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投稿日:2008-06-30 Mon

諸生党殉難碑・由来碑
尊王思想の志厚い水戸藩主徳川光圀は、明暦3年(1657)『大日本史』の編纂に着手し、その後、130余名の学者などが携わった。
第6代藩主治保の時、半知借上をしても窮迫化の藩財政面から編纂継続の是非をめぐり、彰考館史局内部では、立原総裁派と藤田幽谷派が対立し、立原派は去ったが、明治39年(1906)に4部397巻が完成した。
幕末にいたり、第9代藩主徳川斉昭、藤田幽谷、その子東湖、会沢正志斎らに代表される後期水戸学は、内圧と外圧の現実の問題を深刻に受けとめ、大義名分論に基づき尊王の思想に攘夷論を附加し、独特の学風にしたのでこの攘夷論をめぐる学問上、政治上の抗争と、朝廷より水戸藩に下賜された戊午(ぼご)の密勅の取り扱いや薩長との密約(薩長は建設・水戸藩は破壊)による行動等で対立、藩論が二分、三分し、悲劇の水戸藩朋党(天狗、諸生党)の乱を生むに至ったが、両派とも尊王敬慕の思想では一致していた。
この乱の被害は、栃木、千葉県迄及びさらに水戸藩士のほか婦女子、農民などまでまきこみ、2千数百名の尊い人材を維新の祭壇にさゝげつくした。
諸生党の係わる主な碑は、千葉、茨城、新潟にある。
最後の地、千葉県八日市場の有志は、大正15年4月弔魂碑を建立した。
また新潟県西山町の有志は、諸生党などが戦死した灰爪の丘に平成元年10月北越戊辰の役戦没者供養碑を建てた。
なお、明治17年諸生党の有志が、水戸市神應寺に記念碑(篆額は会津藩主・松平容保公の書)を建立したが、戦災で破損して拓本のみがある。
ここ祇園寺の諸生党殉難碑は昭和9年秋、22名の方々が建立、今年で60周年となるのを機に、歴史に関心もつ有志が主体となり整備の上、諸霊を供養するものである。
平成6年7月吉日
来栖平蔵 撰文
(碑文より)

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