がすると拙者と同意見である。
1本道を真っすぐ戻ったら、相手は戦車である。
すぐに追いつかれてしまう。
となると・・・道の左右どちらかに道を避けて逃げるのが自然ではあるまいか?

エチアゲからアリシアに向かう道は逆L字に曲がっている。
もし戦闘に巻き込まれたのがこのあたりだとすると・・・・
左に逃げるとエチアゲの町に向かうようになるから敵に近付いてしまう感じなので、もし拙者だったら右へ逃れる。
右へ逃れれば、そこはカガヤン河に向かうことになる。
アリシアの街で米軍と遭遇した場合も同様で、やっぱり右方向へ逃れるだろう。
右へ逃れると・・・・アンガダナンの集落へ向かい、その先はカガヤン河である。
昭和20年当時、アンガダナンという集落があったかどうかは知らないが・・・
敵と遭遇して退避するとすれば道の右方向・・・アンガダナンの方へ行く・・・・
これが理にかなっているのではあるまいか?
ということで・・・アンガダナンへ向かうことにした。

ドライバーの“クリスくん”や“ステラさん”は、同じ道を行ったり来たりして無駄なことをしているように思っていたかもしれないが、考えられるだけのことを考えるためにも、この行動は必須なのである。
現地に足を運び自分の身で体験する。
65年も過ぎてしまっているが、追体験をしてみることは大事なのである。
そのうえで、少しでもベターな判断をする。
戦後65年も経っていては、どうしたってベストの判断は無理なのだから、少しでもベターな判断をせねば・・・と思うのである。


より大きな地図で カワヤン を表示
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旅行 | 13:09:20 | Comments(2)
コメント
慰霊の旅に同行している気持ちで読ませていただいております。その地で戦われた兵士の方々のことを思いますと胸が痛みます。
2010-05-07 金 23:04:51 | URL | 醍醐桜 [編集]
コメントありがとうございます。
現地を訪ねると、日本のためとは言え、外地で戦った方々の苦労を感じます。
よくこういうところで頑張ったものと思います。
また、さぞかし日本に帰りたかっただろうなと思うと本当に辛くなります。
2010-05-12 水 12:33:01 | URL | 重兵衛 [編集]
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