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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
60歳・・・還暦である。
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)
今さら、もう無理!(大笑)

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大森貝墟碑(レプリカ)
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《大森貝墟》碑の由来

大正14年12月、大森貝塚を発掘し、江戸・明治期の文化を海外に紹介したエドワード・シルベスタ・モース博士の訃報(ふほう)が伝わると、ただちに博士と関係のあった石川千代松・岩川友太郎・臼井米次郎・佐々木忠次郎・松村瞭・宮岡恒次郎の6名が発起人となり、大森貝塚の顕彰(けんしょう)とモース博士の偉大なる功績(こうせき)を後世に伝えるため、調査場所に記念碑をたてることにした。
その場所は、発掘に参加した佐々木忠次郎の日誌と記憶、ならびに当時の地形、立木、村道の位置、大森駅との距離などにより、小林脳行店主の臼井米次郎の所有地(東京府荏原郡入新井町字新井宿山王下255番地・現在の大田区山王1丁目3番1号)とされた。
21名の研究者らが発起人となり建碑を呼びかけたが、昭和2年にアメリカで起きた世界恐慌(きょうこう)が日本にも及び、献金は集まらず、臼井米次郎が土地と資金を提供し、《大森貝墟》碑が完成したと、佐々木忠次郎は語っている。
除幕式は昭和5年4月13日におこなわれた。
碑の材料は仙台石で、高さ6尺、幅3尺、これに二段の台石を据(す)え、碑の表面には碑名、英文記事、発起人の氏名を刻(きざ)み、裏面にはモース博士の貝塚発見の由来を彫(ほ)った。
昭和30年3月24日、《大森貝墟》碑は品川区の大森貝塚遺跡庭園内にある《大森貝塚》碑とともに国の史跡に指定された。
史跡《大森貝墟)碑は、日本の歴史に輝きをあたえた大森貝塚とその発掘者モース博士をたたえるとともに、氏を敬愛する明治期の人々の意気が感じられる。
私たちはこの碑を国の文化財の象徴として、末永く保存管理する使命をもっている。

東京都大森貝塚保存会
会長  関 俊彦

この像は《大森貝墟》碑の約二分の一寸法のレプリカです。
実物は左のNTTデータ敷地通路奥の階段を下りた先にあります。

2014年3月

(説明板より)


【東京都大田区山王1-3】



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史跡 | 15:12:46 | Comments(0)
廿三夜碑
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廿三夜(にじゅうさんや)

この石碑は陰暦八月二三日の夜、月待ちをすれば、願いごとがかなえられるという二三夜待ち信仰に由来するものです。
上部には信仰のシンボルとして日輪と月輪が彫られていうのも特徴です。
裏面には、明治十七年(1884)八月二三日と世話人八名の氏名が刻まれています。

(説明板より)


【東京都大田区山王1-41-21・蘇峰公園入口】



史跡 | 15:11:18 | Comments(0)
カタルパ
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新島襄と蘇峰との子弟愛の樹
カタルパ
和名 アメリカキササゲ(ノウゼンカズラ科)

アメリカ原産の落葉樹。
高さ20mにもなる。
6月、香りのよい白いベル状の花をつけ、秋にはサヤエンドウの様な実をつける。
わが国では全国的にみても珍しい木。
明治10年代に同志社の創立者新島襄がアメリカから種子を持ち帰り蘇峰の父淇水(きすい)と蘇峰に贈ったのがはじまりと伝えられる。
蘇峰は明治15年、20歳の若さで郷里の熊本に「大江義塾」(おおえぎじゅく)を開いた。
青少年の教育に奮闘している姿に恩師新島が激励の意味で種子を贈ったといわれている。
新島と蘇峰の子弟愛を物語る由緒ある木。
この木は現在、熊本市立徳富記念館(大江義塾跡)にある2代目の木から昭和63年6月に挿し木した3代目であり、平成2年3月同記念館から贈られたものである。

(説明板より)


【東京都大田区山王1-41-21・蘇峰公園内】



史跡 | 15:10:07 | Comments(0)
山王草堂邸内の建築
046_convert_20200311155839.jpg (牛後庵跡)

049_convert_20200311155904.jpg (成簣堂文庫跡)

徳富蘇峰と山王草堂邸内の建築

徳富蘇峰(1863~1957)は大正13年(1924)、この地に居宅を建て、山王草堂と称して昭和18年(1943)熱海伊豆山に移るまでここに起居した。
邸内には母屋の他に三つの建築が建っていたことが知られており、それぞれ成簣堂文庫(せいきどうぶんこ)、一枝庵(いっしあん)、牛後庵(ぎゅうごあん)と名付けられていた。
それら蘇峰ゆかりの建築について記す。

成簣堂文庫(せいきどうぶんこ)
蘇峰の収集した和漢書10万冊に及ぶ書籍類を収蔵していた、鉄筋コンクリート造3階、地下1階の書庫。
大正9年(1920)、山王草堂に先立って着工され、大正13年(1924)、山王草堂と同時に落成した。
文庫には蘇峰が長年苦心して収集した収蔵品があり、中には国宝2点、当時の重要美術品(現在の重要文化財)72点が含まれていた。
それらは蘇峰によって体系的に整理され、わが国の文化史研究の資料として非常に価値の高いものであった。
この文庫の存在によって多くの資料が緻密に分類され、蘇峰の「近世日本国民史」執筆に大いに役立ったと考えられる。
後にそれらの書籍類は主婦の友社に譲渡され、現在は千代田区にあるお茶の水図書館に収蔵されている。
「成簣堂文庫」の名称の由来は、文政元年(1818)、江戸時代の歴史学者頼山陽(らいさんよう)が肥後来遊の際、山陽から蘇峰の祖父徳富美信(とくとみよしのぶ)に書き与えられた「成簣」(せいき=中国の古典「論語」の中の言葉で竹の箕(み)に盛った土の意)から採られたものである。

一枝庵(いっしあん)
大正12年(1923)、関東大震災直後に青山草堂の古材をもって建てられた間口一間半、奥行二間の小庵。
当時山王草堂が建築中であったため蘇峰は付近に借家していたが、借家が手狭なことと、国民新聞社社屋が震災で焼失したことからこの庵で「近世日本国民史」などを執筆した。
庵は、山王草堂落成後に門人の青木藤作氏に譲られたのち、栃木県佐久山町(現在は大田原市)に寄贈された。
なお、庵内の蘇峰の揮毫した書、遺品等は栃木県馬頭町、馬頭町広重美術館に所蔵されている。
「一枝庵」の名称の由来は、中国の古典「荘子」の「鷦鷯巣於深林、不過一枝」(鷦鷯(しょうりょう=みそさざい)深かれる林に巣くうも一枝をもちうるに過ぎず)から採られている。

牛後庵(ぎゅうごあん)
大正13年(1924)、蘇峰の次男の徳富萬熊(とくとみまんくま)の住居として建てられた木造二階建の建築。
蘇峰が山王草堂に居を構える以前の居宅、青山草堂の書斎を移築したもの。
萬熊は考古学の研究を趣味とし、古瓦、板碑、土器、石造物等約7千点を牛後庵1階に収蔵し、2階に起居していた。
これらの収蔵品のうち、4点は「徳富コレクション」として当記念館に展示しているが、他は主に国学院大学考古学資料館に寄贈されている。
「牛後庵」の名称の由来は、やはり中国の古典「史記」の「寧為鶏口、無為牛後」(むしろ鶏口となるとも牛後となるなかれ」から採られている。

これらの建築は蘇峰公園内には現存しないが、当時建てられていたと推測される地点に旧跡として標柱を建て、蘇峰の起居していた往時を偲ぶものである。

平成13年 地域基盤整備第一課

(説明板より)


【東京都大田区山王1-41-21・蘇峰公園内】



史跡 | 15:08:04 | Comments(0)
山王草堂記念館
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大田区立 山王草堂記念館

記念館のご案内
徳富蘇峰(とくとみそほう 1863~1957 ジャーナリスト)は、勝海舟(1823~1899 政治家)や新島襄(1843~1890 教育者)から直接教えを受けた後、日本で最初の総合雑誌『国民之友』(1887)を発行し、続いて『国民新聞』(1890)を創刊しました。
『国民新聞』創刊後、蘇峰は多くの作品を発表しました。
1918(大正7)年、56歳の蘇峰は『近世日本国民史』を書き始め、35年近くの歳月をかけて、全100巻を完結させました。
同書の原稿は、ほとんどが大森山王で書かれたものです。
1924(大正13)年、蘇峰は大森山王に居宅を建てて「山王草堂」と称し、1943(昭和18)年に熱海へ移るまで、そこで暮らしました。
その後、山王草堂は静岡新聞社が所有していましたが、1986(昭和61)年に同社から大田区が譲りうけて蘇峰公園として整備しました。
そして、山王草堂記念館は、蘇峰の旧宅である山王草堂の一部(2階部分など)と蘇峰ゆかりの資料を保存・公開するため、1988(昭和63)年4月に開館しました。
往時の趣を残した記念館から、近代日本ジャーナリズムの立役者として活躍した蘇峰ゆかりの品々をぜひご覧ください。
(リーフレットより)

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『近世日本国民史』全100巻

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山王草堂2階部分の復元された書斎

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「蘇峰と勝海舟」のコーナー

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【東京都大田区山王1-41-21】



史跡 | 15:06:51 | Comments(0)
尾崎士郎記念館
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大田区立 尾崎士郎記念館

記念館のご案内
尾崎士郎(1898~1954 小説家)は、1923(大正12)年に馬込村中井(現・南馬込)に転入しました。
以後、一時的な転居を除き、尾崎は作家生活のほとんどを馬込文士村(馬込を中心として、隣接した山王や新井宿を含めた一帯)で過ごしました。
仲間との交流を大切にした尾崎は、文士村の中心人物となりました。
1937(昭和12)年、37歳の尾崎が山王に暮していた時、『人生劇場』がベストセラーとなり、尾崎は戦前を代表する小説家の一人となりました。
戦時中、尾崎は静岡県伊東で暮らし、1954(昭和29)年には大森・山王へ新居を建てて戻りました。
戦後も尾崎の人気は衰えることなく、1964(昭和39)年に亡くなるまでこの家で過ごしました。
そして、2008(平成20)年5月、尾崎の旧居(客間・書斎・書庫・庭)を復元し、尾崎士郎記念館として開館しました。
戦前から昭和30年代を代表する小説家の一人であった尾崎士郎の業績を知ることのほか、馬込文士村を愛した尾崎の息遣いを感じ取っていただければ幸いです。
(リーフレットより)

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書斎
仕事場として用いられていた部屋。
大田区立尾崎士郎記念館開設にあたり復元された。
本来の書斎は故郷の吉良町に移築、公開されている。
(説明板より)

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鉄砲の稽古をしたケヤキの木
士郎の相撲好きは有名。
昭和7年(1932)には大森相撲協会を結成し、文士仲間と相撲をとり、戦後は横綱審議会委員もつとめた。
自宅でもしばしばふんどし姿となり、ケヤキの大木を相手に鉄砲の稽古を繰り返したという。
(説明板より)



【東京都大田区山王1-36-26】



史跡 | 15:02:29 | Comments(0)
勝海舟記念館
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大田区立 勝海舟記念館

「国登録有形文化財 旧清明文庫」
清明文庫は、海舟没後、海舟の墓所や別荘「洗足軒」の保存、海舟に関する図書の収集・閲覧、講義の開催等を目的として、財団法人清明会が昭和8年に開館しました。
平成12年に国登録有形文化財に登録され、平成24年に大田区の所有となりました。
外観正面中央部のネオゴシックスタイルの柱型4本が特徴的で、内部にはアールデコ調の造作が施されるなど、西洋の建築技法も取り入れられたモダンな建築物です。
(リーフレットより)

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寄木床
展示室5(旧貴賓室)の寄木床仕上は、建設当時高級材料であったラワンやオーク材を用いて、美しいパターン貼りで構成されていました。
既存の床は傷みや破損があったため、建設当時と同じ樹種の新しい材料を使って復原しています。
皆様の目の前にあるのは、既存の寄木床の良好な部分を残したものです。
(説明板より)

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外壁
外壁面は3層に分かれて、基壇部と上段部が“人造石洗出し仕上げ”(注1)、中段部が“リシン掻き落とし仕上げ”(注2)tなっています。
これらは、昭和初期ころから一般的に用いられるようになったモルタル系仕上げです。
改修前は既存仕上げの上に塗装が施されていましたが、塗装材を丁寧に剥がして、建設当時の仕上げの状態に戻しました。
当時の材料や色味、年月を経て醸し出される風合いをご覧頂けます。
一方、所々色が異なる部分は建設当時の仕上材の色合いに合わせて復原し補修した箇所です。

※骨材が鋭く露出している部分がありますのでご注意ください。

注1 細かく砕いた石(骨材)を混ぜたモルタルを塗り、完全に硬化する前に水洗いして表面に石粒を浮きたたせる仕上げ方法。
注2 白セメントに骨材を混入して塗り上げ、表面をブラシや鏝で掻き落とし、ざっくりと仕上げる方法。


既存の窓枠はスチール製です。
現代の見慣れたアルミ製のサッシと比べて枠が細いのはガラスが直接取り付けられているためです。
建設当時のガラスが一部残っており、一枚ずつ外して再利用しました。
上の写真の左側(展示室6の室内から見ると右端)の建具に入っています。
当時の透明ガラスは現代とは製法が異なり、像が歪んで見える特徴があります。
(説明板より)



【東京都大田区南千束2-3-1】



史跡 | 15:01:21 | Comments(0)
東京を散策
ホテルをチェックアウトして、今日は恒例の東京散策・・・
毎度のことながら、“ウメちゃん”を案内する役である。

喫茶店で朝食をとるとき・・・
なぜか目眩が・・・(大汗)
クラクラ目眩はするわ、気分が悪くなるわ、胸が苦しいわ・・・
突然の体調不良である。(大汗)
“ウメちゃん”にご心配をおかけしたが・・・原因不明・・・
血圧に何か問題でもあったのだろうか?
とにかく、体調不良は無視して・・・(笑)
当初の予定通りに東京散策をすることにする。(大笑)

まず、最初に向かったのは「大田区立 勝海舟記念館」である。
大田区の南千束にあり、昨年の9月に開館した施設。
建物は国登録文化財なので、一級建築士の“ウメちゃん”をご案内するには、もってこいの場所と以前から目をつけていた。(大笑)

東急池上線で「洗足池」駅へ・・・
以前にも来たことがあるはずなのに、東急池上線には初めて乗った気分なんだから、拙者の記憶の悪さには自分でも呆れる。

017_convert_20200310105058.jpg(勝海舟記念館)

この記念館は、勝海舟に関する図書の収集や講義の開催などのために昭和8年に開館した「清明文庫」の建物を利用した記念館であるので、「清明文庫」の建物内部の意匠は拙者好みである。(喜)

028_convert_20200310111301.jpg(講堂?)

約1時間ほどかけてじっくりと見学・・・

で・・・次に向かったのは、すぐ近くにある勝海舟のお墓・・・
ここには8年前の平成23年11月に来たことがある。
ここをご案内・・・

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「洗足池」の周辺は紅葉が綺麗だった!(喜)

034_convert_20200310112615.jpg(勝海舟の墓所)

時刻は午後1時・・・・
さて、どこかで飯でも食いますか・・・(笑)
駅近くの「お好み焼き」屋さんで遅い昼食・・・
「お好み焼き」なんて子供の頃に食べたのが最後ではなかろうか?(苦笑)
う~ん・・・数十年ぶりの「お好み焼き」である!(大喜)
嬉しさのあまり写真を撮るのを忘れた・・・(大汗)

食後・・・・
「で?・・・次はどこに行くの?」と“ウメちゃん”
「へっ?」
拙者は、この「勝海舟記念館」しか予定していなかったんだけど・・・(大汗)
「うそぉ~!」と“ウメちゃん”(苦笑)

さて、困ったぞ・・・
“ウメちゃん”の趣味に合おうが合うまいが関係なく、拙者の“趣味”に従っていただくしかないな‥・・(苦笑)
今まで行ったことはないのだが・・・ちょっと行ってみたい場所があるので・・・
JR大森駅へ移動する。(笑)

向かうは「大田区立 尾崎士郎記念館」・・・
JR大森駅からテクテク歩いて向かう・・・ちょうどいい運動である。(笑)
尾崎士郎は作家で、ここに昭和39年に亡くなるまで住んでいたそうだ。
で・・・平成20年に旧居を復元して記念館としたらしい。
「尾崎士郎記念館」というのは、愛知県幡豆郡吉良町にもある。
拙者は平成19年3月に行ったことがある。
12年前になる・・・(唖然)・・・そんなに昔のことか?
そこには、ここから移築された書斎があった・・・

045_convert_20200310114633.jpg(尾崎士郎記念館)

行ってみたら・・・誰もいない・・・(汗)
勝手に入っていいのかな?(苦笑)
建物内部には入れないが、庭から外観だけは見学できるようである。

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(復元された書斎・居間)

外から内部を覗き込むだけなので、あっという間に見学終了!(大汗)

「で・・・次は?」と“ウメちゃん”・・・
「ゲッ!」(苦笑)
近くに「大田区立 山王草堂記念館」というのがあるようなので、そこへ向かうことにした。(苦笑)
時刻はまもなく午後3時半・・・
「そこは何の記念館なの?」と“ウメちゃん”・・・
「う~ん・・・徳富蘇峰の記念館だったと思うんだけど・・・」
「徳富蘇峰って誰?」(苦笑)
「それを知るために行きましょう!」(大笑)

“山王草堂”では何のことやら・・・
徳富蘇峰はジャーナリスト・・・
大正13年に、ここ山王に家を建てて「山王草堂」と名付け、昭和18年に熱海に転居するまで、ここに住んでいたという。
どうして「徳富蘇峰記念館」って名付けなかったんだろう?(苦笑)
昭和63年に開館した記念館だが、マイナーである。
「徳富蘇峰」と名付ければ、もうちょっと有名になったのではないかと思うが・・・(苦笑)

熊本市に「徳富記念館」という資料館がある。
徳富蘇峰と徳富蘆花兄弟の資料が展示されていて、敷地内には明治3年から蘇峰が東京に出る明治19年までの少年時代に住んでいた家が保存されている。
平成23年2月に訪問して館長さんから詳しくお話をうかがっているのだが・・・・(苦笑)
徳富蘇峰がどういう人なのか、すっかり忘れている・・・(大汗)

063_convert_20200310121549.jpg(山王草堂記念館)

この徳富蘇峰の居宅「山王草堂」は二階建ての建物だったが、その二階部分がこの館内に保存展示されている。

052_convert_20200310132210.jpg(山王草堂の古写真)

ここでは、この記念館の職員の方(館長さん?)が付きっきりで説明をしてくださった。

055_convert_20200310132700.jpg(書斎)

この書斎の机が面白い。
馬蹄形をしているのである。(つまりUの字の形・・・)
U字の形なので、真ん中に座ると、正面、左右に物が置けたり、書き物ができるから便利そうである。
う~ん・・・これ、欲しいなぁあ~(笑)
“ウメちゃん”は材木店も営んでいるので・・・・これと同じのを作ってくれない?(笑)

職員の方が「帰りに庭も見て行ってください。紅葉が綺麗ですから・・・」とおっしゃるので、見学を終えて庭を散策することにする。
この記念館の残念なところは、徳富蘇峰に関する本など資料の販売をしていなかったこと・・・(大汗)
資料か何かあれば買いたかったのになぁ~(涙)

064_convert_20200310133731.jpg(徳富蘇峰像)

外には、徳富蘇峰の銅像があった!(大喜)
実は、裏口から入館したため気が付かなかったのである。(苦笑)
銅像好きの拙者としては嬉しくて仕方なし!(大笑)

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(蘇峰公園)

時刻はまもなく午後4時となる・・・・
では・・・帰りますかぁ~・・・・
JR大森駅へ向かって坂を下る。
と・・・・”ウメちゃん”・・・・「これで終わり?」(苦笑)
えええぃ!・・・もう破れかぶれだ!(苦笑)
「じゃぁ、大森貝塚に行ってみます?」
「おお!大森貝塚!・・・教科書でしか知らないけど・・・」(苦笑)
駅の近くにあったはずなので、ご案内することにする。
そこへは今から11年前の平成20年3月に行ったことがあるが・・・
さて・・・どのあたりにあったっけ?(苦笑)

082_convert_20200310135035.jpg(大森貝塚碑のレプリカ)

歩道沿いに「大森貝塚碑」が建っているのを見つけた。
なんとなく見たことがあるような気がする。(苦笑)
が・・・説明板によると、これは1/2サイズのレプリカだそうだ。
う~ん・・・前回来た時にも見たっけ?(汗)
自分の記憶に自信なし・・・(大汗)
実物は、この近くの通路を入った奥まった場所にある。
ちょうど線路沿いの際なので、碑全体の写真を撮るのは難しい。
そういうことは覚えていたので・・・無事にご案内・・・(笑)

石碑を眺めて終わり・・・(苦笑)
この近くに「大森貝塚遺跡庭園」というのがあったはずだが・・・
さて・・・ここからどのくらい離れていたかな?(汗)
今から向かっても、到着した頃には暗くなってしまうだろうから行くだけ無駄かな?(苦笑)
それより、さすがに喉が渇いたので、どこかでコーヒーでも飲みたいものである。(笑)

ということで・・・今回の散策は、これで終了!(笑)
案外、いろんな所へ行けて大満足・・・
充実した一日が過ごせた!
“ウメちゃん”に感謝である。(喜)

日記 | 12:39:32 | Comments(0)