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■プロフィール

野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
60歳・・・還暦である。
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)
今さら、もう無理!(大笑)

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回天館
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回天館の由来

元治元年(1864)3月27日、尊王攘夷の旗をひるがえして、筑波山に挙兵した藤田小四郎・田丸稲之衛門等のいわゆる天狗党の志士達(当初72名)は、幕府討伐軍や水戸の佐幕派と、各地で激戦を展開した。
やがて小四郎達は、武田耕雲斎(元水戸藩執政)を総大将にあおぎ、その尽忠報国(じんちゅうほうこく)の至誠を、禁裏(きんり)守衛総督として京都に滞在してた一橋慶喜(のちの15代将軍徳川慶喜)を通して朝廷に歎訴のため、常陸大子(ひたちだいご)に結集し、同年11月1日京都へ向けて出発した。
総勢1千余名の志士達は、下野(しもづけ)、上野(こうづけ)(下仁田しもにた)、信濃(しなの)(和田峠)、などにおいて、幕命を受けた諸藩兵と戦い、厳寒の中を飛騨(ひだ)から越前へと深い厳しい雪道の難行軍が続いた。
12月初旬、越前国(福井県)に到着したところで、頼みとする慶喜公が一行に対する討伐を命じたとの報を得て、軍議の結果12月17日加賀藩に降伏した。
志士達823名は越前敦賀(つるが)の三寺院に分散収容され、加賀藩の永原甚七郎らの手厚い保護を受けたが、翌慶応元年(1865)正月29日、幕府討伐軍々監田沼玄蕃頭意尊(げんばのかみおきたか)によって、敦賀にあった16棟の鰊(にしん)(鯡)倉に押し込められ残酷きわまりない処遇をうけた。
同年2月4日から23日の間、総大将の武田耕雲斎や藤田小四郎達353名がl、この鰊倉から引き出され、敦賀の松原において斬首された。
斬首を免れたその他の志士達も流罪・追放などの刑を受け、大半の志士達は故郷に帰ることなく無念の死を遂げた。
以来90余年の時を移した昭和32年、維新回天の大業に殉じた天狗党の忠誠の魂と無念の血涙とがしみ込んだ16棟の鰊倉のうちの1棟が、敦賀市の厚意によって水戸市に寄贈され、常磐(ときわ)神社の境内に移築復元されて「回天館」と名付けられました。
同館は往時を偲ぶ展示館として、拝観者に深い歴史的感銘を与えてきた。
しかし、復元後30数年を経て建物も老朽化し、危険な状態になったところから、この歴史的建物を保存し後世に残すため、水戸の有志が集い、平成元年2月「回天館移築保存会」が設立され、広く浄財を募って、志士達を祀る回天神社の境内に移築再建の事業が進められたのが、この「回天館」である。
「回天」とは混乱、衰微した時勢や国勢を正しい状態に盛り返すことを意味する言葉で、藤田東湖の「回天詩史」の書名も同じ趣旨からつけられたものである。

      時世

  武田耕雲斎
咲く梅の花ははかなく散るとても
               馨(かおり)は君が袖にうつらん

  山国兵部
行くさきは冥土(めいど)の鬼と一勝負(ひとしょうぶ)

  藤田小四郎
かねてより思い染めにし言(こと)の葉を
               今日大君(おおきみ)に告げて嬉しき

平成元年10月吉日
回天館移築保存会
冥々の裡に記す

(説明板より)

回天館

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史跡 | 21:40:33 | Comments(0)
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