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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
60歳・・・還暦である。
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)
今さら、もう無理!(大笑)

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烏亭焉馬居住の地
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烏亭焉馬(うていえんば)居住の地
所在地 墨田区千歳2丁目14番

烏亭焉馬は江戸時代中期に活躍した戯作者(げさくしゃ)、狂歌師で、江戸落語を中興した人物です。
本名は中村英祝、通称を和泉屋和助、居住地にちなみ立川焉馬とも名乗りました。
寛保3年(1743)に本所相生町3丁目(現墨田区両国4丁目)に生まれ、文政5年(1822)に亡くなるまで堅川沿いに住まいを構えたことから、太田南畝(なんぽ)は『太平楽紀文』の序文で、「相生町のはへ(え)ぬき」と呼びました。
焉馬の父は大工棟梁、兄も山形庄内藩お抱えの棟梁でした。
焉馬も幕府小普請方(こぶしんがた)の大工棟梁を務めました。
演劇や茶番に通じ、俳諧や狂歌を嗜(たしな)むなど町人としては余裕のある暮らしぶりでした。
隠居の後は町大工棟梁として采配を振るい、家族は足袋屋や香堂を営み、さらにゆとりが増えます。
多くの文人と交流があった焉馬は、その人脈をもとに精力的に活動します。
まず、作品として両国の見世物を題材とした滑稽本や、現在でも上演される人気演目「碁太平記白石噺(ごたいへいきしろいしばなし)」などが発表されます。
天明6年(1786)、向島の料亭武蔵屋にて「落噺(おとしばなし)の会」が行われました。
焉馬の狂歌師仲間や競演作者たちが百人余り集い、その中には焉馬が贔屓(ひいき)にする五代目市川團十郎もいました。
その後、焉馬の自宅などで定会(月例会)が開かれるようになり、鹿野武左衛門(しかのぶざえもん)以来途絶えていた落語が復活しました。
この流れから初代三笑亭可楽(さんしょうていからく)や初代三遊亭圓生(さんゆうていえんしょう)らの職業落語家が誕生し、現在伝統をつないでいます。
ゆえに焉馬は、江戸落語中興の祖と呼ばれています。
現在、牛嶋神社の境内にある焉馬の狂歌碑(墨田区登録有形文化財)には「いそがずば濡れまじものと夕立のあとよりはるる堪忍(かんにん)の虹 談洲楼(だんしゅうろう) 烏亭焉馬」、裏面には「文化七歳庚午三月吉日建 本所堅川相生街 中村和助英祝」と刻まrています。

平成22年3月
墨田区教育委員会

(説明板より)


【東京都墨田区千歳2-14】



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史跡 | 18:12:20 | Comments(0)
塩原橋
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塩原橋の由来

塩原橋(しおばらばし)は関東大震災の復興事業の一つとして、昭和3年11月に架けられました。
当時は木橋でしたが、昭和29年3月、現在の鋼桁橋(こうげたばし)に架け替えられたものです。
橋名は江戸時代の末「本所には過ぎたるものが二つあり、津軽大名炭屋塩原」と謳われた塩原太助がこの辺りに住んでいたことから、それに因んで付けられたものです。
太助は上州(群馬県)沼田から江戸に出て薪炭(しんたん)商人として成功した人ですが、その立志伝は明治の初め、南二葉町(亀沢3丁目)に住んでいた三遊亭円朝によって人情話(にんじょうばなし)に仕立てられ、その後浪花節(なにわぶし)や演劇にもなりました。
歌舞伎の「塩原多助一代記」は明治25年に初演され、愛馬の別れで大変な評判をとったそうです。
天明元年(1781)当時、本所相生(あいおい)町(両国3丁目)に住んでいた太助が、亀戸天神に寄進した燈籠(とうろう)は今も境内に残っています。

平成4年3月
墨田区

(説明碑・銘板より)


【東京都墨田区両国】



史跡 | 17:54:14 | Comments(0)
塩原太助炭屋跡
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江戸の町
塩原太助炭屋跡

ここに、塩原太助(1743~1816)の炭屋がありました。
太助は、文化年間(1804~1817)の商人で、当時の本所相生町2丁目に炭屋を開きました。
18才で江戸に出、職を変えながら42才で炭屋山口屋に奉公しました。
独立後、木炭の粉を丸くこね固めた炭団が当たり、「本所に過ぎたるもの二つあり、津軽屋敷に炭屋塩原」と謳われるほどの成功を収めました。
名人と呼ばれた落語家三遊亭圓朝は、その人生を「塩原多助一代記」として作品化しました。
故郷、上野国(現在の群馬県みなかみ町)にいた頃の愛馬との悲しい別れや江戸での苦労の末に成功を収めていく姿に共感が集まり、その後も芝居や講談、浪曲などの数多くの題材となりました。

墨田区

(説明板より)


【東京都墨田区両国3-4-1】



史跡 | 17:35:17 | Comments(0)
前原伊助宅跡
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忠臣蔵
前原伊助宅跡

この辺りに、前原伊助宅がありました。
伊助は、赤穂浪士の四十七士の一人で、浅野家家臣前原自久の長男として生まれ、延宝4年(1676)に家督を継ぎます。
金奉行として勤仕したため、商才に長けていました。
浅野内匠頭の刃傷事件後は江戸急進派として単独で別行動を取りました。
初めは日本橋に住んでいましたが、やがて吉良邸裏門近くの本所相生町2丁目に移り住み、「米屋五兵衛」と称して店を開業し、吉良家の動向を探りました。
その後、大石内蔵助と行動をともにしました。
討ち入りの直前には、亡君の刃傷事件から討ち入りまでの経過を漢文体で克明に書き綴った「赤城盟伝」を著しています。

墨田区

(説明板より)


【東京都墨田区両国3-2-4】



史跡 | 16:31:27 | Comments(0)
江東義塾跡
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絵画と文学
江東義塾跡

文豪、夏目漱石が明治19年(1886)から約1年間教師をしていた私立学校江東義塾はこの辺りにありました。
当時漱石は、大学予備門(一高)で学んでいましたが、ここで教師をするようになってから、さらに学業に励み、ほとんどの教科で首席でした。
漱石は「夏目漱石全集」(筑摩書房)の「談話」の中で、「その私学は有志が協同で設けたもので、・・・・・月に使えるお金は5円で、少額であるが、不足なくやって行けた。時間も、午後2時間だけで、予備門から帰って来て教えることになっていた。だから、夜は落ち着いて自由に自分の勉強をすることができた。」といったことが書かれています。

墨田区

(説明板より)


【東京都墨田区両国3-9-1】



史跡 | 15:21:19 | Comments(0)
吉良邸裏門跡
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忠臣蔵
吉良邸裏門跡

吉良邸の裏門はこの辺りにありました。
赤穂浪士討ち入りの際、裏門からは大石主税以下24名が門を叩き壊して侵入、寝込みを襲われ半睡状態に近い吉良家の家臣を次々と斬り伏せました。
吉良家にも何人か勇士がいましたが、寝巻き姿では鎖帷子を着込む完全武装の赤穂浪士には到底敵わなかったようです。
広大な屋敷の中で1時間余り続いた討ち入りは、壮絶なものでしたが、吉良家側の死傷者が38名だったのに対し、赤穂浪士側は2名が軽い傷を負っただけでした。

墨田区

(説明板より)


【東京都墨田区両国3-10附近】



史跡 | 14:55:27 | Comments(0)
吉良邸跡
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忠臣蔵
吉良邸跡

吉良上野介義央の屋敷は広大で、東西七十三間、南北三十五間で、面積は2550坪(約8400平方メートル)だったとされています。
吉良上野介が隠居したのは元禄14年(1701)3月の刃傷事件の数ヵ月後で、幕府は呉服橋門内にあった吉良家の屋敷を召し上げ、代わりにこの本所二ツ目に屋敷を与えています。
現在、吉良邸跡として残されている本所松坂町公園は、当時の86分の1の大きさに過ぎません。
この公園内には、吉良上野介座像、邸内見取り図、土地寄贈者リストなどの他、吉良上野介を祀った稲荷神社が残されています。

墨田区

(説明板より)


【東京都墨田区両国3-13-9】



史跡 | 14:43:35 | Comments(0)
駆逐艦「不知火」の錨
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錨(いかり)の由来

この錨は日露戦争(1904年~1905年)で活躍した日本海軍の駆逐艦「不知火(しらぬい)」のものである。
この艦は英国ソーニー・クロフト社製造・起工明治31年・進水32年・326トン・(艦長63.5メートル・5470馬力・30ノット・火砲6門・発射管2基・煙突2基)の構造である。
錨の裏側にあるアルファベットと1898の刻印は錨の製造年と推定される。
猶この錨は両国1丁目の鉄鋼業岡田商事(旧岡田菊治郎商会)が軍艦の解体作業で得たのを昭和の初年に江東(現両国)小学校に寄贈したものである。

平成3年
両国(相生・江東)小学校同窓会

(説明板より)


【東京都墨田区両国4-26-6・両国小学校】



史跡 | 14:32:00 | Comments(0)
芥川龍之介文学碑
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芥川龍之介 文学碑

芥川龍之介は、明治25年(1892)3月1日、東京市京橋区入船町に新原敬三、ふくの長男として生まれました。
辰年辰の日辰の刻に生まれたのにちなんで龍之介と命名されました。
生後7ヶ月の時、母ふくが突然発病したために、本所区小泉町15番地(現両国3丁目)にに住んでいたふくの長兄芥川道章に引き取られ、13歳の時芥川家の養子となりました。
芥川家は旧幕臣で江戸時代からの名家で、道章は教養趣味が深く、文学、美術を好み、俳句や盆栽に親しむとともに南画をたしなみ、一家をあげて一忠節を習い、歌舞伎を見物するなど江戸趣味豊かな家庭でした。
本所は龍之介の幼児時から少青年期までの大事な時期を育んだ場所で「大導寺信輔の半生」「本所両国」などの作品にその一端を見ることが出来ます。
龍之介は明治31年回向院に隣接する江東尋常小学校付属幼稚園に入園、翌年同小学校(現領国小学校)に入学しました。
明治38年(1905)府立第3中学校(現両国高等学校)に入学、同43年成績優秀により無試験で第一高等学校第一部乙類に入学しました。
その後大正2年東京帝国大学英文科に入学、同5年卒業しました。
東大在学中、夏目漱石の門に入り同人雑誌「新思潮」「新小説」に優れた短編を発表して文壇に華やかに登場しました。

この文学碑は龍之介の代表作の一つである「杜子春」の一節を引用したものです。
この両国の地に成育し、両国小学校で学んだ近代日本を代表する作家、芥川龍之介の人生観を学び氏の文才を偲ぶものとして両国小学校創立百十五周年の記念事業として、平成2年10月に建立されたものです。

(説明板より)


【東京都墨田区両国4-26-6・両国小学校】



史跡 | 13:54:00 | Comments(0)
勝海舟生誕の地
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勝海舟生誕の地
所在地 墨田区両国4丁目25番

勝海舟は、文政6年(1823)正月30日、ここにあった男谷精一郎の屋敷で生まれました。
父惟寅(小吉)は男谷忠恕(幕府勘定組頭)の三男で、文化5年(1808)7歳のとき勝元良に養子入りし、文政2年に元良の娘のぶと結婚、男谷邸内に新居を構えました。
海舟が男谷邸で生まれたのは、このためだと考えられます。
海舟は7歳までの幼少期をこの地で過ごしました。
その後は、旗本天野左京自宅2階(現亀沢2丁目3番)や代官山口鉄五郎の貸家(現亀沢3丁目6番)を転々とし、ようやく落ち着いたのは天保初年、旗本岡野融政の貸地(現緑4丁目25番)に転居してからのことでした。
海舟は、赤坂に転居する弘化3年(1846)までそこで暮らし、島田虎之助(豊前中津藩士)に就いて剣の修行に励む一方、向島の弘福寺に通い参禅していたと伝えられています。
海舟が海外事情に関心を寄せはじめた時期は分かりませんが、天保14年(1843)21歳の時には師匠島田のすすめで蘭学者永井青崖(福岡藩士)に師事し、嘉永3年(1850)には「氷解塾」を開いて西洋兵学を教授しはじめました。
米国使節マシュー・ペリーが浦賀に来航したのはまさにその頃、嘉永6年6月3日のことでした。
海舟は幕府首脳部に独自の海防論を呈し、安政2年(1855)正月には目付大久保忠寛の推挙をうけて異国応接掛手附蘭書翻訳御用となり、翌3年に講武所砲術師範役、同6年に軍艦操練所教授方頭取に就くなど、活躍の場を広げていきました。
そして、同7年正月には日米修好通商条約の批准使節に随伴し、軍艦咸臨丸の艦長として太平洋横断に成功しました。
また、帰国後も軍艦操練所頭取や軍艦奉行を務めるなど、政局の混迷の中でますます重要な役割を担うようになったのです。
慶応4年(1868)3月に行われた西郷隆盛との会見は、徳川家の存続と徳川慶喜の助命、無血開城を実現に導き、維新期の混乱収拾に力を発揮した海舟の代表的な事績となりました。
海舟は新政府で高官に任ぜられますが、明治8年(1875)11月に元老院議官を辞した後は著述活動や旧幕臣の名誉回復、経済支援に尽力しました。
同19年(1886)5月には酬恩義会を創設して将軍家霊廟の保存を図るなど、最期まで旧幕臣としての意識を持ち続けていました。
明治32年(1899)1月19日、海舟は77歳で病没。
洗足池畔の墓で静かに眠っています。

平成23年3月
墨田区教育委員会

(説明板より)


【東京都墨田区両国4-25】



史跡 | 13:21:57 | Comments(0)
吉良邸正門跡
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忠臣蔵
吉良邸正門跡

この辺りに吉良邸正門がありました。
元禄15年(1702)12月14日、寅の刻(午前4時)の七つ鐘を聞いた後、正門から大石内蔵助以下23名が用意した梯子で邸内に侵入して、内側から門を開け、「浅野内匠家来口上」を玄関前に打ち立てて乱入しました。
赤穂浪士は正門、裏門の二手に分かれて討ち入り、大声を上げながら、百人以上の大勢が討ち入ったように装いました。
これに動揺した吉良家家臣の多くが外に飛び出そうとしました。
しかし、弓の名手、早水藤左衛門らが侍長屋の戸板に向かって次々と矢を射掛けて威嚇し、出口を固められたため、飛び出すこともできず戦闘不能になったといわれています。

墨田区

(説明板より)


【東京都墨田区両国3-6-7】



史跡 | 13:06:25 | Comments(0)
本因坊屋敷跡
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江戸の町
本因坊屋敷跡

ここに本因坊屋敷がありました。
本因坊家は、囲碁の名門で、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の3人に仕えた日海(一世本因坊算砂)を開祖とする家系で名棋士を輩出してきました。
「本因坊」の名は、算砂が住職を務めた寂光寺の塔頭の一つに由来しています。
もともとその拝領地は芝金杉にありましたが、幕府に接収されたため、その代地として元禄元年(1688)、この場所が屋敷となりました。
江戸期を通じて、常に囲碁四家元(他に、安井家、井上家、林家)の筆頭の地位にあり、道策、大和、秀和、秀策、秀栄などの棋士を生んでいます。
特に江戸末期の秀策は、史上最強の棋士として「棋聖」と呼ばれました。
現在は、実力制で争われる多くのタイトル戦のさきがけとして名が残っています。

墨田区

(説明板より)


【東京都墨田区両国3-5-7】



史跡 | 12:22:15 | Comments(0)
長谷川平蔵の旧邸
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鬼平情景
長谷川平蔵の旧邸

付け火が元の明和9(1772)年の目黒行人坂の大火は約1万5千人が亡くなったといわれ、明暦の大火に次ぐものでした。
その下手人を捕えたのが、平蔵宣以の実父、長谷川平蔵宣雄です。
この手柄で、同年秋に京都町奉行所に出世しましたが、年号が変わった翌、安永2(1773)年6月に客死してしまいました。
家督を継いだ平蔵宣以は天明7(1787)年、42才の時に火付盗賊改方の長官に就任することになります。
京都へ家族で移るまで住んでいたのが、入江町の屋敷でした。
義母に「妾腹の子」といじめられ、その反発で屋敷を飛び出し、本所・深川を根城に「入江町の銕」と呼ばれ、後に密偵となる相模の彦十などを引き連れ、放蕩無頼の青春を送っていました。

墨田区

(説明板より)


【東京都墨田区緑4-12】



史跡 | 11:59:53 | Comments(0)
勝海舟居住の地
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勝海舟居住の地
~旗本岡野氏屋敷跡~
所在地 墨田区緑4丁目35番6号

勝海舟(麟太郎)は、文政6年(1823)に両国にあった父惟寅(これとら)の実家、男谷(おたに)氏の屋敷(現区立両国公園)で誕生しました。
その後、父母とともに本所の旗本屋敷を転々としましたが、天保2年(1831)頃ここにあった岡野氏の屋敷に落ち着き、10代後半までの多感な時期を過ごしたといわれています。
麟太郎は後に幕臣として出世を果たし、激動の時代に活躍の場を広げてゆきます。
麟太郎が世話になった岡野氏は、後北条氏の旧臣板部岡江雪(いたべおかこうせつ)を祖とする旗本で、文政9年12月の屋敷替を経て、同10年3月ごろ当地に移住していました。
家の経営費を捻出するための屋敷替であったようで、旧知行所に伝わる資料によれば、旧居を担保に数百両の金を用立て、代わりに旧居の半分ほどしかない屋敷に移住していたようです。
幕府創業期より続く由緒ある武家とはいえ、岡野氏の家計は大変逼迫(ひっぱく)していたのです。
このため、幕末維新の時代ともなれば家来を召し抱えるのも容易でなく、一人分の給与さえ支払えぬ事態に陥ります。
正月に餅をつく金さえなかったという貧しい下級旗本の家に生まれた麟太郎は、こうした武家凋落(ちょうらく)の厳しい時代に成長し、大志を抱いて力強く立身していったのです。

平成25年1月
墨田区教育委員会

(説明板より)


【東京都墨田区緑4-35-6】



史跡 | 11:09:46 | Comments(0)
両国を散策
昨日、「近代史検証会」の会合に参加するため上京して一泊した。
今日は、そのまま真直ぐ帰宅してもいいのだが・・・
それでは、ちょっともったいない気がする。(苦笑)
普段の運動不もあるし・・・少し歩こうかなと思い、今日は大好きな史跡巡りをすることにした。

錦糸町のホテルをチェックアウトして、両国方面へ向かい歩く。
タブレットの地図を参考にしながらの史跡散策である。

最初に辿り着いたのは・・・・

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(勝海舟居住の地)

勝海舟は、両国の父親の実家で誕生後、父母と共に本所の旗本屋敷を転々とし、その後、この地に落ち着いて、10代後半までここに住んでいたらしい。

次に出会ったのが・・・

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(勝海舟揺籃の地)

「五柱稲荷神社」という小さな神社に「史跡 勝海舟揺籃之地」の標柱が建っていたが、その他には説明板とかはなかった。
というわけで・・・「揺籃の地」って、具体的にどういうことなのか全く分からない・・・(大汗)
説明板を設置してくれたらいいのになぁ~・・・・と、ちょっと残念・・・

次が・・・・

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(長谷川平蔵の旧邸)

長谷川平蔵・・・ねぇ~・・・(汗)
『鬼平犯科帳』とかっている小説の主人公だったっけ?
へっ?・・・・長谷川平蔵って実在の人物だったの?(苦笑)
小説も読んだこともなければ、ドラマも見たことがないから、全然知らないんですけど・・・・(苦笑)

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(煙草屋・壺屋)

「煙草屋・壺屋」って『鬼平犯科帳』に出てくるお店らしい。
実在していたのか、作者の創作なのか・・・
もう、こうなると、フィクションとノンフィクションの区別がつかない・・・(涙)
時代小説なんて読まない拙者にはチンプンカンプンである。
好きな人は興奮して歩き回るんだろうなぁ~(大笑)

次は・・・・

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(本因坊屋敷跡)

「本因坊」というのは囲碁の「本因坊」のこと・・・
その人の屋敷が、吉良邸のすぐ近くにあったらしい。
「吉良邸討入り」の時も、ここに住んでいたのだろうか?
どうも、この時代のことは興味がないので、さっぱりわからないが・・・(大汗)

次が・・・

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(吉良邸正門跡)

吉良邸は、かなり広かったという話を聞いたことがあるが・・・
ここに正門があったのですか!・・・・である。(笑)
ここから大石内蔵助たちが突入したのかな?
いっそのこと、旧吉良邸の敷地を全部買い取って、当時の屋敷を映画のセットみたいに復元したら、面白いだろうなぁ~と思う。
かなりの観光名所になるような気がしますが・・・(笑)

次は・・・・

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(勝海舟生誕の地)

ここには、平成16年・・・つまり15年前に来たことがある!
が・・・あれぇ~?・・・である。
当時は小さな「児童公園」という感じだったように記憶しているのだが・・・
ずいぶんと綺麗に整備されている。
大きな説明板なんかも設置されているし・・・・(汗)
まぁ、15年も経っているんだから変わっているのは当たり前か?(苦笑)

続いて向かったのは、「両国小学校」・・・・
ここに、芥川龍之介の文学碑と、その近くに日露戦争で活躍した駆逐艦「不知火」の錨がある。

261_convert_20190727105647.jpg(芥川龍之介・文学碑)

265_convert_20190727105718.jpg(駆逐艦「不知火」の錨)

次は、ぐるっと戻って・・・・(笑)

276_convert_20190727110019.jpg(吉良邸跡)

ここにも16年前に来たことがある。
たいして変わっていないように思うが・・・
吉良さんの座像が、いつの間にか設置されていた!

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しかし・・・やっぱり、この一角だけしか残されていないというのは残念である。
周囲の土地を買い取って、もう少し広げたらいいのになぁ~・・・と、やっぱり思ってしまう。(苦笑)

次は・・・・

281_convert_20190727111138.jpg(吉良邸裏門跡)

この裏門からは、大石主税らが突入したらしい・・・

このすぐ隣にあったのが・・・

284_convert_20190727112535.jpg(江東義塾跡)

このあたりに、夏目漱石が教師をしていた、江東義塾という学校があったらしい。
その後、この江東義塾という私学校は、どうなったんだろう?
「慶応義塾」みたいに、その後も存続していたら、今頃「江東義塾大学」なんていう大学が出来ていたかも・・・(大笑)

次は・・・・

288_convert_20190727113732.jpg(前原伊助宅跡)

赤穂義士の一人、前原伊助という人が、吉良邸裏門近くの、このあたりに住んで吉良邸の動向を探っていたらしい。
昨年、赤穂に行って大石神社などを訪れたが・・・
前原伊助・・・ねぇ~
全然覚えていない・・・(大汗)
「忠臣蔵」のファンは、こういう場所に興奮するんだろうが・・・(苦笑)
拙者は、さっぱり・・・わからぬまま・・・である。(大汗)

次は・・・
もっと分からない人・・・(大笑)

293_convert_20190727114332.jpg(塩原太助炭屋跡)

塩原太助という人・・・芝居や講談などの題材になった人らしいが・・・
全く知らない・・・(大汗)

ドンドン歩き、川の方へ行ってみたら・・・

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(烏亭焉馬居住の地)

烏亭焉馬(うていえんば)という人は、江戸中期の戯作者(げさくしゃ)で、江戸落語の“中興の祖”みたいな人だったらしい。
この川沿いに住んでいたらしい。
いくらなんでも、この橋のたもとの、この狭い場所に家があったとは思えないが・・・(笑)
このあたり・・・ということから、この狭い一角に説明板を立てたのではないかと思う。

時刻は、ちょうどお昼になる・・・・
両国駅に向かい、食事をして、帰宅する。
今日は、午前中、結構歩き回り、いい運動になった。
歩いてみると、いたるところに「説明板」が設置されていて、散策するには楽しい地域である。
今日はいい一日だった・・・・満足、満足・・・

日記 | 10:27:14 | Comments(0)