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■プロフィール

野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
60歳・・・還暦である。
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)
今さら、もう無理!(大笑)

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歴代横綱の石碑
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歴代横綱の石碑
所在地 墨田区亀沢2丁目8番10号 野見宿禰神社内

歴代横綱の名前を刻んだ2基の石碑は、昭和27年(1952)11月に日本相撲協会が建立しました。
1基は、初代明石志賀之助から46代朝汐(潮)太郎までの名前を刻み、もう1基には、47代柏戸剛以降の名前が刻まれています。
野見宿禰神社は、明治17年(1884)に初代高砂親方(高砂浦五郎)が相撲の始祖とされる「野見宿禰」を祀ったのが始まりです。
玉垣には、力士や相撲関係者の名前が刻まれており、今でも東京での本場所前には、必ず日本相撲協会の関係者が神事を執り行うなど、相撲界が信仰している神社です。
創建当時は、神社の東側に初代高砂親方の部屋があったそうです。
また、この地は、陸奥弘前藩津軽家の上屋敷跡でもあります。

平成28年3月

墨田区教育委員会

(説明板より)


【東京都墨田区亀沢2-8-10・野見宿禰神社内】



史跡 | 18:17:22 | Comments(0)
野見宿禰神社
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大相撲
野見宿禰神社

かつてこの東側に相撲の高砂部屋がありました。
明治18年(1885)に親方の高砂浦五郎が、津軽家上屋敷の跡地であったこの地に、相撲の神様として知られる野見宿禰を祀ったのが、この神社の始まりです。
石垣の石柱には、力士や相撲関係者の名前が刻まれており、本場所前には必ず、相撲協会の神事が行われます。
境内には、昭和27年(1952)に相撲協会によって建てられた歴代横綱石碑があり、その一基には、初代の明石志賀之助から46代朝潮太郎までの名が、もう一基には47代柏戸剛以降の名前が刻まれています。

墨田区

(説明板より)


【東京都墨田区亀沢2-8-10】



史跡 | 17:52:38 | Comments(0)
河竹黙阿弥終焉の地
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河竹黙阿弥終焉の地
所在地 亀沢2丁目11番

河竹黙阿弥は坪内逍遥に「江戸演劇の大問屋」と呼ばれた狂言作者です。
黙阿弥の本名は吉村芳三郎。
江戸日本橋の商家に生まれるも遊興にふけって勘当され、遊蕩三昧の生活を送る中で細木香以(さいきこうい)らと交流を深めました。
歌舞伎をはじめ、狂歌や茶番などにも興じ、20歳で五代目鶴屋南北に入門、勝諺蔵(かつげんぞう)を名乗りました。
後に二代目河竹新七を襲名し、嘉永7年(1854)に江戸河原崎座で初演された「都鳥廓白浪(みやこどりながれのしらなみ)(忍ぶの惣太)」が四代目市川小団次との提携で大当たりを取り、「小袖曾我薊色縫(こそでそがあざみのいろぬい)(十六夜清心・いざよいせいしん)」、「三人吉三廓初買(さんにんきちさくるわのはつがい)」など、現在も上演される作品を柚木次人世に送り出してゆきました。
七五調の美しい台詞を巧みに活かして幕末の人々を生き生きと描き出し、360編に及ぶ作品を残しました。
明治の新時代にも活躍、明治14年(1881)に引退を表明し、黙阿弥と号しましたが、その後も劇作の筆を置くことはありませんでした。
明治20年3月、黙阿弥は浅草の自宅を三代目新七に譲り、自身は葦原だった本所南二葉町31番地(現亀沢2丁目11番)に自宅を新築し、転居しました。
周囲に堀をめぐらせた広い新宅は南割下水(現北斎通り)のほど近くにあり、庭には潮入りの池や二階建ての土蔵、書斎とした四畳半の離れが造られていました。
黙阿弥は「本所の師匠」と呼ばれてこの地で6年間を過ごし、九代目市川團十郎のために「紅葉狩」、五代目尾上菊五郎のために「戻橋」などを書き上げました。
黙阿弥の人柄は彼の作品とは対照的で、穏やかで物静かであったとされています。
自らの死も予期していたのか、黙阿弥は財産分与や蔵書などの整理、友人への挨拶まわりなどなすべきことを終えて、明治26年1月22日に77年の生涯を閉じました。

平成27年1月

墨田区教育委員会

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(説明板より)


【東京都墨田区亀沢2-11】



史跡 | 16:18:45 | Comments(0)
三遊亭圓朝住居跡
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三遊亭圓朝住居跡
所在地 墨田区亀沢二丁目十三番七号

三遊亭圓朝(1839~1900)は、江戸時代後期から明治時代にかけて活躍した落語家です。
本名は出渕(いずぶち)次郎吉。
父は二代目三遊亭圓生の門人橘家圓太郎で、後に圓朝も圓生に弟子入りしました。
初舞台は弘化2年(1845)3月で、小圓太と名乗りますが、異父兄で僧侶の玄昌の勧めにより一時高座から離れました。
池之端の紙屋葛西屋で奉公したり、玄昌の住まう谷中の長安寺に母と同居したのもこの頃で、新作怪談の創作に影響を与えたと考えられています。
その後、再び圓生門に戻り17歳で圓朝を称します。
元治元年(1864)に26歳で両国垢離場(こりば)の昼席の真打となります。
人情噺、怪談噺、落し噺などで江戸落語を集大成し、とりわけ人情噺では落語の話芸をより高度な次元に押し上げました。
圓朝は明治9年(1876)10月に浜町から本所南二葉町23番地(この公園の南側、現在の亀沢2丁目12番)に移り、同28年に牛込に転居するまでの19年間をこの地で過ごしました。
この間、本所に住んだ薪炭商塩原太助をモデルにした名作『塩原多助一代記』を生み、明治22年4月には三遊派の隆盛を記念して木母寺境内に三遊塚を建立しました。
代表作に「真景累ヶ淵(しんけいかさねがふち)」「怪談牡丹灯籠」「怪談乳房榎」「塩原多助一代記」「文七元結(ぶんしちもっとい)」など多数あります。

平成25年3月
墨田区教育委員会

(説明板より)



【東京都墨田区亀沢2-13-7】



史跡 | 15:22:44 | Comments(0)
公立本所小学校跡
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公立本所小学校跡
所在地 墨田区亀沢四丁目11番15号 墨田区立竪川中学校

当地にほど近い亀沢三丁目13番地には、久保尊保(田安徳川家旧臣)が明治4年(1871)に開いた私塾、松川堂(しょうせんどう)がありました。
松川堂は明治7年5月に公立本所小学校となり、明治8年11月、当地に校舎が新築されました。
校舎は日本で本格的な洋風建築が普及する前に建てられた擬洋風建築(ぎようふうけんちく)の建物で、バルコニーに唐破風(からはふ)を付けた二階建ての洋風建物を中央に配し、その両側にガラス戸をはめ込んだ平屋の和風建物が接続していました。
本所小学校は、開校当時、近所に屋敷を構えた尾張徳川家より多額の寄附を受けました。(このため尾張学校とも呼ばれました)。
徳川家の資料の中には校舎を撮影した写真が残され、文明開化の息吹きを伝える建物が本所地域の子供たちの新しい教育の場になったことをよく伝えています。
児童256名、教員5名から始まった本所小学校は、明治44年(1911)には児童2,094名、教員30名を数えまでになり、廃校となる昭和21年(1946)までの間に8,000名を超える卒業生を送り出しました。

平成30年11月10日   墨田区教育委員会

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本所小学校は、近所に屋敷を所持した尾張徳川家より寄付を受けて開校し、尾張学校とも呼ばれました。
写真は、その尾張徳川家に伝来したものです(徳川林政史研究所提供)。

(説明板より)


【東京都墨田区亀沢4-11-15】



史跡 | 14:52:15 | Comments(0)
津軽稲荷神社
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津軽稲荷神社由来

津軽稲荷神社は青森県弘前城主津軽四郎為信10万石の下屋敷にて1万坪は明治43年の大水害と共に拂下られ太平町1丁目町会の所有となる
昭和7年町名変更の際錦糸1丁目町会の守護神となり祭神は伏見稲荷神社の分神にて町民の信仰厚く大正12年関東大地震及昭和20年戦災の為焼失昭和35年拝殿及社務所会館再建落成致しました
又辨財天は江之島辨財天の分神で鳥居は明治百年を記念して昭和44年再建されました
町民一同之信仰の的とされて居ります
尚津軽華子様常陸宮様との御結婚之際当町より津軽家に御祝品贈り御礼として礼状及記念品を頂戴致しましたので神社内に保存してあります

昭和58年  明友会

(社殿の張り紙より)


【東京都墨田区錦糸1丁目6-12】



史跡 | 14:36:25 | Comments(0)
再び両国界隈を散策する
昨日は、偕行社主催の安全保障の講演を聴きに上京・・・
で・・・一泊して・・・・
今日は、この間の両国界隈散策の時に回り切れなかった場所を、再び回ることにした。(笑)
両国界隈散策(徘徊?)第2弾である!(喜)
前回同様、錦糸町駅からスタートである。

錦糸町駅北口から両国駅に向かってテクテクと歩いていたら・・・
小さな神社を見つけた。

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この神社は「津軽稲荷神社」という小さな神社・・・
「津軽」というのが気になる。
社殿の張り紙によれば、青森県弘前城主津軽氏の下屋敷があった場所らしい。

次に向かったのは、「本所小学校跡」・・・
現在は墨田区竪川中学校のある場所である。

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タブレットの地図によれば、ここは「山岡鉄舟旧居跡」のはずなのだが・・・・
何処を探してもそれを示す標柱や石碑、説明板の類が見当たらない!(唖然)
校門の脇にあった説明板は「公立本所小学校跡」の説明板だけである。
あれぇ~おかしいなぁ~
地図が間違っているのか、それとも何かの理由があって、わざと山岡鉄舟を無視しているのか?(苦笑)
学校周辺をあまりウロウロしていると怪しまれるので・・・(大笑)
やむなく立ち去ることにした。

次に向かったのは「三遊亭圓朝住居跡」・・・・

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三遊亭圓朝は江戸時代後期から明治にかけて活躍した落語家である。
住居跡は、小さな公園になっていた。
ここで、拙者と同じように史跡巡りをしているグループと出会った。
同じようなことをする人がいるんだなぁ~(笑)

次に向かったのは「河竹黙阿弥終焉の地」・・・・

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道路のところに説明板が建っていた。
ここで、先ほど、「三遊亭圓朝住居跡」で出会ったグループにまた出会ったので、軽く挨拶したのだが・・・
なんとも冷ややかな態度・・・
俺たちの後を付けてきたのか?・・・と言わんばかりに睨まれた・・・(唖然)
おい、おい、おい・・・挨拶くらいしたらどうだ?
明らかに“団塊の世代”の連中である。(汗)
まぁ、“団塊の世代”に関わらず、こういう連中は結構多い・・・
特に海外で遭う日本人観光客などは、親の仇にでも遭ったように睨んでくるか、小馬鹿にした態度でソッポを向くか・・・いずれにせよ、挨拶も会釈も出来ない連中が多い・・・
そのくせ困ったときには急に親しげに馴れ馴れしく助けを求めてきたりするのである。(怒)
過去にそういう日本人に何人も出会ったが・・・
なんで、日本人というのは、そう身構えるのかねぇ~(苦笑)
先ほど会った時に会釈くらいしておけば良いものを・・・・
挨拶もなしに、いきなり自分の要件を言い出す。
その前に、まずは挨拶が先だろうって・・・(怒)
そういう時は、拙者は助けてやらないことにしている。(大笑)
「はぁ~そりゃぁ~困りましたねぇ~」「へぇ~大変ですねぇ~」「いやぁ~私にはわかりませんねぇ~」と軽くあしらうことにしている。(大笑)
この連中も、同類だろう・・・(大汗)
彼等が立ち去るまで近くで粘って・・・・(大笑)
彼等が立ち去ってから説明板を読む・・・・
「河竹黙阿弥」という名は聞いたことがあるような気がするのだが・・・
何をした人なのか全く知らない。(大笑)
説明板を読んで分かった!・・・狂言作者だそうだ。

さて・・・次は・・・と思ったが・・・
先程の連中と、また出遭ったのでは面白くない。
また後を付けてきやがった・・・と睨まれたのでは、折角の楽しい史跡めぐりが台無しである。
ということで、当初考えていたルートを諦めて、敢えて彼らが向かった方向とは別の方向へ向かうことにした。(笑)

ブラブラ歩いていたら、小さな神社のところに説明板が・・・
この神社は、「野見宿禰神社」というらしい・・・

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この「野見宿禰」というのは、相撲の神様なのだそうだ。
そういうことなのだろう・・・境内に歴代横綱の石碑が建っていた。

近くの「緑町公園」に行ってみたら、そこに説明板が3つほど建っていた。
一つは・・・「江川太郎左衛門屋敷跡前」
江川太郎左衛門は、代々の当主の名前で、有名なのは36代目の当主・江川英龍・・・
以前、伊豆の韮山の反射炉を見に行った時に江川英龍の銅像を見たし、屋敷も見学した記憶がある。
ふ~ん・・・東京にも住んでいたのか?(汗)
それにしてもこの説明板の「屋敷跡前」の「前」って、どういう意味なんだろう?
説明板の建っているこの場所ではないのか?(汗)
よくわからん・・・・

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そして、もう一つの説明板が、すぐ隣に建っている。
「津軽の太鼓・津軽家上屋敷跡」と書いてある。
最初に訪れた「津軽稲荷神社」には「下屋敷跡」と書かれてあったが・・・
それほど離れていない場所に下屋敷と上屋敷があったのか?

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この公園の隅に3つ目の説明板があった。
「葛飾北斎生誕地(墨田区亀沢付近)」と書いてあったが・・・・
「付近」ということは、この説明板が建っている場所ではないということなのかな?
実際の生誕地はピンポイントで、「ここだ!」と言えない・・・つまり、どこなのかハッキリとはわからないということかな?

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この公園の一角に「すみだ北斎美術館」という建物が建っている。
う~ん・・・どうしようかなぁ~
見てみようか、どうしようか・・・・ちょっと迷ったが・・・
今日は“徘徊”すると決めていたので、ここでゆっくり鑑賞なぞしては“運動不足の解消”にならぬ・・・
というわけで・・・更に歩くことにした。

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JR両国駅前を通過して、さらに歩き、両国橋に辿り着く・・・

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この橋のたもとの小公園に「大高源吾の句碑」があるとマップに記載されていた。
大高源吾という人は・・・・以前、赤穂の大石神社に行った時に、石像を見たような気がするが・・・(苦笑)

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句碑には、何の説明板も設置されていない・・・・(唖然)
奥に見える大きな石碑は「表忠碑」という石碑で「明治三十七八年役戦病死者」と題されていて、本所区で徴兵された戦病死者名が刻まれている。
が・・・説明板は設置されていない。
この公園に設置されていた説明板は「両国橋と百本杭」と題されたものだけ。
川岸を保護するための多数の杭が水中に打ち込まれていたという話・・・・
大高源吾の句碑に関しての説明板は欲しい所である。
何で建てないんだろう?

この小公園のすぐ近くに3つの説明板が並んでいる場所があった。

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一つは「旧両国橋・広小路跡」の説明板・・・
この位置に昔は両国橋が架かっていたそうである。
もう一つは「赤穂浪士休息の地」の説明板・・・
赤穂浪士が吉良邸に討ち入り後、泉岳寺に向かう前に、ここで休息をしたそうだ。
吉良邸から、それほど遠くない場所である。
ここで一息ついていたとはねぇ~
あとから吉良邸の追手が来るかもしれないとは思わなかったのだろうか?(苦笑)
そして、3つ目は「石尊垢離場(せきそんこりば)跡」の説明板である。
神奈川県の伊勢原市にある神社に参拝に出かける前に、ここで体を清めたそうだ・・・
はぁ?・・・・よくわかりませんが・・・
垢を落とした場所が「史跡」ねぇ~
へぇ~・・・・である。(笑)

さらに、少し歩いたら・・・またまた説明板を見つけた!
近づいて見てみたら・・・あれ?・・・・である。
これは・・・前回、来た場所である!(大汗)
ついこの間のことなのに、もう忘れている。
なにせ、方向音痴なものですから・・・・(大笑)
この間は、ここまで来ていたのかぁ~と今頃気が付いた次第・・・

さて・・・それでは帰りますか‥‥
ということで、両国駅まで戻り帰途に就く。

今回も、それなりに充実した時間が過ごせた。
ついでに、普段の運動不足も解消できたし・・・めでたし、めでたし・・・である。

日記 | 14:20:59 | Comments(0)
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