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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
59歳
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)

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女性消防吏員、倍増!
茨城県内の消防本部に勤務する女性消防吏員の総数は、2010年度には26人だったが、2019年度には62人となり、2倍以上に増えたという。
県内の消防吏員は総数で4464人いるが、そのうち62人が女性という事で、女性の割合は1.4%だそうである。
ちなみに昨年度の全国平均は2.7%だそうである。

ところで・・・この「消防吏員」とは何かというと・・・
消防本部に勤務する職員のうち、階級を有する者を「消防吏員」というのだそうだ。
消防職員に「階級」というのがあったとは知らなかった。(汗)

総務省消防庁は、2026年4月までに、女性消防吏員の割合を5%に引き上げる目標を掲げている。
目標を掲げるのは必要なのかもしれないが・・・
役所の恐い所は、数字さえ達成すればそれでいい・・・となりかねないところである。(大汗)
女性なら誰でもいいから採用しよう・・・なんてことにならねばいいが・・・と思う。(苦笑)
ひとそれぞれ、向き、不向きというのがあるからねぇ~(汗)

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エッセイ | 22:46:43 | Comments(0)
常磐橋の広告塔
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常磐橋の「広告塔」について

広告塔は、明治23年頃、長崎街道の東の起点である常磐橋の袂(たもと)に建てられました。
森鴎外の小説『獨身』において広告塔は、西洋から直接小倉に伝わった「東京にないもの」のひとつとして挙げられ、「常磐橋の袂に圓(まる)い柱が建ってゐる。これに廣告を貼り付けるのである。」と書かれています。
当時の小倉は、隣接する門司の西洋化に触発され、近代化への歩みを始めたころでした。
このような時代背景において建設された広告塔は、ヨーロッパの街にアクセントを与えていた塔をモデルにした斬新なデザインであり、商業地小倉らしいアイディアで親しまれていました。
その後、明治時代の末期には、塔の下方が便所として改築され、昭和20年代後半まで多くの人に利用されていました。
このモニュメントは、紫川周辺の景観整備の一環として、小倉文化の象徴であった「広告塔」を当時の面影を残しつつ、新たに証明機能を備え、約三分の一の大きさで復元したものです。

平成15年 北九州市

(説明銘板より)


【福岡県北九州市小倉北区・常磐橋の京町側】



史跡 | 17:47:06 | Comments(0)
常磐橋
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常磐橋の由来
                北九州市

常磐(ときわ)橋は江戸時代の初め頃、小倉の城下町の東曲輪(くるわ)(主として町人が生活していた地域)と西曲輪(主として武士が生活していた地域)を結ぶ、重要な橋として架けられ、当初は大橋と呼ばれていました。
この橋の西勢溜(せだまり)(橋詰)が長崎街道の起点となっていたため橋の周辺は幕府役人や旅人の宿などが立ち並んでにぎわっていました。
参勤交代の大名や長崎奉行をはじめ、多くの人々がこの橋を渡っています。
中でも有名なのがドイツ人医師シーボルトで、この橋を銅版画で紹介しています。
このように海と陸の玄関口として、九州の各街道すべてがこの大橋に連なり、九州における日本橋となっていました。
治水対策として川幅を広げるため橋の架け替えが必要になったのを機会に、コンクリートと同じ強さを持つ木材を使い、江戸時代の姿「木の橋」としてよみがえることとなりました。
(平成7年3月完成)

(説明板より)


【福岡県北九州市小倉北区室町2丁目】



史跡 | 13:44:17 | Comments(0)
伊能忠敬 測量200年記念碑
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伊能忠敬 測量200年記念碑

江戸時代の測量家伊能忠敬は、50歳で商家の家業を長男に譲り第二の人生を志し、天文・暦学を学ぶ。
寛政12(1800)年、55歳の時江戸より蝦夷地に向け測量の第一歩を踏み出した。
以後17年の長きにわたり日本全国の測量を行い、我国初めての実測による当時世界最高水準の日本地図を完成した。
この間の歩み四千万歩、世界一周分の距離に及ぶ。
九州には、忠敬64歳の時から高齢にも拘わらず前後二回に及ぶ困難な測量作業を行った。
この小倉城下・常磐橋は、九州伊能測量の始発点であり、小倉の五街道(長崎街道・唐津街道・中津街道・秋月街道・門司往還)の起点として意義深い地点である。
ここに、伊能測量開始200年を記念しその偉大な業績を讃え、顕彰碑を建立する。

平成13年9月建立 寄贈 伊能忠敬記念碑建設実行委員会

(説明銘板より)


【福岡県北九州市小倉北区京町1-1】



史跡 | 11:17:49 | Comments(0)
小倉城外堀跡
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小倉城外堀跡

近世小倉城の形成は、江戸時代のはじめ小倉藩主となった細川忠興(ほそかわただおき)により開始されました。
忠興は慶長7年(1602)から大規模な普請を施して東西2km、周囲8kmに及ぶ城郭を完成させました。
足立山を水源とする寒竹川の水を分流し、北流させる人工の川(現砂津川)を造り、その掘を外堀として城郭西端となる板櫃川(いたびつがわ)と結びつけました。
城は本丸、北ノ丸、松ノ丸などの中心部の周囲に上級武士の屋敷地の二ノ丸、三ノ丸を配し、同時に紫側両側に広がる城下町を加え、城と城下町の周囲には四重の堀を巡らせ、全体を堀、石垣、土塁(どるい)、河川で防衛する総構(そうがま)えと呼ばれる城郭を完成させました。

本地域は城郭南端の外堀と土塁の場所にあたります。
東側の調査区は幕末の絵図「小倉藩士屋敷絵図」では小倉藩の支藩新田藩(しんでんはん)藩主の屋敷の備後守(びんごのかみ)屋敷となっています。
ここでは東西方向に上幅20m、深さ8mの石垣を築かない素掘(すぼ)りの堀が発見されました。
その内側の屋敷地には幅30m、屋敷地からの高さ8mの土塁が築かれていました。

西側の調査区でも東西方向の障子堀(しょうじぼり)といわれる堀が見つかりました。
この堀は上幅16~20m、深さ7~8mの素掘りの堀の底部に堀障子(ほりしょうじ)と呼ばれる仕切りを設けています。
障子堀は16世紀の関東の戦国大名北条氏の築城技術といわれ、九州で初めて発見されたものです。
これらの堀は連続して城郭南端の外堀を形成するもので、軍略家として知られる忠興が築いた小倉城郭の構造と優れた土木技術を示すものです。

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北九州市教育委員会

(説明板より)


【福岡県北九州市小倉北区大手町12】



史跡 | 11:00:40 | Comments(0)
旧小倉陸軍造兵廠「給水塔」
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旧小倉陸軍造兵廠「給水塔」
昭和8(1933)年11月に開庁した小倉陸軍造兵廠は、太平洋戦争末期には、女子挺身隊、学徒動員を含む約4万人の従業員が働く西日本最大の軍需工場でした。
「給水塔」は、ここから西側に隣接する高台にあり、この造兵廠内へ上水、作業水を給水していたもので、戦後は米軍に接収され、その後本市の管理を経て平成7(1995)年11月に解体されました。
かつてこの地に小倉陸軍造兵廠が存在したことを後世に語り継ぐモニュメントとして、「給水塔」の6分の1のレプリカを設置するものです。

(説明銘板より)


【福岡県北九州市小倉北区大手町・大手町公園】



史跡 | 10:47:14 | Comments(0)
小倉陸軍造兵廠跡碑
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(碑文)
陸軍造兵廠東京工廠が関東大震災で壊滅的な打撃を受けて、東京移転を決定した。
全国各地から工場誘致の猛運動が展開されたが、昭和2年小倉に国防、軍事上の見地から決定、在来の小倉兵器製造所を合併、昭和8年開庁した。
以後、わが国旧陸軍の近代兵器製造工場の拠点として、昭和20年の大戦終了まで製造を続けた。
地積は約60万㎡、最盛期には約4万人が従事した。
往時をしのび、その一角に記念碑を建てる。

平成2年10月吉日
旧小倉陸軍造兵廠従業員有志

小倉陸軍造兵廠跡
大正12年(1923)の関東大震災により、わが国の兵器生産機能を大阪と二分していた陸軍造兵廠(ぞうへいしょう)東京工廠は壊滅しました。
震災復興より新設したほうが経済的なことから、当時の大陸政策も考慮し、関門が大陸の進出基地としての地政学的意義を負うことにより、昭和2年(1927)10月24日、小倉に工廠設置が決定し、同8年(1933)10月正式に発足しました。
設置場所は、旧城内ならびに隣接の民有地2万300坪を買収し、敷地面積17万6581坪でした。
小倉工廠は当時の最新機械で装備され、就業者は普通工、臨時工を合せて約4万人を数えたといわれています。
昭和10年(1935)には、東京工廠からの移転が完了し、間もなく日中戦争に突入したことにより、操業は増大していきました。
兵器生産の大工場が都心部を占めることによって、小倉は軍隊の駐屯地を兼ねる軍需(ぐんじゅ)都市となり、大陸へ向けての補給基地としての機能を拡充していきました。
昭和15年(1940)4月、陸軍造兵廠が陸軍兵器本部に改組させ、小倉工廠は小倉造兵廠に改称し、兵器本部の直属となりました。
(北九州市史より)

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北九州市教育委員会

(説明板より)


【福岡県北九州市小倉北区大手町・大手町公園】



史跡 | 09:52:45 | Comments(0)
旧小倉陸軍造兵廠「防空監視哨」
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旧小倉陸軍造兵廠「防空監視哨」

この監視哨は、戦時中、空襲に備えるために、旧小倉陸軍造兵廠内の各所に設置されていたものの一つで、第一施工場の屋上にあったものです。
(この場所から北側約400mの北九州市消防局庁舎附近)
高さ約2.3メートル、直径約2.4メートル、コンクリート製の壁の厚さは、33センチの六角形の塔で、側面には、監視用の小窓が5ヶ所あり、機関砲を備えていました。
民間の倉庫として使われていた旧第一施工場が、平成8年(1996年)2月に解体される際、当時を物語る施設の一部として残されたものです。

北九州市

(説明板より)


【福岡県北九州市小倉北区大手町・大手町公園】



史跡 | 09:32:19 | Comments(0)
別府に行く!
我が戦友会会員の“ヤスダさん”・・・・
最近、連続して何通もの手紙を寄こしてくれるのだが、ご高齢のせいだろうか、書いてあることはみんな同じ・・・(苦笑)
とにかく「死にたい」とか「長生きすべきじゃなかった」とか「前世でなにか悪いことでもしてバチがあたったのだろうか?」という話ばかりなのである。(大汗)
こりゃ、ちょっとマズイなぁ~(大汗)
随分前に自宅を処分して、某病院に入っていた。
ここを「終の棲家にしてくれていい」と院長御夫妻に言われていたそうだが・・・
その後、どういう経緯があったのかは知らないが、別の病院に移ることになった。
で・・・本人に経緯を尋ねても要領を得ない・・・(汗)
「前の病院からは何の音沙汰もない」としきりにこぼすので、かなりショックだったのだろう。
精神的にかなり参っているようである。
ということで・・・こりゃ、会いに行って元気づけてあげねばと、おせっかい・・・(大笑)
赤の他人の95歳のおばあちゃんだが・・・(笑)
甘いものが好きなので、お菓子を持参して顔を見に行くことにした。(笑)

で・・・今までは羽田から飛行機で大分に行ったが・・・
たまには変わったことをしようと思い、今回は電車で行ってみることにした。(笑)
昨日の午前10時に家を出て、特急や新幹線を乗り継いで別府に到着したのは、午後6時半である。(大笑)
いやぁ~一日がかりの移動である!(大笑)

別府駅近くのホテルに泊まって、病院の位置を下見し・・・
本日、午前10時に病院を訪ねた。
本人には事前に手紙で知らせておいたが、病院にも見舞に行くことを事前に電話で伝えておいた。
で・・・ご本人に会ったら・・・
ポカ~ン!(唖然)
しばらくの間、拙者が誰なのかわからないという顔をして突っ立っていたのには驚いた。
間もなく、思い出したのか・・・「何でここにいるんですか?」と驚いている。(大笑)
おい、おい、おい・・・である。(大笑)

「手紙に今日の10時に会いに行きますよって書いておいたんですけど・・・」
「え?・・・そんなこと書いてありましたっけ?」
「わざと大きな字で、そこのところは書いておいたんですけど・・・・」(大汗)
「あら~そう?全然覚えてないわ」
「甘いものを持って会いに行きますよって書いておいたんですけど・・・」(大汗)
「あっ!それは覚えてます!」(笑)
なんてこった・・・お土産だけは覚えているなんて・・・(苦笑)
「前もって来ると分かっていたらお茶を用意しておいたのに・・・」と“ヤスダさん”
だから・・・前もって連絡しておいたんですけど・・・(苦笑)

それから1時間半・・・
誰も会いに来てくれない・・・というような、何だかんだの愚痴を聞いてあげて・・・(大笑)
お別れ・・・
とにかく誰かが会いに来て何だかんだとお喋りするのは大事なことだと思う。

8時間もかけて会いに来て1時間半のおしゃべりで帰るというのもおかしな話かもしれないが・・・(笑)
あまり長時間になると疲れるだろうし・・・ね・・・(笑)

別府駅までテクテクと向かい、駅で食事をして、特急に乗り込み小倉へ向かう。
で・・・車内でふと思った・・・
いつも書いている法人会のコラム記事・・・
全国の税務署と近くの史跡などの話を書いているのだが、今年はまだどこにも行っていない。
夏号の発行を間近に控えているに、こりゃマズイ・・・(大汗)
小倉で新幹線に乗る予定を急遽変更して、小倉で途中下車することにした。(笑)
で・・・タクシーに乗って向かったのは、小倉税務署!(大笑)

142_convert_20191201155343.jpg(小倉税務署)

『全国税務署巡り』と題したコラムを書いているが・・・
税務署のことなんか全く紹介していない。(大笑)
ただ税務署の建物の写真を載せているだけ・・・(大笑)
記事の内容は税務署と全く関係のない「史跡」の話である。(大笑)
が・・・4年間も連載していると、結構、好評を得るもので、「面白い」と言ってくれる人が増えた。(大笑)
こんな記事を載せている法人会会報は、全国に441ある法人会の中で我が法人会だけだろう。(大笑)

いつものように税務署の建物の写真を撮って、周辺を散策してみる。
ここ小倉税務署が建っている場所は、戦前に「小倉造兵廠」があった場所である。
と・・・近くの公園に・・・見つけた!
小倉造兵廠の跡地を示す記念碑!(大喜)

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よし!・・・これで記事が書けるぞ!(大喜)
周囲をグルリと回って、税務署の向かい側に着いたときに、史跡の説明板が設置されているのに気が付いた!
ここは「小倉城外堀跡」だそうである。

168_convert_20191201161114.jpg(小倉城外堀跡)

よし!・・・これで更に記事が書けるぞ!(大喜)

来るときはタクシーに乗ってきたが、帰りは徒歩で小倉駅に向かう。
頼りになるのはタブレットの地図である。(笑)

途中で、建物に大きな幕があるのを見つけた・・・・

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なんと!「五代目工藤會壊滅作戦推進中」と書いてある・・・・(唖然)
名指し?(苦笑)
恐ろしい場所なんだなぁ~・・・ここは・・・(唖然)

更に歩くと、小倉城に辿り着いたが、平成23年に訪れたことがあるので、今回は・・・通過!(笑)

途中、駅の近くで「伊能忠敬 測量200年記念碑」を見つけた。(喜)
以前、この近くを歩いたような覚えがあるのだが・・・気が付かなかったなぁ~(汗)

177_convert_20191201182234.jpg(伊能忠敬 測量200年記念碑)

直ぐ近くに珍しい形の塔が・・・
「広告塔」というものだそうだ。

181_convert_20191201182451.jpg(広告塔)

小倉駅から新幹線で新神戸に向かい、三宮に行く。
明日は陸上自衛隊の駐屯地を訪問することにしている。
ということで・・・三宮に一泊する。
ただ別府に行くだけではもったいない・・・(笑)
どうせなら一石二鳥を狙うのである。(大笑)

旅行 | 08:51:54 | Comments(0)